聖霊を受けなさい。

2017年06月04日
ヨハネによる福音書20章19節〜23  教会の暦では、今日の主日は、「聖霊降臨日」(ペンテコステ)と呼ばれる日です。  「降誕日」(クリスマス)と、復活日(イースター)は、大祝日として、最も広く祝われていますが、聖霊降臨日は、これに次ぐ祝日とされています。この日は、イースターから数えて、50日目になります。  今日の使徒書、使徒言行録2章1節から4節には、このような出来事が起ったと記されています。  「五旬祭の日が来て、一同が一つになって、集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」  使徒言行録は、ルカによる福音書の続編であるとされていますが、このように、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響いた」とか、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」というように、本来、目に見えない神の力、聖霊が、耳で聞いた、目でみた情景として描かれています。  イエスさまの12人の弟子たちは、このような「聖霊体験」をしたと、聖書に記されています。  そして、この聖霊体験によって、弟子たちに、大きな変化が起こりました。死んだようになっていた弟子たちは、この体験によって、生まれ変わったのです。  弟子たちは、この方こそ神の子、救い主だと信じ、人生のすべてをかけてついてきたのですが、人々が見守る中、苦しみを受け、十字架にかけられて、あっけなく殺されてしまいました。また自分たちも、あのナザレのイエスの弟子だったというので、ユダヤの役人や、ローマの兵士たちに捕らえられて、イエスさまと同じように殺されるのではないか。さらに、自分たちは、これから何に頼って生きていけばいいのだろうか。  このような、恐怖と不安と絶望のため、弟子たちは、何もできず、心はどん底に陥り、ただ、ただ息をひそめて、体を寄せ合っていました。そのような状態の時に、この事件が起こりました。それは、彼らの上に、聖霊が降ったという出来事です。この聖霊体験によって、彼らは生まれ変わったのです。弱々しく、ただ息をひそめていた彼らが、突然、一人一人立ち上がり、不思議な言葉で、語り始めたのです。  この聖霊降臨の出来事、弟子たちが受けた聖霊体験によって、この瞬間、教会が生まれたと言われます。ペンテコステによって、最初の教会が誕生したのです。  さらに、新約聖書には、もう一つ、弟子たちに聖霊が降ったという出来事が記されています。  今、読みました今日の福音書、ヨハネによる福音書20章19節以下にあります。弟子たちが受けたもう一つの聖霊体験が記されています。この出来事にも、教会の誕生、キリスト教の宣教活動の出発を表す記事が報告されています。  時の経過から見ると、このヨハネ福音書が紹介している出来事の方が早い時期だったことになります。  その日、すなわち週の初めの日の夕方、それは、イエスさまが、亡くなって3日目、復活された日の夕方のことでした。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて、息をひそめていました。  そこへ、よみがえったイエスさまが、突然、現れたというのです。弟子たちが居る部屋の真ん中に立って、言われました。「あなたがたに平和があるように」と。  そう言って、ご自分の両手と、わき腹とを、お見せになり、ご自分であることを証明されました。そこに居た弟子たちは、その方が、イエスさまだということを知って、飛び上がって喜びました。 よみがえったイエスさまは、「あなたがたに平和があるように」と言われ、さらに、もう一度言われた後、  「父である神さまが、わたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。  そして、彼らに、ハーッと息を吹きかけて、言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。  使徒言行録が伝える「聖霊降臨の出来事」と、ヨハネ福音書が伝える「聖霊を受けなさい」と言って、息を吹きかけられたこの事件と、2つの出来事があったのか、この2つの出来事の関係はどうなっているのか、よくわかりませんが、このようにして、弟子たちは、特別の聖霊体験を受けたという聖霊体験が2ヶ所に、伝承として伝えられています。  いずれにしても、イエス・キリストの生涯は、イエスさまの死によって、終わったのではありませんでした。  さらに、イエスさまは、よみがえって、弟子たちの前に姿を現し、聖霊をお与えになったのです。  弟子たちに、聖霊が吹きつけられ、それ以来、弟子たちは特別の力が与えられ、死んだようになっていた弟子たちは生まれ変わりました。彼らは、動き出しました。彼らは、働き始めたのです。そこから、キリスト教が始まり、教会が始まったのです。  