「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
2017年02月26日
マタイによる福音書17章1節〜9節
教会の暦では、今日は「大斎節前主日」という主日で、今週の水曜日、3月1日から、「大斎節」に入ります。今日の主日は、「大斎節前主日」ですが、大斎節に入り、これからイエスさまの受難、十字架、復活と進んで行かれるに当たって、父である神さまと、子であるイエスさまが、その関係を確認しておられる出来事が記されています。
今日の旧約聖書では、モーセが、シナイ山に昇ると、雲が山を覆い、主の栄光がシナイ山に留まり、雲の中から神さまが呼びかけられた出来事が読まれました。(出エジプト24:15-18) また、使徒書では、パウロは、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」、「目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:10、11、14)と述べて、間近に迫った大斎節の意図をうかがわせています。
早速、今日の福音書を見ますと、イエスさまは、約3年間、宣教活動をされた後、ある時、突然、顔をまっすぐにエルサレムに向け、弟子たちを連れて、エルサレムに向かって進んで行かれました。
「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」(マタイ16:21)と、弟子たちに、最初に死と復活を予告された直後のことでした。
イエスさまは、12人の弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて、高い山に登られました。イエスさまが育たれたナザレの町から10キロほど南東に行った所に、タボル山というお椀を伏せたような、なだらかな山があります。見渡す限り広がる平原の中に、ぽつんと立った山なので、588メートルの高さの山ですが、高い山のように見えます。聖書には、イエスさまがこの時に登られたという山の名前は出てきませんが、このタボル山がそうだろうと古くから伝えられています。
さて、その山の頂上で、弟子たちの目の前で、イエスさまのお姿が変わったという、事件が起こりました。
どのように変わったのかと言いますと、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記されています。真っ白になり、太陽のように光り輝かれたのです。
そして、そこで、弟子たちは、不思議な光景を目にしました。そこに、モーセとエリヤが現れ、イエスさまと話し合っておられたというのです。
モーセは、イエスさまの時代からさかのぼって、1300年ぐらい昔の預言者です。最も有名なユダヤ人の宗教的指導者です。エリヤは、860年ぐらい前の預言者です。イスラエルの人たちは、誰でも、「神の律法」は、モーセを通して与えられたことを知っていますし、エリヤは預言者たちが活躍した王国分裂時代の北イスラエルの最初の預言者です。二人とも、預言者の中の預言者として知られています。
写真も肖像画もないその時代に、弟子たちに、その人たちがモーセとエリヤだということが、どうしてわかったのでしょうか、不思議ですが、弟子たちは、その光景からイエスさまが、律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤを相手に、親しく語り合っておられると、とっさに思ったのです。ペトロは思わず口走りました。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしが、ここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と言いました。
当時、ユダヤには、3大祭りという祭りがありました。その一つが「仮庵の祭り」という祭りで、秋の収穫を感謝し、祝う祭で、ぶどうやオリーブの収穫が終わった後、畑に木の枝で編んだ小屋を造り、そこに7日間寝泊まりをするという祭りのしきたりがありました(レビ記23:39)。
山の上で、イエスさまが、モーセとエリヤと、3人で話しておられる場面を見て、ペトロは、舞い上がってしまい、頭が真っ白になり、自分が何を言っているのかわからなくなり、思わず、口走りました。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と。
そのうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。
すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえました。
3人の弟子たちはこれを聞いて、思わずひれ伏し、非常に恐れを感じました。彼らは頭も上げられず、ひれ伏していると、イエスさまが近づいて来て、彼らに手を触れて言われました。
「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ますと、そこには、イエスのほかには誰もいませんでした。
イエスさまは、その2人の弟子たちに、「わたしが死者の中から復活するまでは、今、見たことを誰にも話してはならない」と、口止めをされました。
これが、山の上でイエスさまのお姿が変わられたという非常に神秘的な出来事です。
