「神の業がこの人に現れるためである。」

2017年03月26日
ヨハネによる福音書9章1節〜41  今日の福音書は、ヨハネによる福音書の9章全体から学ぶことになっています。「イエスさまが生まれつき盲人だった人の目を癒やされた」という奇跡物語から、「罪とは何か」をテーマにして教えています。このヨハネによる福音書9章は、1節から38節まで、非常に長い個所ですが、全体は、いろいろな人物が登場するドラマのようになっています。7つの場面、7幕からなっていますが、福音書の朗読では、第3幕から第5幕まで(14節〜27節)省略されています。 第1幕  最初の場面は、イエスさまと弟子たち、そして生まれつきの盲人が登場する場面です。(1〜7節)  イエスさまは、ある町で、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。この人は、道ばたに座って物乞いをしていました。  この生まれつき盲人の人を見て、弟子たちがイエスさまに尋ねました。  「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」  この当時のユダヤ人の伝統的な信仰では、病気や障害など、人々が不幸だと感じるさまざまな出来事が起こるは、その人が罪を犯したからだ、罪の結果だと信じられていました。  出エジプト記20章5節に、モーセの十戒の第2戒が記されていますが、そこで、偶像崇拝を禁じ、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」とあります。ユダヤ教の因果応報の教えとして、よく知られています。そこで、弟子たちはこのような質問したのでした。  イエスさまは、お答えになりました。  「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」  こう言ってから、イエスさまは、地面に唾をし、唾で土をこねて、その盲人の目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。そこで、彼は、言われたようにシロアムの池に行って目を洗うと、目が見えるようになって、帰って来ました。奇跡が起こったのです。 第2幕  第2の場面は、近所の人たちと、この盲人だった人が登場する場面です。(8〜12節)  この人は、小さい時から道ばたに座って物乞いをしていたことは、近所の人々もよく知っています。その人たちが、  「この男は、道ばたに座って物乞いをしていた人ではないか」と言いました。「そうだ。その人だ」と言う人もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う人もいました。  本人は、「わたしがそうなのです」と言いました。  そこで人々が、「では、お前の目は、どのようにして開いたのか」と 尋ねました。その盲人だった人は、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えました。  人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、盲人だったこの人は「知りません」と言いました。 第3幕  第3の場面は、盲人だった人と、ファリサイ派の人々が登場します。(13〜17節)  近所の人々や、この人が盲人で、道ばたに座って物乞いをしていたことを見て知っていた人々は、前に盲人であったこの人を、ファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。(聖書日課のテキストでは、14節〜27節が省略されています。)  イエスさまが土をこねてその目を癒された、その日は、「安息日」(十戒の第4戒「いかなる仕事もしてはならない」と定められている日)でした。  そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねました。盲人だった人は言いました。  「あの方が、わたしの目に、唾でこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」  すると、ファリサイ派の人たちの中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、そんなしるし(奇跡)を行うことができるだろうか」と言う者もいました。  このようにして、ファリサイ派の人たちの間でも意見が分かれ論争が始まりました。さらに、それは、イエスとは誰なのだ、何者なのかという論争になりました。  そこで、人々は盲人であった人に、もう一度尋ねました。  「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思っているのか。」  生まれつき盲人だった人は「あの方は預言者です」と言いました。 第4幕  第4の場面は、ファリサイ派の人々と、盲人だった人の両親が登場します。(18〜23節、ここも省略されています。)  目が癒された本人が「あの方は預言者です」と言っても、ユダヤ人たちは、この人の言うことを、すなわち、イエスさまについて、ほんとうに盲人であった人の目を癒し、目が見えるようになったということを、信じませんでした。  そこで、盲人であったその人の両親を呼び出して尋ねました。  「この者は、あなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかった者に違いないか。