イエスの祈り

2017年05月28日
ヨハネによる福音書17章1節〜11節  今、ヨハネによる福音書の17章1節から11節を読みました。この個所には「イエスの祈り」という見出しがつけられています。ヨハネによる福音書全体を見ますと、イエスさまは、弟子たちと共に旅をしながら、病人をいやし、目の見えない人を見えるようにし、いろいろな奇跡、すなわちしるしを行い、ファリサイ派など、多くのユダヤ人たちと論争し、そして、そのつど、弟子たちに、大切なことを教えて来られました。  そして、イエスさまは、過越の食事の時には、弟子たちの足を洗い、食事を共にし、その席で、これから起こることを見つめながら、弟子たちに、最後の「訣別の説教」と言われるお別れの話をなさいました。  その訣別の説教は、聖書では5ページ半に渡り、14章、15章、16章と、長い話を、弟子たちに向かってなさいました。  その後、17章の1節から26節まで、弟子たちを前にして、長いお祈りをされました。  今日の福音書は、その長いお祈りの前半の部分になります。イエスさまは、ある時には、弟子たちに、このように祈りなさいと言って「主の祈り」を教え、事あるごとに、お祈りをしておられたと記されていますが、今日のヨハネが伝える福音書に記されているお祈りは、いちばん長いお祈りです。  そのお祈りの内容は、大きく3つに別れています。  第1は、イエスさまが、ご自分についてお願いになる祈りです(1節〜8節)。  第2は、弟子たち、その時の使徒たちについてお願いになるお祈りです(9節〜19節)。  そして、第3は、もっと広くあらゆる時代の、あらゆる国のキリスト教徒、教会のために祈っておられる祈りです。  このイエスさまのお祈りを、あらためて、ゆっくり読んでみますと、私たちが、日頃、教会で、グループで、また、自分ひとりで祈っているお祈りと、大きな違いがあることに 気づきます。  私たちのお祈りは、いつも、始めから終わりまで、お願いごとばかりです。「何々をして下さい」「何々を与えて下さい」というような、神さまに、何かを求めている言葉ばかりを並べているような気がします。そのようにすることが、こまごまと、いろいろなことを並べ立てることが、お祈りだと思っているような気がします。 イエスさまは、確かに言われました。  「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。‥‥‥あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7−11) と。  また、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち2人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父は、それをかなえてくださる。2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19−20)とも教えておられます。  しかし、神さまに、求め、お願いごとをするその姿勢は、 日本人が神社やお寺で、鈴を鳴らし、お賽銭を投げて、願いごとをしているお祈りと、同じではないかと思います。  イエスさまは、何でも求めなさい、お願いしなさい、心を一つにして求めるなら、わたしの天の父は、それをかなえてくださると約束して下さっているのですから、同じことではないかと言う人がいるかも知れません。  しかし、よく考えてみますと、私たちは、一方では、「全知全能の神を信じる」、「宇宙世界を支配しておられる神を信じる」言いながら、お祈りと称して、神の御心を変えようとする、神さまのなさることを、変更させ、私たちが求め、欲するままに、神さまに身勝手な願いを押しつけ、神さまに命令しているようなお祈り、それが「お祈り」だと、思っていることはないでしょうか。  もう一度、今日の福音書の個所に戻って、「イエスさまの祈り」を見ますと、私たちの祈りと、根本的に違っていることに気づきます。  イエスさまは、最初に「父よ、時が来ました」と呼びかけておられます。確かに、イエスさまは、ご自分に差し迫っている時、これから受けようとする苦難と死を予感しながら祈っておられる「時」であることがわかります。  「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハネ17:1-5)  この1節から5節までのお祈りでは、神さまに「願いごと」らしいことを言っておられるのは、唯一、「子に栄光を与えて下さい。」(1節)、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えて下さい。」と求めておられるだけです。  それ以外の言葉は、父である神さまと、子であるイエスさまが、話し合っておられる、対話を交わしておられるような文体です。  私たちにとって、「祈り」とは何でしょうか。それは、神さまと、私たちとの「対話」だと言うことができます。  その内容は、第一に、私たちが受けている神さまからの大きな、大きな、恵みを感謝する気持ちを述べることであり、その二は、神さまを忘れ、神さまのみ心に背いて生きてしまっている自分をふり返って、罪を懺悔することであり、第三に、身近な人々、遠くの人々を思い、その方々のために祈ることではないでしょうか。