マタイによる福音書だけではなく、マルコ福音書(9:2-13)も、ルカ福音書(9:28-36)も、この出来事を伝えていますから、教会の最初の時代から、イエスさまのことを伝えるだいじな出来事だったに違いありません。
イエスさまが、エルサレムに向かわれるということは、十字架向かって、近づかれるということでした。イエスさまを待っているのは、逮捕され、引き回され、裁判にかけられ、鞭打たれ、いばらの冠を被せられ、ののしられ、嘲りを受け、十字架を担いで、ゴルゴタの丘まで歩かされ、十字架に釘付けにされ、十字架の上で、苦しみもだえながら死ぬということでした。
いよいよ、その苦しみの道を歩み出そうとされる時、父である神さまと、子であるイエスさまが、交信をしておられる場面のように思われます。
私たちと同じ肉体を取って、人となった神の子に、父である神さまが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、神さまが愛を確認し、エールを送っておられる場面だったと思います。
話は急に変わりますが、どこかで「GPS」という言葉を聞いたことはないでしょうか。
最近の自動車には、運転席の横に、小さなテレビの画面のようなものがついていて、地図が出てきます。運転者に、車が走っている今の位置を報せてくれたり、行き先をセットしておくと、目的地への道順を教えてくれたりする装置です。「カーナビゲーション・システム」と呼ばれ、略して「カーナビ」と呼ばれています。この頃は、タクシーなどにもついていますし、私の小さな車にもついています。画面だけではなく、女性の声でいろいろ教えてくれます。
このカーナビは、GPSと連動していて、自分の今居る位置を報せてもらっています。GPSとは、「グローバル・ポジショニング・システム」(Global Positioning System)といい、日本語で「全地球測位システム」というのだそうです。
現在、地球の周りを80個ぐらいの人口衛星が飛んでいて、30個ぐらいのGPS衛星が、私たちの頭の上、20キロメートルぐらいの高さのところを回っているそうです。その人工衛星には、正確な原子時計がついていて、いつも地球に向かって電波を送っています。この頭の上にある3つとか4つの衛星からの信号を、GPS受信機が受け取り、受信機に組み込まれた地図の上に位置を報せるという仕組みなのだそうです。このGPS受信機が、車にあるカーナビであり、この頃では、携帯電話でも、アイ・パッドでも利用することができます。便利な世の中になったものだと思います。
宇宙から発せられる電波信号によって、今居る自分の位置が、地図の上ではっきりわかり、そして目的地に向かって、進むべき道を示してくれます。
山の上で、イエスさまは、律法を手にするモーセと、預言の書を手にするエリヤと、親しく語り合っておられました。 ほんとうに一瞬の出来事だったのかも知れません。しかし、地図の上に、自分の位置が印されるように、イエスさまも、ご自分の立場が、果たそうとされる使命が、しっかりと裏付けされ、ご自身の立場を確認しておられたのだと思います。そこで、ご自分の寄って立つ位置を再確認しておられた瞬間だったのではないでしょうか。
さらに、イエスさまの姿が、彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。光り輝く雲に覆われました。その光景は、イエスさまが神の栄光をお受けになったことを表す姿です。人間となられた神が、一瞬、神となられた、神が、神に戻られた瞬間でした。
「すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえました。」
人口衛生から電波信号が送られてきて、GPS受信機が、それをしっかりと受けとめ、あらためて自分の今居る位置を確認するように、天からの声が、神さまの信号が、イエスさまに向かって真っ直ぐ発せられ、イエスさまは、それを、しっかりとお受けになりました。
「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と聞こえた天からの声は、「おまえこそ、わたしが愛するひとり子、わたしのかけがえのない、愛しいひとり子」と呼びかけられました。イエスさまのほんとうの姿を、そのすべてを、その立場を、もう一度、確認しておられます。そして、イエスさまも、また、これから果たそうとするご自分の使命を、ここで、はっきり確認されたのです。
「わたしは、わたしである」ということを明らかにすることを、英語で、「アイデンティティ(identity)」と言います。本人であること、自己の存在証明、自己認識、身元、正体などと訳されます。身分証明書のことを「identity card」と言います。
さて、私たちの「わたしである」、アイデンティティは、どこにあるでしょうか。「わたしは、わたしである」という、自分が寄って立つ確信はどこにあるのでしょうか。
山の上で、イエスさまが神さまとの関係、ご自分の立場、行くべき道を確認されたように、私たちも、イエスさまとの関係を、自分の立場を、生きるべき道を、ぶれないように、つねに確かめなければなりません。
イエスさまからの電波信号は、絶えず、私たちに向かって送られ続けています。私たちは、私たち一人一人が持っているGPS受信機の精度を上げ、しっかりとこの信号を受けとめなければなりません。
水曜日から始まる、「大斎節」は、私たちの信仰生活のぶれを修正する時です。このことに集中し、この期間を有意義に過ごしたいと思います。
〔2017年2月26日 大斎節前主日(A) 聖光教会〕