いつもあなたがたと共にいる。

2017年06月11日
マタイによる福音書28章16節〜20節  今日は、「三位一体主日」という日です。私たちは、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神、三つであって一つである神さまを信じるという「三位一体の神」を信じる信仰を「確認」する日です。  聖パウロは、コリントの教会の人びとに宛てて書いた手紙、コリントの信徒への手紙第二 13章5節に、このように書いています。  「信仰を持って生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストが、あなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」  あなたがたは、信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのですか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられてしまいますと、パウロは、このように言っているのです。  今日の主日は、聖パウロから迫られるように、私たちの信仰、自分自身の信仰のあり方を、静かにふり返り、吟味し、そして、もっと、もっと、ほんとうの信仰を、しっかり持たせて下さいと、祈り求める時です。  さて、そのことを頭に置きながら、今日の聖書の言葉から学びたいと思います。  今日の福音書は、マタイによる福音書の最後の部分です。 復活されたイエスさまが、ガリラヤにおいて、弟子たちに命じられた最後の命令が、ここに記されています。  その中でも、一番最後の言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というみ言葉について、もう一度考えてみたいと思います。  世の中には、たくさんの宗教があります。それぞれ自分の信じているものが一番正しい、いちばん素晴らしいと思って信じているわけですが、キリスト教の信仰にも、いくつも特徴があります。  最もよくその特徴を現し、だいじな教えだと思われている言葉、それは、この「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われた言葉です。  マタイによる福音書の記者は、この言葉で福音書を終わっています。イエスさまが弟子たちに語られた、多くの言葉の結論とも言うべき、重要な最後の言葉で、この福音書を結んでいます。  説教の中で、テレビのドラマの話などしないほういいと、日頃は、思っているのですが、たまたま、今、続いているNHKの朝の連続ドラマ「ひよっこ」のことを、思い出しましたので、その物語の中の一部から、話をさせて頂きます。  毎朝、このドラマを見ておられる方もあると思いますが、見ていない方もおられると思いますので、少しあらすじを言いますと。  1964年(昭和39年)ごろ。ちょうど東京オリンピックが行われた時代です。茨城県のある山あいの農村、農家で育った高校卒の谷田部みね子という女の子が主人公です。  みね子の家は6人家族。不作の年に作った借金を返すために、お父さんは、東京に出稼ぎに行っています。高校を卒業したら、農家の仕事を手伝って、お祖父さんとお母さんに楽をさせてあげたい…、そう思っていたみね子の人生は、東京へ出稼ぎに出ていたお父さんが、お正月に、帰ってこなかったことで、生活が一変します。「お父さんの分も働いて、仕送りをします。東京に行かせてください」と言い、東京に行けば、いつかきっと、お父さんに会える気がして、みね子は、決心しました。2人の幼なじみと一緒に、集団就職で上京したみね子は、墨田区の工場で働き始めました。  初めて見る東京は、想像をはるかに超えた大都会で戸惑うことばかり。低賃金に慣れない仕事。待ち受けていた現実に、時々くじけそうになるのですが、東北各地から上京してきた寮の仲間たちや舎監さんが心の支えとなっていきます。 しかし、オリンピック後の不況のあおりを受けて会社は倒産し、工場は閉鎖されてしまいます。  行くあてのないみね子を拾ってくれたのは、かつて帰省した父から「おいしい」と土産話を聞かされていた赤坂の洋食屋でした。この店に再就職し、下宿も決まり、そこで、働き始めるというのが、先週までのストーリーです。  友だちや職場の仲間たちとの泣き笑いの日々の中で、みね子は、さまざまな出会いと別れを経験しながら試練を乗り越えていくというすじ書きですが、私は、朝食を取りながら、ぼーっと見ていて、その中で、いつも出てくるセリフに興味を持つようになりました。  この主人公のみね子は、休みの日には、お父さんの消息をたどって、東京の街をを探し歩くのですが、毎日の生活の中で、いつも、心の中で、「お父さん、今日はこんなことがありました」、「お父さん、どうしたらいいのでしょう」、「お父さん、こんな嬉しいことがありました」とつぶやきながら、いろいろなことを経験していくのです。心の中でつぶやく独り言が、会いたいと思っても会えないお父さんへの思いと、目に見えないお父さんがいつも一緒にいる思いが伝わってきます。 