神さまは、世界中のすべての出来事、すべての人々のことをすでにご存じです。私たちが教えてあげなければ、気が付かれないような神さまではありません。まず大事なことは、その方々のことを思い、その方を話題にして、神さまと対話することが大切です。  1996年に亡くなったオランダ出身の元カトリックの司祭、ヘンリ・ナウエンの著書の中に、「祈りは、聴くことである」、神さまの声を聴くことがいちばん大切なことであるという言葉があったことを覚えています。神さまに祈る、神さまと対話するためには、まず、神さまの声を聴かなければなりません。「主よ、どうぞ、お語り下さい」からお祈りを始める時、私たちのお祈りの内容も変わってくるのではないでしょうか。  最後に、今日の福音書にある、イエスさまの願いについて考えてみましょう。17章1節に「子に栄光を与えて下さい。」と願い、5節に、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えて下さい。」と繰り返し願っておられます。  「栄光」とは、聖書が書かれたギリシャ語で「ドクサ」と言います。これは、威信、栄誉、輝き、栄光、栄華などと訳されています。音楽会や演劇で、それが終わった時、一人の人の上にスポットライトが当たり、人々から万雷の拍手を受け、「すばらしい」「よくやった」と言って誉め讃えられます。その姿こそ、栄光を受けている姿です。  オリンピックやその他のスポーツの世界でも、競技の後で、優勝者は、表彰台に上がり、栄光の冠が与えられ、拍手を受け、声を上げて、讃えられます。栄光を受けるということは、その名誉にふさわしい人が、その値打ち、価値が認められることです。価値あるものが、価値あるものとされることです。  私たちは、「主の栄光」を讃えます。私たちの世界で、いや、宇宙全体で、最も栄光を受ける値打ちを持つ方は、神さまです。天地の造り主、宇宙のすべてを支配し、すべてを善しとし、すべてを愛される神さまこそ、誰よりも讃えられるべき方であり、栄光を受けるべき方です。  私たち人間が、神を神とする時、神は栄光をお受けになります。イエスさまは、その神のみ子です。神の子が、私たちが住むこの世にお生まれになり、人として、最も低い者のひとりとされました。しかし、神のみ子、イエスさまが、神の栄光をお受けになるためには、今、目の前に迫る、数々の苦難と、十字架の死という苦痛と恐怖と絶望のトンネルを通らなければなりません。そのトンネルを抜けた時、再び、神となられる、神として「栄光」をお受けになるのです。  「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と祈られたのは、イエスさまにとっては、苦難と十字架の死を受けることであり、「その時が来ました」というのは、人間としての苦しみと死を受け入れることでした。  それでは、何のために、本来、栄光に輝く神であるイエスさまが、このような苦痛と苦難のトンネルを通らなければならなかったのでしょうか。それは、人々に、わたしたちに、「永遠の命」というものがあることを知らせるために、なくてはならない出来事だったからです。  イエスさまのお祈りの3節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。  それは、誰もが、わたしたちすべての人々が、「永遠の命」というものがあることを知るためです。永遠の命とは、「神の国」、「天国」と同じ意味です。永遠の命、神の国、天国とは、神さまとそのみ子イエス・キリストのみ心と力が、徹底する、いきわたる世界があることを、人々が、ほんとうにしっかりと知り、受け取るためです。  この3節のおわりに、「あなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。  この「知る」は、ギリシャ語で、「ギノースコー」という言葉が使わされています。この言葉は、単に、「聞いて知る」というだけでなく、「分かる」、「気づく」、「感じる」、「悟る」、「認める」、「理解する」という深い意味を持っています。  私たちの人間関係で言えば、「あの人を知っている」というだけの人間関係もあれば、親友だ、愛し合っている恋人だ、夫婦だという人間関係もあります。その知り方、深さ、親密さは違います。  イエスさまが言われる「知ること」とは、心の深い所で受け取り、そのことに人生をかけるような「知り方」、心の底から理解することを意味しています。  「永遠の生命」とは、父である神と、子であるイエス・キリストを、人々が信じて、受け入れ、ほんとうに心の深いところで理解することです。そのことを知らせるためには、栄光の神の子が、苦難と十字架の死というトンネルを通らなければなりませんでした。その時が来ました。イエスさまは、今、その使命を果たし、父である神さまのもとに帰り、再び、栄光の座につこうとしています。  「どうぞ、あなたの御前で、わたしに栄光を与えてください」(5節)と、祈られました。 〔2017年5月28日 復活節第7主日(A年) 聖光教会〕