あらたに生まれなければ
2017年03月12日
ヨハネによる福音書3章1節〜17節
ある時、ファリサイ派に属するユダヤ人で、議員であるニコデモという人が、イエスさまのところへ、やって来ました。
夜にやって来たとありますから、人目をはばかって、こっそりやって来たにちがいありません。そして、イエスさまに言いました。
「ラビ(先生、律法の教師)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるし(奇跡)を、だれも行うことはできないからです。」
わかったような言い方をしていますが、イエスさまのことを全然信じていません。イエスさまは、この人のことを見抜いて、皮肉っぽく、突然、まったく別のことを言われました。
「はっきり言っておく。人は(だれでも)、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
「神の国」とは、天国、永遠の命という意味です。神さまとの関係によって得られるほんとうの「しあわせ」、「死んでも死なない命」とでもいうのでしょうか。
ニコデモは、びっくりして言いました。
「(人が)、年をとった者が、どうして生まれかわることができるのですか。もう一度、母親の胎内(お腹の中)に入って生まれるというようなことができるでしょうか」と聞き返しました。
すると、イエスさまは、お答えになりました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれるのでなければ、神の国に入ることはできない」と。
ニコデモと、イエスさまのこの問答は、完全に噛み合っていません、話していることの次元がすれ違っていることがわかります。
ニコデモは、「オギャーッ」といって、お母さんのお腹から生まれてくる赤ちゃんのことを思っています。動物的な、生物的な誕生、目に見えて肉体的を持って生まれかわってくる姿を頭に描いています。
しかし、イエスさまは、まったく違う次元のことを言っておられます。そして、こう言われました。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。わたしが、『あなたがたは、新たに生まれなければならない』と、あなたに言ったことに、何を驚いているのだ。風を見てみなさい。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
すると、ニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。
「水と霊とによって生まれなければ」と言われた「霊」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、ルアハッ
(ruah)という言葉です。また、新約聖書が書かれたギリシャ語で、プネウマ(puneuma)という言葉から翻訳されています。 ルアッハもプネウマも両方とも、そのもとの意味は「風の動き」「風」という意味で、「霊」という意味にも使われています。鼻や口から出る風という意味から「息」とも訳されています。霊とは、一言で定義することは難しいのですが、「神さまから出る目に見えない力」というような意味を持っています。昔から、神さまから人に吹きかけられる息、それが霊とか聖霊と同じ意味に使われています。
土のちりで作られた最初の人アダムの鼻に、神さまは息を吹くつけられると、アダムは「生きる者になった」、神の生命の息が吹き入れられて生きる者となったと、創世記に記されています。
イザヤ書42:5 に、預言者イザヤはこのように告げています。
「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地と、そこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。」
イエスさまは、ここで、「風を見てみなさい。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかをわからない。霊から生まれた者も皆同じである。」と言い、「プネウマ」という言葉が、「風」と「霊」という両方の意味を持っていることから、一種の語呂合わせをしておられます。
風は目に見えません。しかし、風には力があります。木の葉をそよがせ、砂を巻き上げます。台風のように家を吹き飛ばしてしまうような強い風もあります。風そのものは目に見えなくても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らなくても、誰でも風の存在は、認めることはできます。
しかし、神さまから与えられる霊の存在は認めようとしません。神さまの霊は、命であり、風よりももっと大きな力をもって、あらゆるものを動かす力を持っているのに、神さまから送られてくる霊の働きを認めようとしません。
ニコデモが、イエスさまから「生まれかわらなければ」と言われると、生物的に、肉体的に生まれることしか思いいたることができませんでした。これに対して、イエスさまは、神さまとの関係の中で、神さまから出る永遠の生命に至る霊によって生まれなければ、ほんとうの生まれかわりにはならないのだと言われます。
私たちは、洗礼を受けました。父と子と聖霊のみ名によって、水と霊による洗礼を受けた者がキリスト教信徒と呼ばれます。
洗礼(バプテスマ)は、イエスさまの時代のさらにその以前から、ユダヤ人の社会で行われていました。イエスさまが現れる少し前に現れたバプテスマのヨハネは、ヨルダン川で、人びとに悔い改めを迫り、悔い改めた人びとに洗礼を施していました。水によって洗い清めるということから、人の罪や汚れを洗い流すということのしるしに水が用いられていたと考えられます。バプテスマのヨハネ以前の預言者たちが勧めた洗礼は、あくまでも「悔い改め」の洗礼でした。
