しかし、わたしは言っておく。

2017年02月12日
マタイによる福音書5章21節〜24節、27節〜30節  今読みました聖書の個所は、これを聞いた当時のユダヤの人々には、びっくりするような教えでした。  まず最初に、21節から24節についてですが、イエスさまは言われました。 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」とあります。  旧約聖書の出エジプト記20章13節に「殺してはならない」と記されています。これは、モーセの十戒の中の第6番目の掟です。また、民数記35章30節、31節には、「人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。‥‥‥ 彼は必ず死刑に処せられなければならない。」と記されています。人を殺した者は、必ず死刑に処するという裁きを受けます。「目には目を、歯には歯を」、命には、命をもって償うというのが、その当時のユダヤ人にとっては当たり前のことでした。  ところが、イエスさまは、「しかし、わたしは言っておく」と前置きして、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われました。イエスさまが、人々に求める生き方は、人に「バカ」というだけで、「愚か者」と云うだけで、裁きを受ける、死に値いすると言われます。 その内容は、目には目を、歯には歯をどころか、目には命を、歯には命をと言わんばかりの厳しい報復です。そんなにバランスがとれない「裁き」があっていいのかと思います。  しかし、このイエスさまの教えの裏には、イエスさまが言いたいことがあります。  それは、「人を裁くな」、「ほんとうに、人が、人を裁くことができるのか」という主張、問いかけがあります。  さらに、マタイ福音書の5章27節〜29節を見たいと思います。 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」 「『姦淫するな』と命じられている」。これもまた出エジプト記20章14節、申命記5章18節に記されている「姦淫してはならない」というモーセの十戒の7番目の掟です。  姦淫とは、男女間の不道徳な行為、みだらな行為、未婚者の性行為、不倫、強姦などが挙げられます。申命記22章24節には、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。‥‥その2人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」と、その当時の性問題に関す厳しさ、その罪と罰について細かく定められています。  ところが、イエスさまは、これに対しても、「しかし、わたしは言っておく」と前置きした上で、みだらな思いで他人の妻を見る者は、だれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」と教えられます。  現在の言葉で言い換えれば、道を行く美しい女性を見て、きれいだなと思ったら、それはもう姦淫罪を犯したのと同じだ、右の目がその人を見たらその目をえぐり出して、捨ててしまえと言われるのと同じです。  私なんか、目がいくつあっても足りません。すでに何回も盲人になっています。イエスさまの裁きは、その当時でも、現在でも、私たち人間が、どんな人間でも、足もとにも及ばないほど、厳しいものだということができます。  では、なぜ、イエスさまは、このような不可能と思われるような生き方を、私たちに求めておられるのでしょうか。このような厳しい裁きを命じられるのでしょうか。  そこには、その当時のユダヤ人が持っていた「律法主義」があります。  ほんとうに、人間が人間を裁くことができるのか、誰が人を裁くのかという根本的な問題を、人々に突きつけておられるのです。  その答えを知るために、聖書のある個所を思い出して頂きたいと思います。  ヨハネによる福音書第8章1節〜11節に、「姦通の女」という見出しがついた、イエスさまと一人の女性の出来事が記されています。  イエスさまは、ある時、朝早く、神殿の境内に入られました。すると、多くの人々がイエスさまのところにやって来たので、イエスさまは座って教え始められました。  そこへ、ユダヤ教の律法学者たちやファリサイ派の人々が姦淫を犯している現場で捕らえられた女を連れて来て、イエスさまが話しておられる真ん中に立たせました。結婚している女性か、独身の女性かわかりません。当時、神殿の周りでは、神殿娼婦といわれる体を売って生計を立てている人もいたそうですから、そういう女性だったのかも知れません。  いずれにせよ、この女の人は、姦淫の現場を取り押さえられて、引っ張ってこられました。そして、律法学者やファリサイ派の人々は、イエスさまに言いました。 「先生、この女は、姦通をしているときに捕まりました。姦淫を犯したこういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法に記されています。掟に従って、これからこの女に石を投げて殺そうと思いますが、ところで、あなたはどうお考えになりますか。」  彼らは、ほんとうにどうして良いのかわからなくて、イエスさまに尋ねに来たのではありあせん。イエスさまを試して、訴える口実を得るために、このように言ったのです。これは、イエスさまにとって、非常に危険な質問です。  もし、イエスさまが、そんな女は、モーセの掟に従って石で打ち殺されるべきだと言ったら、日頃、神さまはすべての人の罪を赦してくださる、神さまはすべての人を愛してくださる、人を愛しなさいと説いているイエスさまの教えと矛盾します。イエスさまに新しい教えを求めて集まって来ている民衆が失望することになります。  反対に、イエスさまが、「この女を打ち殺してはいけない」と言うと、モーセの律法を否定することになります。この女は、姦淫の現場で押さえられたのですから、誰が見ても明らかに姦淫の罪を犯しています。そんな女をも「赦せ」というと、ユダヤ人の感覚からすると、社会の公序良俗に反すると言い、さらに、モーセの律法や神の言葉を冒涜するものだということで、反対にイエスさまに、石を投げてつけて殺そうとする口実を与えることになります。 イエスさまは、かがみ込んで、黙って、指で地面に何か書き始められました。