ラザロの復活
2017年04月02日
ヨハネによる福音書11章1節〜44節
今読みました今日の福音書、ヨハネによる福音書11章1節から44節までですが、非常に長い一つの奇跡物語です。
ひとくちに言いますと、ベタニアという村に住んでいたマリアとマルタの弟、ラザロが病気で死に、死後4日目に、イエスさまが、このラザロをよみがえらせた、生き返らせたという、奇跡の中の奇跡とも言うべき物語です。
今、私たちはこれを聴いて、どのように受け取るでしょうか。どのように受け取るべきでしょうか。
もう少し深く読んで、イエスさまは、この奇跡物語から、私たちに、どのように、何を受け取って欲しいと求めておられるか考えてみたいと思います。
ベタニアという村に、姉のマルタ、妹のマリアという姉妹、そして、その弟のラザロという兄弟がいました。イエスさまは、この兄弟姉妹を、とっても愛しておられました。
その弟のラザロが、病気になりました。姉妹は、人を使いにやって、イエスさまに、弟のラザロが、病気であることを知らせました。しかし、イエスさまは、すぐには、ベタニアには行こうとされませんでした。さらに2日たってから、腰を上げられ、イエスさまが、ベタニアに到着した時は、ラザロは、すでに死んで、葬られてから、さらに4日が経っていました。
マルタは、イエスさまが来てくださったと聞いて、迎えに出ました。そして言いました。
「主よ、もし、ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神さまにお願いになることは、何でも神さまは、かなえてくださると、わたしは、今でもわかっています。」
イエスさまは、「あなたの兄弟は、復活する」と言われました。するとマルタは、「終わりの日の復活の時に、復活することは存じております」と言いました。すると、さらに、イエスは言われました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と。
マルタは、言いました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って、妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスさまのもとに行きました。イエスは、まだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられました。マリアはイエスさまのおられる所に来て、イエスさまを見るなり、足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの弟は死ななかったでしょうに」と言いました。
ここで注意したいのは、マルタもマリアも同じように涙にくれながら、イエスが来られたことを知ると駆け寄って、同じことを言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と。
マリアは、イエスさまがおられる所に来て、イエスさまを見るなり、足もとにひれ伏しました。愛する弟を失った悲しみに打ちひしがれて、そして、待ちかねていたイエスさまの顔を見ると、立っていることも耐えられなくなり、イエスの足元にすがりつくようにひれ伏しました。そして、姉、マルタと同じ問いを、イエスさまに発した。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの弟は死ななかったでしょうに」と。
イエスさまは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われました。「どこに葬ったのか」と。ユダヤ人たちは、「主よ、来て、御覧ください」と言いました。
そこで、イエスさまは、涙を流されました。それを見たユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。しかし、その中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが、死なないようにはできなかったのか」と言う者もいました。イエスさまは、再び心に憤りを覚えながら、墓に入られました。イエスさまは、死の支配、悪魔の世界とされる墓穴に入って行き、ラザロをよみがえらせました。
私たちは、このラザロ復活の物語から、何を学ぶでしょうか。イエスさまを信じたら、ラザロのようによみがえらせて頂けると思うでしょうか。
イエスさまの時代でも、死んだ人がよみがえるということは、ほんとうにそんなことがあるのか、ないのかは、いつも論争され、議論になっていました。
ユダヤ教の中でも、ファリサイ派の人々は、よみがえりを信じていました。一方、サドカイ派の人々は、そんなことはありえないと言い張っていました。
この世の生物は、かならず死にます。わたしたち人間も、かならず死にます。このことについては、例外はなく、ある意味ではこれほど平等なことはありません。
私も死ぬ、あなたも死ぬ、そのことは、頭ではわかっていても、自分も死ぬということを、考えはじめると不安や恐怖にかられます。どの時代でも、すべて人間にとって、死ぬということは最大の課題であり、テーマです。人間は死んだらどうなるのかとか、死後の世界とか、生まれ変わりとか、よみがえりとか、論じられ続けてきました。
そこで、もう一度、今日の福音書に、目を向けてみますと、このラザロの死と復活の出来事を通して、イエスさまが言っておられることは、私たちが関心を持っていることと、違っているように思われます。
第1に、イエスさまは、マルタに「この病気は、死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(11:3、4)と、言われました。
第2に、イエスさまは、弟子たちに、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」(11:14、15)
第3に、イエスさまは、マルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:24-26)と言われました。
第4に、イエスさまは、墓に入られると、マルタに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と、言われました。そして、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(11:40-42) こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。
「この病気は、死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「わたしが、その場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。彼らに信じさせるためです。」
このラザロのよみがえりという奇跡が行われた目的は、神の栄光のためであり、人々が信じるようになるためであり、イエスさまこそ、復活であり、命であり、イエスさまを信じる者は、誰も死ぬことはない。人々に信じさせるためであると言われます。
そして、ヨハネによる福音書12章23節では、イエスさまは、このようにお答えになりました。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(23-26)
イエスさまが栄光をお受けになる時とは、十字架につけられ、死んで、よみがえられた時を指します。
栄光が現される時とは、神さまと、イエスさまと、わたしたち、その3者に、ピントが合った時、焦点が合わされたその瞬間です。ラザロの復活という奇跡の出来事は、この世にそれが行われた予告として、示されているということができます。
現代に生きる者として、大切なことは、神との関係において、死をどのようにとらえるかということです。
私たちが、単に、肉体的、生理的な自然現象としてだけで、生命、死というものをとらえるならば、復活ということを理解することはできません。イエスさまが死に打ち勝ち、罪の支配、死の支配、悪魔の支配を打ち破り、永遠の命の支配をもたらされたということが理解されなければ、主の復活の意味がわかりません。
イエスが、マルタに答えたメッセージこそが、今日のこの物語のテーマです。
「あなたの兄弟は復活する。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエス・キリストを信じる者。すなわち、私たちのために、私たちの罪を贖うために、十字架にかけられて死んだイエスさまを、死人の中からよみがえらせた神を信じる者。
このような神の力を信じる者は、自分が肉体的な、死を経験しても、その死の状態から、新しい命が与えられて、生きるということを信じることができるのです。
ラザロの復活というこの出来事の直後から、多くの人たちはイエスを信じました。しかし、他方では、祭司長、長老、律法学者たち、多くのユダヤ人たちは、イエスさまを、殺す計画をすすめることになりました。
〔2017年4月2日 大斎節第5主日(A年) 京都聖ステパノ教会〕