心の貧しい人々は、幸いである。
2017年01月29日
マタイ福音書5章1節〜12節
今、読みました今日の福音書は、「山上の説教」と言われるところで、イエスさまが、山の上で、弟子たちや群衆に向かって説教されたと伝えられるところです。
マタイ福音書によりますと、ここからイエスさまの長い説教、お話がはじまり、5章、6章と、7章まで続きます。そして、この個所は、その長い説教の「語り始め」いうか冒頭の部分で、多くの人々に知られている有名な聖書個所です。
今日は、この最初の5章3節の言葉、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」だけを取り上げて、ご一緒に考えてみたいと思います。
まず、最初に、「幸いである」という言葉で始まる9つの項目が挙げられています。この「幸いである」は、ギリシャ語で、「マカリオス」というこの言葉は、「幸福な、幸いな、祝福に満ちた、恵まれた」という意味です。新約聖書には40回この言葉が使われていて、マタイによる福音書では、13回使われています。(使徒言行録20:35「与えるほうが受けるより幸いである」パウロが、イエスの言葉を引用して用いている。)このように、聖書の中でもよく出てくる祝福の言葉です。この言葉、人と神さまとの関係を表す言葉で、人が心から神さまに信頼を寄せ、神さまを恐れることによって、「幸い」が与えられるという内容を持っています。
ところが、いつも私たちが使っている「幸い」とか、「幸せ」とか、「幸福」という意味とは、違うのだということを知って頂きたいのです。それは、私たちが努力して、「幸い」になって、喜ぶのではなく、神さまによって「良し」とされる。神さまに「喜ばれる」という意味なのです。
さて、最初の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という言葉ですが、これも私たちが、日頃、考えているる常識的な言葉の意味とは、反対のことが言われています。
私たちには「心の豊かな人は幸いである」と言われたほうが、納得できます。ところが、イエスさまは、「心の貧しい人々は、幸いである」と言われるのです。まったく逆のことを言っておられます。
では、ここでいう「心の貧しい人」とは、私たちが思っている「心の豊かな人」とは、どういう心の状態のことをいっているのでしょうか。
豊かな人とは、精神的にも、物質的にも、満ち足りている人を言います。生活に困って、その日の食べ物や、寝る場所さえなく、心配で、おどおどしているような人は、あまり豊かな人とは言いません。「心の豊かな人」とは、お金持ちで、いわゆる裕福な生活をしている人のことを言います。何不自由なく、余裕を持って生きている人、そして、性格もいいし、教養にも溢れていて、人からも尊敬されていて、心がゆったりしている人というイメージを持ちます。
これに対して、貧しい人は、収入も無く、今日、明日の食べ物にも事欠き、着るものや寝る所さえない、その日の暮らしに追われる生活している人ということができます。
このような人間の姿をイエスさまからご覧になると、豊かな人、裕福な人、お金持ちというのは、頼るものがいっぱいある人たちのことだということができます。お金がある。力がある、地位もある。教養もある。友人もいる。困った時には助けてくれる人もいる。お金にも、人にも、頼ることができる。お金を持っていると、そのお金の魅力に惹かれて人が寄ってくる。何でも言うことをきいてくれる。
そのような、その場ですぐに効き目がある、目に見える力により頼ことができる、お金が「神」になり、いや、その力を使って、自分自身が、神になったかのように思いこんでしまうこともできます。
これに対して、貧しい人というには、今の状況から助かりたいと心から願っている人のことです。自分には、力もない、頼るべきお金も、地位も、名誉もない、頼れる人もない、そのような状況の人をいいます。
イエスさまが言われるのは、このような貧しい人が、神さまによって、「幸いなもの」とされる。神さまから祝福される。神の目から「良し」とされるということです。
それは、なぜでしょうか。それは、貧しい人は、その力を持っていないからです。返すあてのない人にはお金も貸してくれません。誰も助けてくれないからです。
自由もない。楽しみもない。他に頼るものは何もない。もし、できることがあるとすれば、追いつめられて、ただひたすら、神さまに頼るしかない。このような心を状態を「良し」と言われるのです。
多分、豊かな人、金持ちも、祈るでしょう。貧しい人も祈るでしょう。しかし、その熱心さにおいて、切実さにおいて、積極さにおいて、違いがあります。貧しい人の祈りは、生きること、そのものがかかっています。命がかかっています。
貧しい人とは、このように、神さまだけが、わたしを守ってくださる方であると信じ、神さまにのみ信頼を寄せる者ということです。別の言葉で言いかえますと、神さまの前に「へりくだった者」、「敬虔な者」という意味である。
詩編18編26節〜28節 にこのような言葉があります。
「あなたの慈しみに生きる人に
あなたは慈しみを示し
無垢な人には無垢に
清い人には清くふるまい
心の曲がった者には背を向けられる。
あなたは貧しい民を救い上げ
高ぶる目を引き下ろされる。」
「天の国はその人たちのものである。」
その人たち、すなわち心の貧しい人たちには「天国」、「神の国」「ほんとうの幸せ」を与えると言われます。
神さまが与える「ほんとうの幸せ」とは、金持ちにしてやろうとか、この世の力を与えようということではありません。周りにいる金持ちや裕福な人たちと同じになることが、ほんとうの幸せではありません。
神さまのみを信頼し、神さまのみを恐れる人が、持つことができる幸せです。神さまの愛を受ける、神さまとの関係でのみ持つことができる世界に、境地に、神の囲いの中に入れて下さることを約束して下さっているのです。
1979年に、マザー・テレサは、ノーベル平和賞を受けました。この時、マザー・テレサは言いました。「わたしは受賞に値しないが、世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました」と。受賞後も、マザー・テレサは、朝4時に起きて、シスターたちと一緒に、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活を、毎日、変わらず行い続けました。
マザー・テレサは、3度、日本に来ています。1981年、最初に日本に来られた時、わたしは、ひと目この方を見たくて(会いたくて)、東京で開催された講演会に出かけました。
その時の、マザーの言葉が耳に残っています。「日本は、インドに比べると経済的には豊かな国です。しかし、ほんとうはインドよりも貧しい」と。経済的に、物質的に豊かになればなるほど、心が貧しくなる。幼児虐待やいじめが絶えません。
この時、マザー・テレサは、日本にも、そのような子どもを収容する施設をつくりますと言いました。子どもの命をわたしが預かります。」と言いました。私たち日本人の心の貧しさを指摘されました。それはほんとうに心が貧しいのです。
イエスが求めておられる「心の貧しい人」は、マザー・テレサが指摘するような「心の貧しい人」とは少し違います。日本人が指摘される「心の貧しさ」は、経済的な力と工業技術、富によって裏付けられた物質主義、目に見えるもののみを追い求める「豊かさ」の中の「心の貧しさ」です。
ほんとうの神さまを知ろうともしない、神さまを恐れない、神さまを信頼しない「心の貧しさ」です。
イエスさまが、祝福し、イエスさまが求められる「心の貧しい人」は、「貧しい人の心」、ひたむきに神にのみ救いを求める心、「謙遜」「謙虚」な心を、言っておられるのです。
この言葉は、山上の説教を始める、語り出しの、冒頭の言葉でした。これからイエスさまの教えに耳を傾けるために、ほんとうに正しく聴くために、理解するために、求められる心構え、心の準備を語っておられます。
豊かな社会の中で生きる、心が貧しいと指摘される私たちは、ほんとうに「貧しい人の心」、謙遜、謙虚さを持ち、イエスさまの教えに耳を傾けることができているでしょうか。私たちは問われています。
〔2017年1月29日 顕現後第4主日(A年) 聖光教会〕