「退け、サタン。」
2017年03月05日
マタイによる福音書4章1節〜11節
昔のことですが、ある主教さんと話をしている時、このように言われたのを覚えています。
「若い司祭と話していて、悪魔についてどう思うかと聞くと、フフンと鼻で笑った。」
「悪魔のことがわからん奴には、神のことも、本当の信仰もわからん。」と、そう言って真剣な顔をして怒っておられました。
悪魔とかサタンという言葉について知ってはいますが、あまり真剣に考えたことがありません。
それよりもあまり考えたくないと思っているようなところはないでしょうか。ところが聖書には、悪魔とか、悪霊という言葉がよく出てきます。
悪魔とかサタンと言っても、漫画や絵本に出てくるような、全身真っ黒で、目が鋭く、口が耳まで裂けていて、耳が尖っていて、尻尾がはえていて、手に槍を持っているというような生き物を思い浮かべます。実際は、そのようなものではありません。
聖書の中には、悪魔やサタンがたびたび登場します。
創世記の最初、アダムとエバの物語の中に、ヘビが出てきます。そこに出てくるヘビは、「神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いもの」と紹介されていて、「誘う者、誘惑する者、そそのかす者、騙す者」の役割を果たしています。
また、ヨブ記では、サタンは「試す者」「試みる者」であり、サタンは、ヨブについて、神さまと取り引きをします。
悪魔とは、神さまに敵対する力、それを具体的な姿や形で現したものということができます。
新約聖書では、悪魔は悪霊を手下に持つ首領(マタイ12:24)であり、その当時は、病気や不幸の原因はすべて悪魔や悪霊の仕業とされていました。
さて、今日の福音書ですが、大斎節の初めには、毎年読まれる聖書の個所です。
イエスさまは、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから、洗礼をお受けになり、いよいよ宣教活動を始めようとされる時、荒れ野で「祈りの時」を持たれました。この地方の荒れ野というのは、木が一本も生えていない砂漠のような所、見渡すかぎり茶色い岩と石、そして砂だけの、まさに荒れ地です。昼間は日が射して暑く、そして夜は極端に寒くなる地域です。
イエスさまは、その荒れ野で、40日40夜、断食をして祈っておられました。「空腹を覚えられた」と、ひとことで簡単に言っていますが、それは、生身の人間として、肉体の限界に達しておられる姿だったと思います。
食欲という欲望は、人間として生命を維持するために、きびしく体に訴えてきます。
そこに、「誘惑する者」すなわち悪魔がささやきかけてきました。
「あなたがほんとうに神の子であれば(わざわざ「神の子」という言葉を使って試そうとします)、この石に向かってパンになれと命じてごらんなさい。あなたはそのような力を持っているはずです。すぐにパンに変えることができますよ」と。
あなたがほんとうに神の子なら、この石をパンに変える奇跡を起こすことができるはずでしょう。自分のために奇跡を起こしてごらんなさいよと、そそのかしました。それは同時に、ほんとうに神の力があるのか、ということを試させようとする誘惑です。
この最初の誘惑に対して、イエスさまは、お答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と。
これは、申命記8章3節の言葉です。聖書の言葉をもって答えられました。
「あなたの神、主が導かれた、この40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
かつて、モーセに率いられた、イスラエルの民が、40年間、シナイの荒れ野で試練を受けた時、彼らは食べるものがなく空腹を訴え、不平不満をもらし出しました。神が、自分たちを導き守ってくださることを疑い、神への信頼を疑うような訴えをし始めました。そのような時に、神は人々にマナを降らせ、これを食べさせました。パンさえあれば、肉体の欲望さえ満たされれば、幸いであると考える民に、神への信頼、どんなことがあっても、最後まで神の意志、神さまのみ心に従うことの大切さを教えるための試練であったと説明されました。
同じように空腹、飢餓の試練を受けておられるイエスさまは、イスラエルの民が、かつて、神さまを試みた、その失敗を繰り返されることはありませんでした。
イエスさまは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4:4)と答えて、悪魔を退けられました。
しばらくすると、誘惑する者、悪魔は、今度は、イエスさまを、聖なる都、エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。「ほんとうにあなたが神の子なら、ここから飛び降りてみろ。『神があなたのために、天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と、ささやきました。先に、最初の誘惑に対して、イエスさまから、聖書の言葉で退けられた悪魔は、今度は聖書の言葉を使って、イエスさまを試そうとします。それは、詩編91編9節以下に、
「あなたは、主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたを、その手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」とあります。このように言われているではありませんか。 神に寄り頼み、神を慕う者には、神は、どんな災難からも病気からも守ってくださる。あなたが、どこにいても天使に命じて守ってくださる。天使たちは、あなたを手に乗せて運び、足が石に当たらないようにしてくださると、神は詩編の中でそう言っているではないですか。さあ、だからあなたがほんとうに神の子ならここから飛び降りてごらんなさいと、言いました。
これに対して、イエスさまは、
