後ろを振り向くと‥‥

2017年04月16日
ヨハネによる福音書20章1節〜18節  イースターおめでとうございます。主のご復活を心から祝い、ご一緒に喜び、神さまに賛美と感謝をささげたいと思います。  今日は、福音書の中から、マグダラのマリアという一人の女性に焦点をあてて、学びたいと思います。  新約聖書には、マリアという名前の女性が7人登場します。  主イエスの母マリアを初めとして、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ベタニアのマリア、マルコの母マリア、マルコの友マリアなど、その当時、よく使われていた名前のようです。  旧約聖書のヘブル語では、ミリアムと呼ばれています。  今日の福音書に出て来ますマグダラのマリアのマグダラとは、地名で、ガリラヤ湖という湖の西岸、イエスさまが育ったナザレの村から北東に直線距離で20キロほどの所にある町です。  このマグダラ出身のマリアという人については、ルカによる福音書8章1節以下に、このように記されています。  「イエスは、神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。  12人(の弟子たち)も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」  このように記されていますから、このマグダラのマリアは、イエスさまの弟子たちと一緒の行動していた婦人たちの一人で、7つの悪霊を追い出していただいた、すなわち大変な病気にかかって苦しんでいて、イエスさまにいやしていただいたマグダラに住んでいたマリアという人だったということがわかります。  さらに「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とありますから、ある程度、裕福な婦人たちの一人だったと思われます。大病をいやしていただいた後、イエスさまを慕い、女性的な純真さをもってイエスさまに仕え、従ってきました。  イエスさまが、十字架にかかられたときにも、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは、遠くに立って、これらのことを見ていた」(ルカ23:49)とありますから、悲しみに胸が張り裂けそうな思いで、十字架上で、苦しみ、息を引き取られる様子を見守っていた人たちの一人でした。  イエスさまが、息を引き取られた後、遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を塗り、亜麻布(亜麻の繊維で織った布、麻布)で包んで、墓に葬りました。このお墓というのは、岩山に掘った横穴で、壁をくり抜いて棚のようにし、そこに遺体を安置します。  イエスさまを、この墓に葬った後、翌日は、安息日であったため、一日おいて、一週の初めの日、マグダラのマリアは、朝早くまだ暗いうちに、お墓に行きました。  ところが、墓の入口の石が取りのけられていました。マリアは、びっくりして、12人の弟子のひとり、ペトロと、もう一人の弟子のところへ走って行き、彼らに言いました。  「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(20:1-3)  そこで、ペトロともう一人の弟子は、外に出て墓に向かって走りました。ペトロたちは、墓に入って身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が丸めて置いてありました。彼らは、これを見て、信じたとあります。それからこの弟子たちは家に帰って行きました。(20:8)  一方、マグダラのマリアですが、また墓の所に戻ってきて、墓の入口で泣いていました。弟子たちが帰っていった後、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスさまの遺体が置かれてあった所に、白い衣を着た2人の天使が座っているのが見えました。  天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いながら、後ろを振り向くと、そこにイエスさまが立っておられるのが見えました。しかし、マリアには、それがイエスさまだとは分かりませんでした。イエスさまは言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と。  マリアは、その人は、園丁(墓場の番人)だと思って、言いました。「あなたがあの方(イエスさま)をどこかへ運んでいったのなら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と。  するとイエスさまが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ(先生)」と言いました。  すると、イエスさまは言われました。  