律法学者やファリサイ派の人々は、いきり立って、イエスさまに、しつこく問い続け、迫りました。  すると、イエスさまは、身を起こして言われました。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」  そしてまた、身をかがめて地面に何かを書き続けられました。これを聞いた人たちは、両手に石を持って、今にも石を投げようとしていた人たちの動きが止まりました。  そして、年を取った者から順に、ポトリ、ポトリとその場に石を落とし、一人また一人と、立ち去って行きました。  そこには、イエスさまと、人々の真ん中に、連れられて来た女だけが残っていました。イエスさまは、身を起こして言われました。 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 殺されようとする恐怖のために地面に突っ伏し、石を投げつけられようとしたその女が、顔を上げて周りを見回し、 「主よ、だれも」と言いました。  すると、イエスさまは言われました。 「わたしも、あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」  イエスさまは、この出来事の中で、言葉を述べておられるのは、ただ3つだけです。  まず、第一の言葉は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉です。このひと言は、罪とは何か、罪人とは誰かという問題を、そこに集まっている人たち一人一人に突きつけました。  あなたたちは、人に向かって、人の罪は追求するけれども、ところが、「あなた自身は、罪を犯したことは一度もないのですか」と問われました。人を糾弾する矢が、自分に方に向かって飛んできたのです。自分の問題として突きつけられました。律法学者やファリサイ人、そこにいるユダヤ人たちは、この女は、自分たちが住む社会の秩序を破った、神の正義を踏みにじった、社会に害を与えた加害者だ、そのために、自分たちは、この女から害を被った被害者だという立場に立って石を投げようとしています。自分たちは正義の味方、自分たちは、正しいという思いに満ちあふれて、石を投げようとしていました。  しかし、イエスさまの「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたこの言葉は、自分たちは被害者であると考えている人々に、あなたたちは、加害者である可能性は全くないのかと問うたのです。生まれてこのかた、神さまの前に罪を犯したことはないと言い切れる人はいるのか。社会の秩序を乱した行為をしたことは一度もないと言える人はいるのかと、イエスさまは問われました。すべての人が、神さまの前に立って、罪を犯したことはないと言いきれる人はいません。  これに対して、律法学者やファリサイ派の人々は、偽善的な律法理解を振り回していました。律法を表面的に、文字面で丸暗記して、これを形式的に守ってさえいれば自分たちは正しい、神の救いが保障されていると考え、それどころか、律法を知らない人、律法を守れない人たちを攻撃し、差別していました。  「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というこの言葉に、胸を刺された人々は、自分たちにこの女を裁く資格はないだという、反対に自分の罪の自覚に迫られて、こそこそとその場から姿を消していきました。  さらに、イエスさまの二番目の言葉です。 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」  ここで大切なことは、石を投げる者がいなくなったので、この女の人は、助かったということではありません。姦淫の罪を犯し、その現場で取り押さえられたという事実は消えたわけではありません。しかし、石を投げる者がいなくなったということは、人間が人間を裁くことはできないという意味で、人間の裁く者がいなくなったというだけです。  しかし、裁く者がいなくなっても、この女性の罪はまだ残ったままです。救われたことにはなりません。いいかえれば、もし裁く者がなければ、この女性は一生自分の罪を負って苦しんでいかなければなりません。赦す者がいないからです。目に見える石は飛んでこないかも知れませんが、この女性はまだ救われていません。  そこで、イエスさまの第三の言葉が、この女を救いに導きます。 「わたしも、あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」  イエスさまの「わたしもあなたを罪に定めない」というこの言葉で、この女性は赦されました。神の子として、この世に遣わされ、十字架と復活によって、すべての人々の罪を償い、解放されようとするこの方の、この言葉によって、罪の赦しが与えられ、この女性は、初めて解放されました。そして、「行きなさい」という言葉によって、罪を負って人生を歩むのではなく、イエスさまによって罪を赦され、新しい生命、新しい人生を歩む者とされていきます。  そして、「もう罪を犯してはならない」という言葉で、神さまを拒むことがないよう、イエスさまを拒むことがない生き方を示されました。  私たちは、毎日の生活の中で、「殺すな」「姦淫するな」という、言葉を丸覚えして、これだけを守っていれば正しいのではありません。多くの人間関係の中で、家族の中でも、勤め先でも、学校でも、人の醜さや弱さについては、非難したり、批判したりすることができます。いつも自分は正義の側に立っている、正義の味方だとばかりに、人の過ちを追求し、赦せぬと言い、人の罪を糾弾し続けます。  しかし、ほんとうに、わたしは、人を裁けるのでしょうか、ほんとうに人を裁くことができるのは誰なのですか。そのことを自分に向かって問うとき、人に向かって石を投げることはできません。「ばか」とか「愚か者」と言うことはできません。神さまと自分自身との関係、イエスさまとわたしとの関係の中で、人と自分との関係を見直すことが、信仰に生きるということだと思います。  私たちが正義づらをして、喚いているとき、イエスさまは、私たちの前に立って、言われます。「しかし、わたしは言っておく」と。 〔2017年2月12日  顕現後第6主日(A)   聖光教会〕