イエスとサマリアの女

2017年03月19日
ヨハネ福音書4章5節〜26節、39節〜42節 1 サマリアの女  地中海の東海岸に沿って、パレスチナと言われる三日月型をした地域があります。 イエスさまは、その地域で活動しました。 イエスさまの時代、この地域は、北から順に言うと、ガリラヤ、サマリア、ユダという3つの地域に分かれていました。 日本でいうと、関東、中部、近畿というような感じでしょうか。 歴史的には、その全部をユダヤといったのですが、ところがイエスさまの時代には、その地域に住む人たちの間で、大きな差別がありました。  イエスさまの時代から、さかのぼって700年ほど昔(紀元前721年)、真ん中に位置するサマリア地方は、アッシリアに占領され、各地から異民族を移住させ、その結果サマリアに残留したイスラエル人との雑婚が行われ、さらに偶像崇拝をする他民族の宗教が持ち込まれました。  バビロニア捕囚から帰還した後、ユダヤの人たちがエルサレムに神殿を再建するに当たって、サマリア人が協力を申し出ましたが、ユダヤ人は、自分たちの宗教の純粋性を守るために、このサマリア人の申し入れを拒否しました。  そのためにユダヤ人は、サマリア人の間に、いやすことのできない憎悪の念を持ち続け(エズ4:7−23)、同じユダヤ民族でありながら、反目と差別が続いていました。  さらに、サマリア人はゲリジム山に神殿を立てて礼拝を守り、ユダヤ人は、エルサレムの神殿を守っていました。  そのような歴史的な背景と社会的な状況にあったことを知った上で、イエスさまと、サマリアの女の会話に、目をとめてみたいと思います。  イエスさまと弟子たちは、ユダヤからガリラヤへ行かれる旅をしている途中、サマリア地方を通らねばなりませんでした。  シカルというサマリアの町に来たとき、ちょうど、お昼ごろでしたが、旅に疲れて、「ヤコブの井戸」と呼ばれる井戸のそばに座っておられました。弟子たちは食べ物を買うために町に行って、イエスさまは、ひとりでした。  このヤコブの井戸は、この町の共同の井戸でしたから、そこへ、ひとりのサマリアの女の人が、水を汲みにきました。イエスさまは、この女の人に、「水を飲ませてください」と、言われました。 2 かみ合わないイエスとサマリアの女の会話  突然、見知らぬ男性からこのように声をかけられ、よく見ると、この人はユダヤ人のようでしたから、びっくりして、この女の人は言いました。  「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と、言いました。  今言いましたように、ユダヤ人はサマリア人と反目し、差別しています。さらに、当時は男女差別もありましたから、めったに見知らぬ人、男性と話をするということこと自体驚きでした。  すると、イエスさまは、言われました。 「あなたは、わたしが、誰かということが、わかっていれば、あなたの方から『生きた水』をくださいと言うに違いない」と言われました。  もちろん、この女の人には、イエスさまが、誰だか、わかっていません。  そこで、女の人は言いました。 「あなたが、わたしに、水をくださいと言っても、どうして、この水を汲むことができるのですか。あなたは井戸から水を汲むものを持っていないではありませんか。この井戸は、わたしたちの先祖アブラハムが、イサクが、ヤコブが、この井戸を掘って、わたしたちに与えてくれたのです。わたしたちは、何千年もこの井戸を頼りに、わたしたちも、家畜も、この水を飲んで生きてきたのです。これこそ、わたしたちの命の水です。あなたは、この井戸の水以外に、他の水を与えることができるというのなら、わたしたちの、偉大な先祖であるアブラハムやイサクやヤコブよりもあなたは偉いとでも言うのですか」と言いました。  すると、イエスさまは、言われました。  「この水を飲む者はだれでも、また渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命にいたる水がわき出る」と。  それを聞くと、サマリアの女は、いいました。  「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」  生活のために水を運ぶのは、女性の仕事でした。毎日の大変な重労働でした。もし、飲んでも、飲んでも、渇くことがないような水、その人の内に湧き出てくるような、永遠の命に至るような水、そんな便利な水があれば、その水を、ぜひ、わたしにくださいと、言いました。  ここで、イエスさまは、この女の人と、水について問答、対話をしているのですが、これを聞いていて、気づくことは、この2人の会話は、水について問答していながら、話が、ぜんぜん噛み合っていないことに気づきます。話がすれ違っていて、噛み合っていないのです。  それは、同じように、「水」のことを言っていながら、ふたりの、水に対する思いの、次元が違っているのです。  イエスさまは、神が与える水、永遠の命に至る水、言いかえると、救いを得るために飲むべき水、心をいやす、魂をいやす水を得ることが、何よりも大事であると言っておられます。これに対して、このサマリアの女が言っている水は、ヤコブの井戸からくみ上げる水、具体的な目に見える水のことしか考えられないのです。その水は、先祖伝来の井戸からくみ上げる水であり、飲んで喉を潤す水であり、時間が経つと、また喉が渇く水のことなのです。言いかえれば肉体の欲望を満たす水のことしか思いがいたりません。  