わたしはぶどうの木

2017年05月21日
ヨハネによる福音書15章1節〜8節 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつな がっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実 を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わた しの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつ ながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、 木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あ なたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっ ており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつな がっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、 集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつ ながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望む ものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに 実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお 受けになる。  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」  イエスさまは、「わたしはぶどうの木」と言って、私たちと、イエスさま、そして、神さまの関係について、どのようにあるべきかということを、たとえをもって語っておられます。  何十年も前、私が、まだ大阪教区に居て、司祭になったばっかりの時に聞いた話があります。  大阪の豊中市の庄内というところに、「庄内キリスト教会」という教会があります。当時、文化住宅といわれる住宅がぎっしり立ち並んでいる地域でありまして、その教会の同じ敷地内に、小さな保育園がありました。  その当時、その教会の牧師だった木川田司祭さん(のちの大阪教区主教)から、直接、聴いた話です。  ある時、その教会の信徒の婦人が、ぶどうの木の苗を一本買ってきて、教会の軒下に植えて帰りました。  「聖書には、ぶどうの木のお話があるので、教会にぶどうの木があったらいいなと思って買ってきました」と言われたそうです。その時、「このぶどうの木が大きくなって、実がいっぱいなったら、それで、ぶどう酒を作って、聖餐式ができたら良いですね」と言って植えて行かれました。  しかし、予想に反して、ぶどうの木を育てるのは難しく、ひょろひょろと伸びても、実はつかない、枯れかかっているような状態だったと言います。  何年か経って、ある時、その保育園に通う園児のお母さんと子どもが、教会に1羽の鶏を連れてきました。夜店で、売っていたひよこが、あんまり可愛いので、子どもにせがまれて買ったというのです。ベランダで、毎日水や餌をやって、育てたのですが、こんなに大きくなってしまいました。  だが、困ったことに、その鶏がおんどりで、朝早くからコケコッコーと鳴くようになり、近所から苦情が出て、うちではもう飼えません。それで、保育園に、寄付したいと申し出られ、子どもたちのために飼ってやってくださいということでした。  木川田司祭さんは、子どもも喜ぶでしょうと言って、その鶏をもらい受け、教会の窓の下に、ご自分で鶏小屋を作って、これを保育園で飼い始めました。  ところが、次の日の朝から、毎朝、朝早くから、大きな声で鳴くので、家族は、ゆっくり寝ていられません。その鶏は、園児を突くし、匂いはするし、卵は産まないし、世話はしなければならないし、大変なものをもらってしまったと後悔しながら、それでも、役に立たないおんどりを、仕方なく飼っていたというのです。  さらに、そのことからしばらく経って、夏になりかかった時に異変というか、不思議なことが起こりました。特別のことをしていないのに、さきほどのぶどうの木が、例年になく、突然よく実り、秋には、ぶどうの実がいっぱいなって、実ったというのです。ぶどう酒とまではいきませんでしたが、礼拝後に、教会の信徒一同で美味しい美味しいといって食べたと言います。  特別の手入れもしていないのに、みんなで不思議ことがあるものだと話し合っていました。  さらに、しばらくして、教会と保育園で、下水工事をすることになり、業者に来てもらって、教会の玄関の前を掘り起こしました。その工事の最中に、その水道屋さんが、「先生、先生」と言って呼びに来ました。「教会の玄関の前を横切って、太い何かの根が伸びています、どうしましょう」と言ってきました。  木川田司祭さんが行ってみると、確かに太い根が地面の下を這っています。しかし、その周りにはそれらしい木も植わっていません。そこで、その根をたどって掘ってみますと、それが、あのぶどうの木の根であることがわかりました。  さらに、その根の先の方をたどってみますと、それは、あの鶏小屋まで伸びていました。