それが、どうして今は目が見えるのか。」  盲人だった人の父親と母親は、答えて言いました。  「これは、わたしたちの息子で、生まれつき目が見えなかったことも間違いありません。しかし、どうして、今、目が見えるようになったかは、わたしたちには分かりません。誰が、目を開けてくれたのかも、わたしたちには分かりません。どうぞ、本人にお聞きください。もう大人なのですから。自分の起こったことは自分で話すでしょう。」  両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからでした。ユダヤ人たちは、すでにイエスさまをメシアであると公に言う者がいれば、ユダヤ教の会堂から追放すべきだと決めていた者もいたからでした。盲人だった人の両親は、そのことを知っていました。ですから「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのです。 第5幕  第5の場面は、再びファリサイ派の人々と、盲人だった人が登場します。会堂の中での出来事です。(24〜34節、省略。)  そこで、ユダヤ人たち、すなわちファリサイ派の人々は、盲人であった人をもう一度呼び出して言いました。  「神の前で正直に答えなさい。われわれは、あのイエスという者が、罪ある人間だということはわかっているのだ。現に安息日に、律法に従わずに、人の病いを癒したりしているからだ。」  生まれつき盲人だった人は答えました。  「あの方が、罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つわかっていることは、生まれつき目が見えなかったわたしが、今は見えるようになったということです。」  すると、ファリサイ派の人々は言いました。  「あの者は、お前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」また同じことを尋ねました。  生まれつき盲人だった人は答えました。  「もうお話ししたのに、あなたがたは、聞いてくれませんでした。なぜ、また聞こうとするのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」  これを聞いて、ファリサイ派の人々は、この男をののしって、たいへんな剣幕で言いました。  「お前はあの者の弟子だが(あの者の側の者、あの者の味方だが)、われわれは、モーセの弟子だ。われわれは、神がモーセに語られたことを知っている(神がモーセを通して与えられた律法を知っているし、それを忠実に守っている)が、しかし、あのイエスという者が、どこの出身でどこから来たのかはわからない。」イエスの正体がわからないと言いました。  すると、盲人だった人は言いました。  「あの方は、わたしの目を開けてくださったのに、あの方がどこから来られたかわからないとは、実に不思議なことです。神は、罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは教えられています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えない者の目を開けた人、そんな不思議を行った人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が、神のもとから来られたのでなければ(神によって遣わされた方でなければ)、生まれつき目が見えなかったわたしの目を、見えるようにするなどということは、おできにならなかったはずです。」  ファリサイ派の人たちは、「お前は、全く罪の中に生まれた、明らかに罪人なのに、われわれに向かって教えようというのか」と言い返し、盲人であったこの人を、会堂の外に追い出してしまいました。彼は、ユダヤ教の会堂から追放されてしまいました。 第6幕  第6の場面は、イエスさまと、目を見えるようにして頂いた盲人が登場します。(35〜39節)  イエスさまは、盲人だった人が会堂の外に追い出されたことをお聞きになりました。そして、その盲人だった人に出会うと、  「あなたは、あなたの目を癒した人を信じるか」と言われました。盲人だった人は言いました。  「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」  イエスさまは言われました。  「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」  盲人だったこの人は、「主よ、信じます」と言って、イエスさまの前にひざまずきました。イエスさまを礼拝する者となりました。今日の福音書はここまでで終わっています。しかし、聖書では、もう一幕あるのです。 第7幕  最後の場面、第7の場面になります。イエスさまとファリサイ派の人々が向かい合っています。(40〜41節)  イエスさまは言われました。 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」  イエスさまと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、この言葉を聞いて、「われわれは、ちゃんと見えている。それとも、われわれも見えないとでも言うのか」と言いました。