これに対して、イエスさまは、洗礼を受けるということに、悔い改めるだけではなく、「生まれかわる」「新しい生命に生きる」「神の国、永遠の生命を得る」という新しい意味をお与えになりました。
「神さまを信じます」と告白し、キリストの名によって、洗礼を受けた者は、すべてイエス・キリストにつながり、イエスさまが約束する永遠の命が与えられると言われるのです。
「神さまは、その独り子をお与えになったほどに、この世を、私たちを愛されました。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。神さまが、御子エス・キリストをこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためです。」(16,17節)
どの時代にも、世界中のどこにでも、苦しいこと、悲しいこと、理不尽なこと、私たちの理屈では説明できないようなことが起こります。「神も仏もないものか」と、思わず叫びたくなるような時があります。
昨日、3月11日は、東日本大震災から6年を迎えました。6年が経って、今なお苦しみの内にある人々のこと、復興再建のこと、私たちは、忘れてはならないことだと思います。
今から91年前、1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、関東大地震(マグニチュード7・9)が起こりました。東京市内を中心に、家屋の倒壊、あちこちで火災が発生し、津波が襲来しました。東京では、通信、交通機関、ガス、水道、電燈すべて停止し、流言(デマ)が飛び交い、人心は動揺しました。今に時代と社会の状況が違いますから、比較はできませんが、死者9万1344名、全壊消失した家屋は、約46万5千戸だったと言います。
その当時の日本聖公会の状況はどうだったかといいますと、ウイリアムズ主教が大阪から東京に宣教の拠点を移して、ちょうど55年目。ウイリアムズ主教が辞任し、アメリカ聖公会の第2代目の主教として、ジョン・マキム師が就任してから
30年目のことでした。アメリカ聖公会からの援助を受け、土地を購入し、礼拝堂や会館を建て、やっと聖公会の教会も形が整えられたと思われる時期でした。この関東大地震によって、東京市内、横浜地方の教会とその関係施設は倒壊し、または火災によって、失われてしまいました。聖三一教会、深川真光教会、聖救主教会、聖パウロ教会、聖ヨハネ教会、諸聖徒教会、聖愛教会、神田基督教会、月島教会など焼失してしまいました。
この時、失意のどん底にあって、マキム主教は、アメリカの聖公会伝道局に向かって電報を打ちました。「凡ては失せたり、残るは主にある信仰のみ」(All gone but faith in God.)と、電報を打ちました。「すべては失われてしまった。残っているのは、主にある信仰のみ」と。この電報は、アメリカの国民に感動を与えました。礼拝堂や会館、牧師館など、信徒もちりぢりばらばらになり、目に見える教会の姿はなくなってしまいました。しかし、「信仰」という、目に見えない信仰はしっかりと残っています。
ニコデモは、ファリサイ派の一人であり、ユダヤの議会の議員という立場にいる人でした。熱心なユダヤ教の信徒で、社会的に地位を持った人です。しかし、その信仰は、掟を守ること、律法を形式的に守ることだけが信仰だと思っていました。目に見える行為、格好だけ取り繕い、正しい人であることを鼻にかけている生き方の人でした。このような人には、イエスさまがいう信仰の内容というものがわかりません。
ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることがで
きましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と言い、「どうして、そんなことがありえましょうか」(9節)といいました。
目に見えるものを見、目に見える事柄について語り、証ししなければ信じられないニコデモに、イエスさまは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と言われました。イエスさまは、この地上で起こっている、目にみえていることを話しているのに、あなたは、それを信じようとしない。
「神さまは、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。神さまが、御子エス・キリストをこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためです」といい、ご自分の鼻の頭を指さしながら、「わたしだ、わたしだ、わたしがあなたの目の前にいるではないか。わたしがその神の独り子であり。神さまがお遣わしになった救い主だ、こんなに目に見える証し、証人はいないではないかといわれます。
ニコデモには、イエスの言われる「目に見えるもの、こんなに確かなものはない」と言われる信仰の対象がまだ見えません。
マキム主教が打った電報、「すべては失われてしまった。残っているのは、主にある信仰のみ」、目に見えるものはすべて焼けてなくなってしまったけれども、神の愛と救いに対する信頼であり、いいかえれば十字架と復活を信じる信仰は、目に見えない信仰は、消えることはないという確信のほどを、この電報は表しています。
ゆるぎない神への信頼、信仰を、全身全霊をもって受け継ぎ、そのことを心の底から確信することができるために、私たちは「水と霊によって、新たに生まれかわる」洗礼を受け、見えないものが見えるようになりました。
イエスさまとニコデモのすれ違う問答、対話にの向こうに、私たちの姿が見えるような気がします。
〔 2017年3月12日 大斎節第2主日(A)〕