それでは、今日のテーマである「聖霊」とは、何でしょうか。日頃、私たちはは、聖霊を、どれほど意識して生活しているでしょうか。  「聖霊」という言葉は、英語では、Holy Spirit(ホーリー スピリット)と言います。  旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「ルアッハ」と言い、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「プネウマ」という言葉が使われています。このルアッハもプネウマも、元は、風、息という意味から来ています。  イエスさまは、ニコデモという人に言われました。「肉から生まれたものは、肉である。霊から生まれたものは、霊である。『あなたがたは、新たに生まれねばならない』と、あなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたは、その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:6-8)と。  イエスさまは、ここで、風と霊という言葉を重ね、掛け言葉にして、解らせようとしておられます。  また、創世記では、天地創造の物語の中では、 「主なる神は、土(アダマ)の塵で、人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)と、記されています。  風も息も、そして、神さまから送られる霊も、私たち人間の目には見えません。しかし、風も息も、一吹きすると、木の葉を動かす力を持っています。大風に至っては、大木も家も吹き飛ばし、神の息は、人に命を与え、生きるものとされます。神の霊は、神の手足となって、すべてのものを動かし、生かし、支配し、またある時には、死に至らせる、目に見えない神の力です。  私たちは、「三位一体である神を信じます」。父である神さま、子であるキリスト・イエスさま、そして、父と子から出て、わたしたちを突き動かし、助け、導いてくださる聖霊を信じます。三位一体の神を信じるということは、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神が、三つの位を持ち、三つの神格を持ち、それでいて、唯一の神であることを信じるということです。言いかえれば、神さま、イエスさま、そして、聖霊さまを、同じように、神さまとし、一つの神さまとして信じることを確認します。  私たちは、日頃、神さま、イエスさまとは呼びますが、聖霊に対しては、ただ「聖霊」呼び捨てにし、「もの」のように扱って、聖霊も、神そのものだということを忘れてしまっていることはないでしょうか。  聖霊さまは、神さまとイエスさまから出て、私たち一人一人を強めてくださる神さまです。この聖霊さまが働いて、弟子たちを立ち上がらせ、突き動かし、前へ押し出したように、私たちにも、聖霊さまが、後から突きだしてくださいます。  最後に、よみがえったイエスさまは、弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われました。ヨハネ福音書20章19節と、21節と、2回、繰り返して言われました。  この「平和があるように」と言われる「平和」とは、どのような意味でしょうか。ヘブライ語では「シャローム」、ギリシャ語では、「エイレーネー」という言葉です。英語では、 「Peace」と訳されています。  このヘブライ語のシャローム、ギリシャ語のエイレーネーは、平和、平安、安心、安全、無事を表す言葉です。  必ずしも、戦争状態の反対語としての「平和」という意味ではありません。  シャローム、エイレーネーは、人と人との出会いや別れの挨拶の言葉として使われ、また相手を祝福する言葉でもありました。かつて使われていた、文語の聖書では、このヨハネ 20章19節、21節の「あなたがたに平和があるように」は、「平安なんじらにあれ」と訳されていました。  よみがえったイエスさまが弟子たちに現れたこの場面では、弟子たちの心の状態は、まさに恐怖、不安、絶望のどん底にありました。その精神状態から解放される、抜け出す方法は、唯一、父である神さまと子であるイエスさまが一つであるように、弟子たち一人ひとりが、見失ってしまっていたイエスさまを再び発見し、再び出会うことにあります。そのことによってのみ、恐怖、不安、絶望の状態から回復することができるのです。イエスさまは、「あなたがたに、主と共にある平安、平和があるように」と、繰り返し呼びかけられました。  かつて、聖霊さまが弟子たちに現れ、彼らを突き動かしたように、今日、聖霊降臨の出来事を思い浮かべ、私たちの群れにも、聖霊さまが遣わされ、主と共にある恵みと歓びに満ちあふれることができますよう、祈りましょう。  「主の平和が、みなさんと共にありますように」 〔2017年6月4日 聖霊降臨日(A) 京都聖ステパノ教会〕