イエスさまは言われました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』と、あなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 弟子たちが、イエスさまに「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねたことがきっかけになって、「罪とは何か」というテーマで、長い七つの場面が展開されています。  イエスさまがお答えになった、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」と言われたこの言葉の意味が、それ以降の、盲人だった人への質問と答えから説明されていきます。  「生まれつき盲人だった人」は、最初、「その方が誰か知らない」、「分からない」と言い、その次に、「預言者です」と言い、さらに「分からないはずがありません」と言い、そして「信じたいのです」と言い、最後には「信じます」と告白して、イエスさまの前にひざまずきました。だんだんと焦点が合ってくる様子がわかります。  一方、ファリサイ派の人たちは、イエスさまを、肉眼の目だけで見ようとします。自分たちの思い込みだけで判断しようとしています。「安息日を守るか守らないか」、言い換えれば律法の物差しでしか、神のみ心を知ることが出来ません。「あの者はどこから来たのか」と言って、血統や出身地で人を見ようとします。 「罪人であるお前さんが、われわれに教えようとするのか」と面子と体裁にこだわります。そして、最後には、自分たちの意見に合わない者を追放してしまいます。  何十年も昔のことですが、大阪教区にいた頃の経験です。大阪市内を走っている環状線に乗っていたとき、途中のある駅で、大勢の人が乗り込んできた時、白い杖を持った誰が見ても盲人だとわかる男の人が乗って来ました。よく見ると、顔見知りの信者さんでした。西宮の教会の信者さんで、教区のいろいろな集まりに熱心に出席しておられました。いつも大きな点字の聖歌集を持って、大きな声で聖歌を歌っていましたから、よく知っていました。たしか浅野さんという方だったと思います。  私は、後ろから声を掛けました。「浅野さん、尼崎の教会の浦地です。今日はお出かけですか」と。すると、声でわかったのか、「ああ、浦地先生」と言って、こちらを向いて、しばらく言葉をかわしました。 「浅野さんは、今日はどちらへお出かけですか」と言うと、にっこりほほえんで、「これから、どこどこで、超教派の盲人のクリスチャンの研修会があって、そこへ行くのです」といいました。 「へーっ、そんな会があるのですか。どんなことを研修するのですか」と尋ねると、「今日のその会のテーマは、『私たちは、いかにして晴眼者を導くか』という題です」と言って、ちょっと恥ずかしそうにほほえみました。  私は、ショックを受けました。その後、どんな会話をかわして、どのようにして別れたのか覚えていません。  私たちは、盲人に出会うと、手を引いてあげなければとか、いつも介助する立場だと思っています。しかし、神さまを知る、イエスさまに出会うということでは、私たちよりも、もっと近いところにいると思いました。私たちは、神さまを見ることはできません。イエスさまの声を直接聞くこともできません。それは、目に見えないからだ、手で触れないからだと思っています。しかし、盲人の方々は、もともと何も見えないのです。友人の顔が見えないように、神さまも見えないのです。盲人が晴眼者を導く、神さまのことを話して伝道する、それはあっても当然ですし、私たちよりも、もっと近いところに神さまを実感することができるのではないかと思いました。   イエスさまは、言われました。  「見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなる。」  イエスさまは、同じヨハネの福音書の3章17節では、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われました。  イエスさまご自身が来たのは裁くためではない。しかし、イエスさまが、この世に来られたことによって、イエスさまに出会った人が、いつのまにか、裁かれてしまうのです。   右、左に選り分けられて、イエスさまが来られたこと自体が「裁き」となってしまうのです。真剣にイエスさまの前に立った時、私は、どの立場に立っているのか、この方を見えるのか見えないのか、この方を信じるのか信じないのかを、選り分けられることになります。   今、私たちには、ほんとうのイエスさまは、肉眼の目では見ることができません。むしろ、イエスさまが、誰だかわからないとへりくだって、素直に認める者には、罪がありません。イエスさまの方から現れて下さって、分かるようにしてくださいます。しかし、見えないのに「見える」と言い張る、「見えている」と思い込んで、人を裁く、自分たちの理解こそが、正しいと言い張るところに、かえってほんとうのイエスさまが、見えなくなってしまうのです。そこに罪があります。  「罪とは何ですか」「罪人とは誰ですか」、私自身、あなたは、今日の福音書のドラマの、どの場面のどの登場人物ですか、今日、私たちに問われています。盲人だった人ですか、近所の人たちの中の一人ですか、両親の立場ですか、ファリサイ派の一人ですか。  ほんとうのイエスさまに出会い、「主よ、信じます」と言って、ひざまづくとき、その姿こそ、神の業が現される瞬間です。神の栄光が現される時です。救いにあずかる瞬間です。(9:3) 〔2017年3月26日   大斎節第4主日(A年)   聖光教会〕