ぶどうの木と鶏小屋の間隔は、教会の建物の端から端まですから、10メートルぐらいはあります。鶏の糞が、鶏小屋の床から地面に落ちて、地面にしみ込み、そこから、ぶどうの根に肥料を提供していたのです。  何の役にも立たないと、嫌われていたおんどりの鶏、この鶏が、人間の見えない所で役に立っていたのです。そして、その鶏小屋の下まで根を伸ばしていったぶどうの木の生命力。昔、私は、この話しを、木川田先生から聞いたとき、感動しました。ぶどうの木の話が出てくるたびに、この話を思い出します。  みなさんは、どこかで「ぶどうの木」をご覧になったことがあると思います。ぶどう狩りに行ったとか、バスの窓から、ぶどう畑を見たとか、日本でも、山梨県の方に行きますと、ぶどう畑が延々と続いているのが見えます。  ご覧になるとわかるのですが、ぶどうの木は、それほど太くない木の幹から、枝がのびています。ぶどう園のぶどうなどは藤棚のようになった棚を伝って、枝が10メートルも15メートルも伸びています。そして、地下の根もたくましく伸びているのだそうです。  さて、イエスさまは、当時、誰でも知っているぶどうの木を指して、「わたしはぶどうの木である」と言われました。  そして、「あなたがたは、その枝である。人が、あなたがたが、わたしにつながっており、わたしも、その人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは、何もできないからである。」と言われました。  イエスさまは、この身近な植物、ぶどうの木を取り上げて、ご自分と、弟子たちまたはクリスチャンとの、あるべき関係について、説明されました。  わたしは、ぶどうの木だ、幹だ、と。ぶどうの木が、地面に根をはって、地中から水分を吸い上げ、栄養分を吸い上げ、これを大きな枝に、そして、小さな枝の先端まで、送ります。いわば生命がつながっています。水や肥料が供給されて、はじめて生きて成長していけるのです。さらに、「わたしの父である神さまは、ぶどう園を所有し、手入れをする農夫である。」と、農夫は、このぶどうに木に手入れをし、また、木の一部を切り落とす、裁く方でもあると、言われます。  このように、イエスさまは、「ぶどうの木」にたとえて、今、現在に生きる私たちと、イエスさまとの関係、教会と私たちの関係について、教えておられます。  教会とは、何でしょうか。教会の建物をいうのでしょうか。牧師でしょうか。信徒が集まっている集団のことを指すのでしょうか。  私たちは、月曜日から土曜日まで、社会で、学校で、家庭で、その他いろいろな所で、まったく別のことをして生活をしています。そして、毎週日曜日、このように礼拝に集まってきます。私たちは、年齢も、生い立ちも、職業も、経歴も、何も共通点を持たない人たちの集まりです。  しかし、唯一、共通点があります。それは、あのイエス・キリストという方を信じているということです。  イエスさまに対して、「あなたこそ、キリストです。あなたこそ神の子です」と信仰告白をして、ここに居るということです。  教会とは何か、それを、ちょっと難しい言葉で言いますと、それは「イエスは、主であると信仰告白した人たちの共同体」です。これを「信仰共同体」といいます。単に仲良し小好しの集団ではありません。  使徒パウロは、同じことを、このように言いました。(コリントの信徒への手紙12章27節)   「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はそ の部分です。」  「神は、また、すべてのものを、キリストの足もとに従わ せ、キリストを、すべてのものの上にある「頭」として、 教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、 すべてにおいて、すべてを満たしている方の満ちておられ る場です。」(エフェソの信徒への手紙1章22節,23節)   教会とは、キリストの体です。キリストは、その頭です。私たちは、手であり、足であり、耳であり、目であり、その体につながっている部分、肢体です。  このことを言いかえますと、私たちは、自分ひとりだけでは、クリスチャンではありえないということです。私たちぶどうの枝は、ぶどうの木につながっていて、生きているように、キリストの体につながっている部分、手足として、はじめてクリスチャンとして生きていけるのです。  洗礼を受けたということは、このように、キリストの体の一部となったということであり、ぶどうの木に、幹につながっているということです。  私たちは、ぶどうの木、太い幹につながっている枝です。 また、私たち一人一人は、キリストを頭とする、キリストの体の部分です。枝は幹につながっていなければ枯れてしまいます。手や足は体につながっていなければ死んでしまいます。それは、私たちの信仰が枯れて、朽ちてしまうことを意味します。  反対に、しっかりとつながっていれば、葉を繁らせ、実を稔らせます。手足は、元気に動いて、頭の命じるままに立派に働くことができます。  教会の重要な営みは、共に礼拝をささげることです。  そして、聖餐に与ります。キリストの体、キリストの血をいただくことによって、私たちは養われ、育てられるのです。わたしたちが、キリストにつながっていることを、体中で感じることができる、瞬間です。  共に、心から感謝と賛美の祭りをささげ、共に喜びの声を上げましょう。         〔2017年5月21日 復活節第6主日(A年) 聖光教会〕