「わたしは、羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。」

2017年05月07日
ヨハネ福音書10章1節〜10節  今、読みました福音書から、3つの点を取り上げて、ご一緒に考えたいと思います。  まず、最初に、イエスさまは、ご自分のことを、「わたしは羊の門である。」と自己紹介をし、「門から入る者が羊飼いである。」(2節)、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(9節)と言われます。  国や地方のよって、羊や山羊を飼う飼い方や、違うようですが、パレスチナ地方では、今でも同じような独特の遊牧の生活をしています。  羊をたくさん所有している人は、大切な財産ですから、自分の家に隣接して、羊を囲こう庭を設け、塀を作り、門を設け、門番を雇って羊を守ります。夜になると門を閉め、羊盗人や獣から羊を守ります。  朝になると、雇われている羊飼いがやって来て、門番が羊の門を開き、羊飼いたちが羊を連れ出して、野原に草を求めて誘導し、放牧して、羊に草を食べさせます。 時には遠方まで連れて行って、野宿することもありますが、多くは、日が沈む前に、羊の所有者の家に帰ってきて、門を通って囲いの中へ入れ、羊飼いたちは、自分の家へ帰って行きます。  先祖代々、毎日、毎日、このような生活が繰り返されています。  イエスさまは、その当時、誰でも知っている、この地方に続いている牧畜生活を指しながら、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と言って一つのたとえ話をされました。  朝早く、一番先に、この門を通るのは、羊飼いたちです。そして、羊飼いたちは、羊たちを連れだします。  羊たちもこの門を通って牧草のあるところへ連れられていきます。  ところが、この門を通らないで、囲いや塀を乗り越えたり、別の出入口から羊の庭に出入りする者がいたら、それは、盗人であり強盗です。正式の門を通らず、囲いの中に押し入った者は、羊を盗んだり、奪ったり、傷つけたりする」という話です。  このたとえ話を、誰に向かって話されたのでしょうか。  実は、6節に、「イエスは、このたとえを、ファリサイ派の人々に話されたのですが、彼らはその話が何のことか分からなかった」とあります。  その事情を知るために、今日の福音書の前の、9章の場面を見ますと、イエスさまは、生まれつき盲人の人の目を見えるようにされたという奇跡物語が記されています。それが、安息日であったために、ファリサイ派の人々は、イエスさまがなさったことに対して、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言って、盲人だった人に何度も問い詰めました。最後には、生まれつき盲人であってイエスさまに癒やしていただいたこの人を、ファリサイ派の人々は、会堂から追い出してしまいました。そのことを知ったイエスさまは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と言われました。すると、そこに居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言いました。イエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われました。(ヨハネ9:39〜41)  今日に福音書、ヨハネの10章1節以下は、そのファリサイ派の人々と、イエスさまとのやりとりの続きとして語られています。  その前後のつながりから見ますと、イエスさまのたとえでは、「羊の囲いに入るのに、イエスさまという門を通らないで、ほかの所を乗り越えて来る者、それは、盗人でり、強盗である」と言われたのです。  それは、目の前にいるファリサイ派の人々を指して言っているのであり、その当時の、ユダヤ教の指導者たち、すなわち、王であり、祭司長や祭司たちであり、律法学者たちのことを言っておられます。  彼らこそ、ユダヤ民族の指導者でありながら、律法を振り回して、人々を苦しめ、自分たちの地位や欲望を満足させることしか考えない人たちであると、イエスさまは、厳しく追及されます。  彼らは、今、イエスさまによってせっかく癒やしていただいた、生まれつき盲人だった人を、イエスさまによって癒やしてもらったからと言って、会堂から追い出し、破門してしまいました。このように、ユダヤ教の教会の中で権威を握っている者たちに対して、彼らは羊飼いのように見えるけれども、イエスさまという門を通らない盗人なのだと、イエスさまは、言わたのです。  このたとえをファリサイ派の人々に話されたのですが、彼らにはその話が何のことか分かりませんでした。(10:6) いや、分かろうとしなかった。分かりたくなかったのです。  イエスさまは、「わたしは門である」と言い、さらに、「わたしを通って入る者は救われる」と、言われました。これは、言いかえれば、「わたし、すなわちイエスさまによらなければ救われない」ということです。  ヨハネによる福音書の別の個所ですが、14章に、弟子たちとイエスさまの対話があります。  