わたしの父の家には住む所がたくさんある。

2017年05月14日
ヨハネによる福音書14章1節〜14節  今、ヨハネによる福音書14章1節以下を読みましたが、その直前の個所(13:36-38)には、イエスさまの弟子シモン・ペトロが、イエスさまに、「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問したところから始まっています。  この質問に対してイエスさまは、「わたしの行く所に、あなたは、今、ついて来ることはできないが、後で、ついて来ることになる」とお答えになりました。すると、ペトロは、「主よ、なぜ、今、ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。  すると、イエスさまは、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度、わたしのことを知らないと言うだろう」と、後になって、ペトロが、「あんな人は知らない」と言って、イエスさまを裏切ることをを予告しておられます。  そのような予告に続いて、今日の福音書の個所が語られています。  「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。 もし、なければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。  こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」  イエスさまが「どこかへ行く」と言われて、ここで、弟子たちが考えている「どこか」と、イエスさまが思っておられる「どこか」がすれ違っていることがわかります。  弟子たちは、エルサレムとか、ガリラヤ地方とか、具体的な地域や場所を頭に描きながら、「先生、どこへ行かれるのですか」「先生のいらっしゃる所なら、どんなに苦難が待ち受けていようとも、どこへでもついて行きます」と、ペトロは、格好いいことを言いました。  ところが、イエスさまが語っておられる「どこか」とは、父の家、神さまの家に行く」と言われるのです。  そこへ行くためには、イエスさま自身の上に、弟子たちの上にも、想像もつかないような大変なことが起こることを、さまざまな苦難と十字架の死を体験し、その道を通って、神さまの所へ行かれることを、暗に指し示しておられます。  しかし、弟子たちには、まだ、その意味がわかりません。  イエスさまは、「わたしの父である神さまの家には、住む所がたくさんある。わたしは、あなたがたのために、その場所を用意しに行く。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを、わたしのもとに迎える。  こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と、言われました。  私は、今、京都刑務所で、教誨師という仕事をしています。もう25年以上になりますが、仏教や神道、天理教や大本教など、いろいろな宗教、宗派の先生がたと交替で、刑務所へ行き、個人教誨、グループ教誨、出所前の指導など、そのつど話をしに行きます。私は、もっぱら、仮釈放前の指導を担当しています。  刑務所を管轄する法務省から出している資料によりますと、出所者の再犯防止ということが、近年、大きな問題になっています。  刑務所から満期出所した人の約55パーセント(2012年統計)人たちの半分以上の人たちが、再び罪を犯して刑務所に帰って来ています。出所した後、行く所がない、帰る所がないという状態です。そのような人たちには、一時的な宿泊場所や食事を提供してくれる更生保護施設、また自立準備ホームがあって、そこに身を寄せるのですが、長くは居られません。 その結果、5年以内に再び罪を犯し、過半数の人たちが刑務所に戻って来るという結果になっています。法務省では、そのような再犯防止ための対策を進めていますが、社会全体に、理解を深めてもらうよう広く呼びかけています。  呼びかけの文書には、このように書かれています。  「誰もが『居場所』と『出番』のある社会を実現し,刑務所出所者等の社会復帰を促進し、孤立化や社会不適応に起因する再犯を防止することは、安全・安心な社会の実現に繋がります。」  ここに、「居場所」と「出番」という言葉が使われていて、老人介護のやその他の所でも、広く使われています。  受刑者や、刑務所を出た人だけではなく、今、生きている私たちすべての人に、「居場所」と「出番」が保障されることの大切さが叫ばれています。  これは、単に、住む所、住宅や自分の部屋が、あるかないかだけの問題ではなく、いろいろな場面が考えられます。  学校で、職場で、家族の中で、またいろいろな人との交わりの中で、自分の居場所は、あるのか。  また、家庭や仕事の上で、自分の出番があって、生き生きとそれに取り組めているだろうか。  居場所と出番を、ちゃんと、得ているということは、生きがいを得ているかどうかに通じます。 昨年亡くなった永 六輔さんの言葉に、 「<つらい>とか、<悲しい>とか、<痛い>というのは何とかできるんです。いちばんやっかいなのは<むなしい>ということ。」「自分が誰かの役に立っているという自信のある人は絶対に<むなしく>ならない。<むなしさ>を感じない暮らしというのが充実した暮らしだ。」(「二度目の大往生」1995年、岩波新書 36頁)  私たちは、年を取っても、若くても、いつまでも、生き生きと、生きがいを感じつつ生きたいと思っています。  ペテロを初め、弟子たちの考え方では、目に見える、現実的な、居場所と出番、安住の場所と、やりがいのある役割、仕事があれば、しあわせということになるのでしょうか。  しかし、イエスさまが言っておられる居場所と出番は、必ずしもそうではありません。  それは、イエスさまが、用意して下さる場所、わたしたちを迎えて下さる場所、そして「わたしの居る所にあなたがたも居なさい」と言われる場所です。  イエスさまが言われる居場所は、何畳とか何坪と広さを測れる場所ではありません。美しい音楽が流れ、美味しいものをいつもいっぱい食べられる場所でもありません。  イエスさまが「あなたは、今どこにいるのですか」と問われる居場所とは、「イエスさまが居られる所」、「イエスさまと共に居る所」、それが、イエスさまが言われる居場所です。  さらに、弟子の一人トマスが言いました。(5節)  「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」  どうしたら、ほんとうの居場所、神さまが居られる所へ、行けるのでしょうか。どの道を通って行けばよいのですか」と、尋ねました。  イエスさまは、言われます。  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。  イエスさまは、ご自分の鼻の頭を指さして言われました。  「わたしだ、わたしだ。わたしが道だ。わたしという道を通って行かなければ、父である神さまの所へは行けない。」  自分たちの居場所について、弟子たちが持っているイメージと、イエスさまが示しておられる内容と、言っていることが、すれ違っています。求め方の次元が違っています。話の焦点が合っていません。  弟子たちにとって、イエスさまが語っておられることとがぴたっと、その焦点が合い、次元が一致するためには、イエスさまは、苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえって、弟子たちの前に現れ、彼らに息を吹きかけ、聖霊を受けなければなりませんでした。  その時、はじめて、彼らは、イエスさまが言っておられたことを理解し、自分たちの居場所を見つけ、命を懸ける出番を見つけることがでることになったのです。  さて、私たちは、どうでしょうか。  私たちは、自分の居場所と、自分の出番を、確固として持っているでしょうか。神さまを、イエスさまを、信じて生きる、信仰生活を送っている中で、どこに居場所を置いているでしょうか、どのような出番を得て力を発揮しているでしょうか。私たち一人一人が、自分自身をふり返って、在るべき自分の居場所と出番を確認したいと思います。  今、聖餐式を続けます。慣れ親しんだ聖餐式の式文ですが、この中に、重要な所で、たびたび、「主は、みなさんとともに」「また、あなたとともに」と唱え、あいさつを交わします。これは、「主なる神さまが、子なるイエスさまが、あなたと共に居られますように」「また、あなたも、神さまと共に、イエスさまと共に、居られますように」と祈り、確認し合います。  これは、裏返せば、「あなたは、今どこにいるのですか」と互いに「居場所」を尋ねあっていることではないでしょうか。 〔2017年5月14日 復活節第5主日(A) 大津聖マリア教会〕