「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」  マグダラのマリアは弟子たちのところへ、また走って行って、「わたしは主を見ました」と告げ、よみがえられたイエスさまから言われたことを伝えました。  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書は、それぞれ違った情景で、イエスさまの復活の出来事を書き記しています。主イエスの復活について、このように信じたという「信仰」が記されています。  このイエスさまの復活物語は、大きく二つのステージからなっています。  まず、第一のステージは、弟子たちや、婦人の人たちが目撃した、「お墓が空っぽだった」という事実、出来事です。  誰かがイエスさまの遺体を持ち去りました。誰が遺体を盗んでいったのか。誰がご遺体をどこかに移動させたのか。  弟子たちや婦人たちが先ず驚いたのは、「お墓が空っぽだった」という事実です。これは、誰が見ても、目に見える、はっきりした事実です。  ヨハネ福音書によると、マグダラのマリアは、その第一発見者となりました。そして、ほかの弟子たちとともに、「お墓が空っぽだった」という事実を証しする証言者になったのです。  復活物語の、2つ目のステージは、弟子たちや婦人たちに、よみがえったイエスさまが、たびたび現れたという場面です。  マタイによる福音書では、復活したイエスさまは、ガリラヤの山の上で、11人の弟子たちに現れました。(28:16-20)  マルコによる福音書では、マグダラのマリアに現れ、2人の弟子たちに現れ、そして、11人の弟子たちが食事をしているときに現れました。(16:9-14)  ルカによる福音書では、エマオへ行く途中の2人の弟子たちに現れ、また、弟子たちのところに現れ、手と足を見せ、焼いた魚を弟子たちの前で食べて見せられました。そして、ヨハネでは、部屋にいる弟子たちに現れ、その8日目にトマスに現れました。(24:13-49)  このようにして、たびたび復活したイエスさまが現れ、「わたしだ、わたしだ」と言って、ご自分が復活したイエスであることを証明して見せておられます。  これに対して、弟子たちや婦人たちは、はじめは誰もその方がイエスさまだとは気がつかず、信じることができません。そこで、よみがえったイエスさまは、パンを裂いて最後の晩餐の再現をして見せたり、手とわき腹の傷跡を見せたり、焼いた魚を食べて見せたりしておられます。  さて、マグダラのマリアに話をもどしますと、まず、マリアは、空っぽのお墓を見て驚きました。そして、何が何だか分かりません。今日の福音書の中で、マリアは、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と、3回も繰り返しています。  マグダラのマリアは、イエスさまによって7つの悪霊に取りつかれていると言われ大変な大病から救っていただき、イエスさまによって新しい人生が与えられ、同時にその後の人生は、イエスさまのために生きようという決意をもってイエスさまに従ってきたに違いありません。マリアにとって、イエスさまに従うことが生きがいでありました。  ところが、そのイエスさまが、十字架に掛けられ死んでしまいました。その生きがい、新しい人生の希望は奪われてしまいました。  「マリアは墓の外に立って泣いていた」(20:11)という言葉は、マリアの悲しみ、失望、絶望を示しています。  園丁だと思ったイエスさまに、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアとしては、せめて、イエスさまのご遺体に、もう一度丁寧に香油を塗って、それを正式に埋葬して、イエスさまに対する最後の誠意を示したいと願っていました。日本的に言えば、尼になってイエスさまの菩提を弔いたいとでも言うのでしょうか、イエスさまの死によって、自分の人生も終わったのだから、残る人生はその遺体を守り、遺体に仕えて、生涯を過ごすしかないとでも思っていたのではないでしょうか。  しかし、その遺体すら奪われたことによって、マリアは、その後の人生の中心となるべきものを失い、動揺していました。ペトロともうひとりの弟子たちのように、墓から立ち去ることもできず、墓の外に立って泣いていました。  マリアは、まだイエスさまは、その墓の周辺にいると思って、墓に執着していました。そこに天使の声、神の声が聞こえてきました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と。  その声は、マグダラのマリアが立っているいる位置、向かっている方向に、疑問を投げかける言葉でした。マリアはイエスさまを見失っている。それは遺体を見失っているだけでなく、イエスさまという方が誰なのか、どんな方なのかということを、まったく見ていないではないか、という最も本質的な問題、根本的な問題が提起されています。  