弟子の一人、トマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」  すると、イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」  すると、それを聞いていた、フィリポが、言いました。  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と。これに対して、イエスさまは言われました。  「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御(おん)父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」  イエスさまは、「わたしは、門である」、「わたしは道である」と言われ、わたしを通って行かなければ、父である神さまを知ることができない。「わたしによらなければ、神さまを知ることができない。そして、ほんとうの救いに与ることはできない」と、教えておられます。  最初のイエスさまのたとえに戻りますと、 第2は、「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(10:2,3)  門から入り、門から羊の群れを連れ出すのは、羊飼いです。教会の制度を表す言葉として、牧師と信徒という言葉が使われています。  そして、牧師は羊飼いであり、信徒は、羊であり、羊の群れであると言われます。イエス・キリストという方の門を通って、まず最初に教会に入るのは牧師です。そして、信徒も牧師に導かれて、イエス・キリストという門をくぐり、社会に出て行きます。  牧師は、信徒や求道者の魂を養わなければなりません。羊飼いである牧師は、まず、正しくイエス・キリストを信じ、その権威を認め、イエス・キリストに従おうとする者でなければ、教会のどのような権限も、規則や掟を持っていても、教会という建物はあっても、中味がない、空しいものだということを教えています。  羊飼いたち自身が、イエスという門を、ちゃんとくぐっていること、まず、「自分自身が救われている」ことを自覚していなければなりません。そして、その羊飼いに連れられ、導かれた羊たちが、救いに至る門をくぐり、道を歩みます。 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(9節)  ここで、大切なことがあります。イエスさまは、「わたしは門である。わたしを通って救いを得なさい」と教えるとともに、すぐあとで、11節に、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言い、さらに、14節に、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」と言っておられます。  ほんとうの羊飼いとは誰なのか。それは、イエスさまこそ、門であり、ほんとうの良き羊飼い、牧者、大牧師キリストであることが示されています。  第3は、「羊はその声を聞き分ける。」(10:3)  ある人の話を読んだことがあります。「スコットランドから来た旅行者が、羊の群れと一緒に歩いている羊飼いに頼んで、ぜひ、あなたの服をわたしに着させてくれないかと言って、自分の洋服と羊飼いの服を交換しました。その旅行者は、身ぐるみ一切を、その羊飼いのものと着換えて、羊の群れの先頭に立ち、得意になって導こうとしました。ところが、羊はどうしても動きません。反対に旅行者の背広に着替えた羊飼いが呼ぶと、羊たちはそっちの方へついて行ってしまったということです。羊たちは、羊飼いの服装や姿にではなく、声に従っていたことが分かったと言います。  「門番は、羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(3-5節)   羊飼いは、つねに、羊の群れの先頭を歩き、時々奇妙な声を出して、羊たちに合図を送ります。羊たちは、その声を聞いて、安心し、ある時は危険を感じ、ある時は立ち止まったり、歩き出したりします。  また、教会の話ですが、羊飼いである牧師は、信徒の前に立ち、羊を導き、羊を守ります。羊飼いである牧師の声は、神の声、イエスさまからの声でなければなりません。  今日の福音書は、今日の教会、羊飼いである牧師と、羊の群れである信徒のあり方を示唆するメッセージだと思いますが、イエスさまによって語られた時は、明らかに当時の、宗教的指導者、政治的指導者に向けて語られた言葉でした。  6節の言葉、「イエスは、このたとえを、ファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」とあります。  それは、「分かろうとしなかった」、「分かりたくなかった」ということではないでしょうか。彼らは、イエスさまの声を聞き分けることができませんでした。彼らは、イエスさまの声を、イエスさまの教えを「分かろうとしなかった」、「分かりたくなかった」のです。 〔2017年5月7日  復活節第4主日(A)  東舞鶴聖パウロ教会〕