「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と、言われました。
これは、申命記6章16節の「あなたたちが、マサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」という聖書の言葉を指しておられます。
これも、出エジプトの時、荒れ野で、イスラエルの民に飲む水がなく、人々がモーセと争い「われわれに飲み水を与えよ」と言って迫りました。モーセは「なぜ、わたしと争うのか、なぜ主を試すのか」と言いました。モーセが「どうすればいいのですか」と神に祈った時、神は、モーセに、杖で岩を打てと教えます。モーセが言われたように杖で岩を打つと、そこから水が湧き出て、人々は水を飲むもとができたという事件がありました。モーセは、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けました。それは人々が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、神を試みたからであると記されています。(出エジプト記17:1-7)
イエスさまは、イスラエルの民にとって、忘れられないこの事件を思い起こさせながら「お前の言っていることは神を試させようとすることだ」と言って悪魔を退けました。
さらに、悪魔と主イエスの対決は、第3の試みに進みます。
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて言いました。
「もし、わたしにひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみんなあなたに与えよう」と言いました。
悪魔は、もし、今、ここで、この私に屈服して、ひざまずいて、わたしを礼拝するなら、この世界のすべてを支配する権力を与えようと言いました。すべての栄誉、栄華、名誉、誰もが服従する権力、富、世界中のものをみんなあなたにあげようと提案しました。これほど大きな誘惑はありません。それは、神になるということです。
アダムとエバに、ヘビが誘惑した言葉は、「これを食べると目が開け、賢くなり、神のようになるでしょう」でした。わたしたちと同じ肉体をとり人間となられたイエスさまは、私たちと同じ、欲望、野心をも、引き受けておられます。さあ、どうだ、すべての栄誉、栄華、名誉、誰もが服従する権力、富、そのような力が欲しいだろう。しかし、それには条件がある、それは、神にではなく、悪魔である、わたしの前にひざまずき、わたしを礼拝することだと言います。すると、イエスさまは言われました。
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
申命記6章13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ、仕え、その御名によって誓いなさい。」これは十戒の第1戒の命令です。わたしのほかに何ものも神としてはならない。偶像を拝んではならない。主である神のみを、礼拝しなさいと聖書にか書いてある。「黙れ、サタン、悪魔よ、退け」とお命じになりました。
誘惑する者、悪魔、サタンは、イエスさまに向かって、第1に、お前がほんとうに神の子ならば、自分のために奇跡を起こしてみよと迫り、ほんとうに神の子かどうか自分の力を試させようとしました。
第2に、神がほんとうにお前を助けてくれるかどうか、神がお前を救ってくれるのか、父である神が、ほんとうにお前を愛しているか、神を試してみよと迫りました。神を、試させようとしました。
第3に、神以外のものの前にひざまずき、神以外のものを礼拝させようとしました。神への信頼を打ち破り、神との関係を断絶させようとしました。
イエスさまは、「サタン、退け」と言って、そのすべてを退けました。
これによって荒れ野での悪魔は退散しましたが、しかし、それ以後、サタンは2度と現れなかったのでしょうか。そうではなかったと思います。イエスさまが、父である神さまのみ心に従おうとすると、必ず悪魔が現れて、これを引き戻そうとします。
マタイ16章21節〜23節
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
イエスさまは、ペトロに向かって「サタン、引き下がれ。あなたは、わたしの邪魔をする者」と言われました。
マタイ27章38節〜44節
イエスさまが、ゴルゴタの丘で十字架につけられた時の場面を思い出してください。「イエスと一緒に2人の強盗が、1人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言いました。「神殿を打ち倒し、3日で建てると言ったではないか。もし、ほんとうにお前が神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも、律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。それでもイスラエルの王と言えるか。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」
十字架につけられ、苦しみもだえている時、群衆も、祭司長や律法学者たちも、一緒に十字架につけられている罪人たちも、悪魔となり、悪魔の役割を果たし、最後の瞬間まで、イエスさまを誘惑し続けました。
しかし、そこでも奇跡は起こりませんでした。主イエスは、彼らには、何もいわず、静かに息を引き取られました。
人となられた神の子、イエスさまが、十字架に懸けられ、息を引き取られようとする時にも、父である神さまのみ心に従い続けた瞬間でした。そこにこそ、その十字架こそ「サタンよ、退け」と、悪魔を完全に撃退する瞬間でありました。
大斎節、イエスさまが、悪魔の誘い、ささやきに打ち克たれたことを学ぶと共に、私たちを取り巻く悪魔のささやき、自分自身が誘惑する者、悪魔の役割を演じていないか、ふり返る時だと思います。
〔2017年3月5日 大斎節第1主日(A) 聖光教会〕