これに対して、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言い続けました。この言葉には、二重の意味があります。  表面的な意味では、「イエスさまの遺体が見当たらない。その遺体がどこに置かれているのかわからない」という言葉通りの意味です。しかし、もう一つの深い意味は、イエスさまがお元気な頃、さまざまな奇跡を行い、教えておられたときには、この方こそ、ダビデの子、神の子、救い主と信じて従ってきたのに、そのイエスさまが十字架に懸けられて死んでしまって、弟子たちやマリアたちから、イエスさまが奪い去られ、見えなくなったとき、イエスさまが何者であったのかということを見失ったという意味が隠されています。  ヨハネ福音書が言おうとしている最も重要なことは、マグダラのマリアが振り向いたとき、その後ろに、イエスさまが立っておられたということです。しかし、マリアにはその方が、イエスさまだとは、まだわかりません。イエスさまは、さっきの天使と同じように「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問われました。  イエスさまだとわからないマリアは、「あなたが、あの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。  すると、マリアの後ろから「マリア」と名前を呼ばれ、マリアは、はっと気がつきました。思わず「ラボニ(先生)」と答え、その足もとに取りすがりました。  見えなかったマリアの目が開け、よみがえられたイエスさまが見えたのです。  マリアは、弟子達のところへ行って、「わたしは、主を見ました」と言って、復活されたイエスさまに出会ったことを伝えました。  マグダラのマリアは、生前のイエスさまを、目で見て、声を聞いて、人と人とつきあう、愛し合う、尊敬する、そのようなイエスさまを求めていました。そして亡くなった後も、その延長線上で、イエスさまを、イエスさまの遺体を捜し求めていました。それが見えないので、悲しみ、絶望し、泣いていました。  しかし、イエスさまの十字架の死は、人々が今まで持っていた、求めていたイエスさまのイメージを、決定的に否定し、拒否することになりました。十字架を境にして、肉体や五感で受け取っていたイエスさま、そしてイエスさまの遺体を探し求め、今までと同じように、目で見える姿で、イエスさまを捜し求め、「分からない、分からない」と言い続けていたマリアでしたが、「なぜ泣いているのか」「何を泣いているのか」と問われて、後ろを振りむくと、実は復活したイエスさまが、後ろに立っておられました。  いいかえれば、よみがりのイエスさまにお会いするためには、私たちが今まで持っていた考え方や、とらえ方を変えなければならないということに気がつくことです。マグダラのマリアが、180度視線を転回したところに、振り向いたところに、イエスさまが現れたように、私たちも、自分の視点を変えなければ、ほんとうに甦られたイエスさまにお会いできないのではないでしょうか。  復活日、イースターは、クリスマスと共に、キリスト教の最も大切な祝祭日の一つです。  私たちが持っている、日本聖公会祈祷書の「書祈祷」の中に、「主日を尊ぶため」というお祈りがあります。 そのお祈りは、このようにお祈りします。  「全能の神よ、あなたは一週の初めの日にみ子イエス・キリストをよみがえらせられました。どうか私たちは、皆この日に、使徒たちの模範にならって、主のよみがえりを記念し、共にみ前に集まり、主を拝み、み言葉を聞き、主の贖いを感謝して、その恵みにあずかり、日々忠実に主に仕えることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」  私たちは、なぜ、日曜日に集まって、礼拝をささげるのでしょうか。日曜日は、会社や役所や学校が休みで、集まりやすいから、十戒で定められている安息日を守るためえしょうか。そうではないのです。お祈りにありましたように、「神さまは、一週の初めの日に、み子イエス・キリストをよみがえらせられました。」日曜日は、週の初めの日であり、この日に、主イエスさまが、よみがえられた、その日を記念するために、私たちは、集まり、礼拝をささげるのです。教会では、日曜日のことを「主日」と言います。一週の初めの日は、「主のよみがえりの日」、「主の日」、「主日」なのです。  実は、私たちは、年に1度のイースターを守り、祝います。  しかし、日曜日、主日礼拝の意味を知ると、毎主日が、イースター、主の復活を記念し、よみがえられたイエスさまと出会い、十字架と復活によって与えられた恵みを確認し、感謝する日であることがわかります。そのために、「使徒たちの模範にならって、主のよみがえりを記念するために、この日を守るのです。イースターを祝い、心から感謝すると共に、主日礼拝を中心とした、私たちの信仰生活のあり方をもう一度、真剣に考えたいと思います。 〔2017年4月16日 復活日(A) 聖光教会〕