イエスさまが与えようとする水は、そのような肉体を潤すような水ではなく、心を養い、魂を潤す、神さまが与えようとする永遠の命、救い、まず、そういうものがあることを知り、これを求めなさいと、水にたとえながら、この女の人にそのことを教えようとしておられるのです。 3 「あなたの夫をここに呼んできなさい」  すると、イエスさまは、突然、話題を離れて、おかしな命令を投げかけました。  「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と。  イエスさまと、この女の人は、初対面です。考え方によったら、何て失礼なことを言うのですか、と言われそうです。 女の人は言いました。  「わたしには夫はいません」  そうすると、イエスさまは、言われました。  「『夫はいません』とは、まさに、そのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今、連れ添っているのは、夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」  これを聞いて、女は、言いました。  「主よ、あなたは、預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と。  歯がゆいような、すれ違いの会話を交わしたあと、突然、イエスさまは、この女の人の、個人的な、誰からも、触れられたくない、しかし、いちばん重要な問題に、矢を向けました。ここをぐさっと突き刺しておられます。  多分、この女の人は、周りの人々から「身持ちの悪い人」とか、「男運の悪い人」とか言われていたのではないでしょうか。今までに、5人の夫がいたということは、5回結婚をしたということです。しかし、何らかの事情があって、5人の夫とは、死に別れしたか、離婚したか、いずれも幸せな家庭生活を続けることができませんでした。今も連れ添っている人がありますが、しかし、その人は、正式の夫ではありません。この女性は、誰よりも、結婚生活、家庭生活に幸せを強く求めてきた人のように思われます。その度に、精神的にも、経済的にも、社会的にも、大きな苦しみを背負い、耐えてきたに違いありません。「なぜ、わたしはこんなに不幸なのだろう」と、思い悩んでいたに違いありません。  イエスさまは、この人の抱えている、最も大きな問題、誰にも言えないような重荷を抱えていることを言い当て、それを、まっすぐに見据えたのです。「あなたは、救われたいのでしょう」と。  この瞬間、イエスさまと、この女の人との対話の焦点が合いました。イエスさまが、与えようとするものと、この女の人が、求めているものとが、ぴたっと一致したのです。  さらに、その次に、何が起こったのでしょうか。  この女性は、「主よ、あなたは、預言者だとお見受けします」と言いました。  イエスさまに向かって、信仰の告白をしたのです。  そして、サマリア人とユダヤ人の間で、いちばん問題になっている「礼拝する場所」のことを語り始めました。そして、最後に、女の人は言いました。  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに、一切のことを知らせてくださいます。」  そして、イエスさまは言われました。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 「わたしがメシヤだ」「わたしがキリストなのだ」と。 4 生きざまが問われる。  このサマリアの女の人とイエスの対話を、私たち自身に当てはめてみるとどうでしょうか。  第1に、神さまが、私たちに与えようとするものと、私たちが求めているものが、すれ違っていないでしょうか。どんなに一生懸命、熱心に、求めていても、求めている目的や内容がすれ違っていれば、ピントが合っていなければ、信仰による喜び、救いというものを実感することができません。  第2に、私たちにとって、信仰を持って生きるということは、どういうことなのでしょうか。生きる上で、最も重要なこと、大事なことと、関わっているでしょうか。命、生命にかかわっているでしょうか。クリスチャンであること、信仰をもって生きることが、ただ、単に、ネックレスや指輪やイヤリングのような、身につけるアクセサリー程度のものになっていないでしょうか。  私たちが信仰をもって生きるということは、私たちの魂の問題なのです。どんな生き方をするかが問われ、これに応えていく生き方なのです。都合の悪い時には、取り外したり、付け替えたりできるようなものではないのです。  神の言葉を、自分の好みに合わせて、適当に味付けし、それが信仰だと思っているようなことはないでしょうか。神に向かってさえ、格好をつけている。良い格好をしている。裸の自分を、神の前に曝しているか。うめき、叫びを上げつつ神さまのみ心に従って生きていこうとしているでしょうか。  第3に、私たちの救いは、キリストにのみあります。あなたこそ主です。あなたこそ神の子です。あなたこそ救いです。キリストへの信頼、キリストへの忠誠心。これしかないのです。私たちは、毎日、毎日、信仰告白をすることを迫られています。私たちが、ほんとうにキリストと出会うとき、思わず信仰の告白が、口からほとばしり出て、感謝とさんびに満たされるのです。  サマリアの女が、イエスさまに出会い、信仰の告白にいたった、この聖書の物語をもう一度読み返していただきたいと思います。 〔2017年3月19日 大斎節第3主日(A年) 聖光教会〕