このセリフが、みね子の心中を表しています。  私たちが、イエスさまと一緒に居る、現実の生活の中で、目に見えないイエスさまと共に居るということは、このみね子のように、イエスさまに向かってつぶやき、訴えて生きるということではないでしょうか。  マタイの福音書に記された、イエスさまの最後の言葉は、私たちが生きている今も、共にいる、共にいてくださるということです。そのことが、約束されているということです。  一方、私たちが生きている今の社会では、人が人と共にいる、共に居つづけるということが、いかに難しいことかということ、その難しさを切実に感じて知っていなければ、イエスさまのお言葉の意味の深さもわかりせん。  家族が一緒に住んでいても、一緒の職場で朝から晩まで顔をつき合わせて仕事をしていも、一緒に住んでいるから、共に働いているからと言って、ほんとうに居る喜びを感じているとは限りません。大勢の人々に取り囲まれていても、その中で何とも言えない淋しさを感じたり、孤独を感じたりすることがあります。  反対に、たった一人の人を思い、遠くに暮らしていても、また、愛した人がもうすでにこの世に居なくても、いつもその人と共にいることを確信することもでき、満たされて生活することもできます。  1996年に亡くなったカトリック作家、遠藤周作氏の作品に「死海のほとり」(1973年)という作品があります。  遠藤周作氏が小説の中で描いたイエス・キリストは、無力な、いつも哀しい眼をしていたイエスとして描かれています。決して華々しく奇跡を行って人を引きつけるような方ではありませんでした。  しかし、すべての人々から見捨てられ、誰からも見放された人と共にいて、最後まで立ち去らなかった人、共にいる人、「そばにいる。あなた一人ではない」と、小さな声でつぶやき続けた人、そして、その結果、人をいやし、立ち上がらせた人、そのために大勢の人がその後について歩いた、そのような人として描かれています。  マタイ福音書の最後の言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」は、私には、この言葉が、遠藤周作が描くイエスの、「そばにいる。あなた一人ではない」という言葉に聞こえます。  復活したイエスさまは、いつもわたしたちのそばにいてくださいます。あなたのそばにいて下さる。  「あなたは一人ではないのだよ」とささやいてくださる。  忙しい、忙しいと走り回っている中でも、何とも淋しさを感じる時があります。何ともいえない孤独感に襲われることがあります。腹が立ってしようがない時があります。思わぬことが起こったり、人の心がわからなくなったりする時もあります。親子といえども、夫婦といえども、どんなに親友だといっても、立ち入ることができない、話せない、わかってもらえない時があります。誰も彼も、みんな立ち去ってしまうように感じる時があります。  しかし、イエスさまは、立ち去らない。イエスさまは、そばにいて下さる。「あなた一人ではないのだよ」と言って下さる。私たちがイエスさまを信じるということは、そのようなイエスさまが、いつもそばにいて下さることを信じ、信頼し、確信することです。  ドラマの中のみね子さんが、毎日、事ある毎に、お父さんに語りかけているように、私たちも、イエスさまに、毎日、事ある毎に、イエスさまに語りかけることができます。  それは、私たち、クリスチャンの特権です。 「イエスさま、今日は、こんなことがありました」、「イエスさま、私は腹が立ってしようがありません」、「イエスさま、こんなにうれしいことがありました」、「イエスさま、私は、どうしたらいいのでしょう」と、心の中で、いつも、イエスさまと対話しながら、生きていくことができます。  こんなにすばらしいことはありません。私たちに与えられている恵みです。  パウロが、コリントの教会の人々に書いた手紙を通して私たちに投げかけられた言葉、  「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」に対する、これが答えであり、信仰に生きる生活です。  どんな時にも、私たちを裏切ることなく、私たちを見放すことなく、いつも変わらない神さまのまなざし、それが、目に見える姿をとって現されたイエスさまであり、この方が、つねに私たちと共にいてくださると約束して下さり、私たちが、それを確信し、体中でそれを受け取る瞬間こそ、私たちが、本当の安心と喜びと感謝に満たされる時だと思います。  そして、それだけでなく、イエスさまにならって、私たちも、隣人に対して、「わたしはあなたのそばにいますよ、あなた一人ではないですよ」と言える人でありたい、そのような生き方をしたいと願います。 最初に読みました聖パウロの手紙の、もう一節前を読みます。  「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(コリントの信徒への手紙�� 13:4) 〔2017年6月11日  三位一体主日・聖霊降臨後第1主日  大津聖マリア教会〕