恐れるな
2017年06月25日
マタイによる福音書10章26節〜31節
1 恐れるな
イエスさまが、十字架につけられて亡くなったあと、弟子たちの上に、次々と事件が起りました。
その最も大きな問題は、クリスチャンに対する迫害でした。イエスさまが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架につけられたことの影響で、弟子たちは、自分たちも捕らえられるのではないか、殺されるのではないかという恐怖、不安、そして、大きな絶望感に陥っていました。
ところが、五旬節の後、弟子たちの上に聖霊が降り、その場に居合わせた人々が驚くような聖霊経験を受けました。 その時を境にして、びくびく、おどおどしていた弟子たちは、突然、立ち上がり、勇敢に、イエス・キリストについて証しし始めました。積極的に人々に福音を宣べ伝え始めました。
使徒たちの働きによって、福音を信じる人々も増え、いろいろな世話をする人が必要になり、使徒たちは、あらたに7人を選び出し、彼らの頭に手を置いて、その役に当たらせました。
その中の一人に、ステファノという人がいました。この人は「信仰と聖霊に満ちている人だった」と記されています。 ステファノは、人々の前に立ち、勇敢に、イエス・キリストについて語り、神さまが、この世に送られた神の子、救い主イエス・キリストを、あなたがたが殺してしまったのだと、ユダヤ人たちの罪を厳しく追及しました。
使徒言行録7章51節以下に、このように記されています。ユダヤ人に向かって「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」と語りました。(51節〜53節)
これを聞いた人々は、激しく怒り、石を投げて、ステファノを殺してしまいました。このステファノは、最初の殉教者と言われています。
その日、エルサレムの教会に対して、大迫害が起こったと記されています。また、ヘロデ王は教会に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺しました。それがユダヤ人たちを喜ばせたというので、ヘロデはペテロを捕らえて牢獄にいれました。また、ユダヤ教から回心したパウロも、伝道旅行の途中、フィリピで投獄されました。テサロニケでも騒動が起こりました。エフェソでも騒動が起きました。さらにエルサレムに帰ったパウロは、神殿の境内で捕らえられ、鎖でつながれ、殴られ、殺されそうになりました。
このように、ペテロもパウロも、その他の弟子たちも、キリストのことについて、宣教すればするほど、迫害の波は大きくなり、捕らえられたり、殴られたり、牢獄に入れられたりということが続きました。
最初は、ユダヤ人たちから始まり、迫害の波は各地に広がり、ギリシャ人からも、ローマ人からも迫害を受けることになりました。
弟子たちの教えを聞いて、大勢の人たちが、洗礼を受け、教会に属する者になったのですが、一方では、このような迫害を恐れて、逃げだし、散っていった人たちもたくさんいました。
マタイによる福音書が書かれたのは、西暦80年頃だと言われていますから、イエスさまが死んで約50年後、その時代には、もっともっとキリスト教に対する迫害が強くなっていた時代ではないでしょうか。
今、読みました今日の福音書は、いつ、迫害が自分の身に降りかかるかわからない、捕らえられ、辱めを受け、牢獄に入れられるかわからないという中で、死への恐怖におびえ、直面しながら信仰生活を続けようとする人たちに、慰めと力づけを与え、ほんとうに恐れるべき方は、誰なのかを教え、神さま以外に恐れるものはないということを力強く説いています。
2 なぜ恐れる必要がないのか
今日の福音書、マタイによる福音書の10章26節から31節までの短い個所に、「恐れてはならない」、「恐れるな」という言葉が3回も語られています。
まず、第1に、「人々を恐れてはならない」とあります。ルカによる福音書には、次のように語られています。
「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(12:1、2)
また、同じルカ福音書の11章39節には、「主は言われた。『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。』」
ファリサイ派というのは、その当時のユダヤ教の指導者の一派ですが、
イエスさまは、彼らに向かって、はっきりと「偽善者」だと言い、厳しく攻撃されました。彼らは、自分たちこそユダヤ教の主流であると自負している人たちで、一方、イエスさまの言動や、群衆がこれを歓迎しているようすには耐えられず、イエスさまを殺し、教会を迫害する中心をなしている人たちでした。
器の外側は、きれいに飾り、きれいに磨いている。しかし、その内側、器の中は汚いもので満ちています。ファリサイ派の人々は、いかにも権威があるかのように語り、振る舞い、口では「神よ、神よ」と信仰深そうなことを言っています。立派な服装を身につけ、威張りちらしていました。しかし、その中身は、その内側は、強欲と悪意に満ちている。
「覆われているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(マタイ10:26、ルカ12:3) いくら権力を誇っても、権威を振り回しても、恐れることはない。その虚栄、見せかけ、偽善者の化けの皮は必ず剥げる。明らかにされる。隠されているものは人々の前に知らされると、言われます。だから恐れることはないと、イエスさまは言われました。
3 恐れるべきものを恐れよ
第2に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」とい言われます。彼らは、役人や兵士に命令して、人を捕らえ、殴ったり蹴ったり、牢獄に閉じこめて、暴力で人を意のままにしようとします。人を殺すことができる権力さえ持っています。しかし、たとえ、人を殺しても、体は殺しても、肉体には強制力を加えたとしても、「魂」を殺すことはできません。人の魂まで、「心の中」まで、これを自由にすることはできません。
そのようなものを恐れることはありません。それよりも、魂も体も滅ぼすことができる方、神を恐れなさい。ほんとうに恐れるべき方を恐れなさい。そうすれば、それ以外のものは、何も恐れることはないと明言されます。
そのほんとうに恐るべき方とは、すべてのものに、生命を与え、またその命を取り去ることができるかたです。神は、魂も体も支配される方なのです。生命を創造し、すべてのものを創造し、そして、すべてを存在させ、すべてを支配される方です。そして、また、すべてに終わりを与え、すべてを審く方であり、滅ぼすことができる方です。
太陽の光の前に、その他のあらゆる光は色あせ、光を失うように、ほんとうに恐るべき方を恐れていれば、どのような人の力も恐れることはありません。
1アサリオンとは、ローマの青銅貨で、一番小さな単位のお金です。1アサリオンは16分の1デナリオン。1デナリオンは1日の賃金だといわれます。2羽の雀が1アサリオンで売られています。2羽をセットにして売られているような雀でさえ、神様が命を与え、命を取られるのでなければ、飛ぶことも、落ちることもできません。ここでは、雀も髪の毛も、一般的に価値の低い、取るに足りないものの見本としてあげられています。私たちも自分の1本の髪の毛ですらも自分の思うままになりません。髪の毛の数さえ、神様によって数えられているのです。神様の支配の下にあるのです。
「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 あなた方は、雀以上の存在、雀何百羽分よりも優れた存在ではないか。生かされ、存在させられ、生きている者にも死んだ者にも支配者である神を知っている。この神に絶対の信頼をおくならば、その他の何者も恐れることはないと言われます。
押し寄せる迫害の恐怖におののく人々に「ほんとうに恐れるべきものを恐れよ、そうすれば、それ以外のものは何が来ようとも恐れることはない。」と言われます。
4 現在の恐れ・不安
現在は、初代教会の時代のような迫害はありません。ローマの皇帝、ネロの時代のような迫害もありません。キリシタン禁令下のような長崎や島原で起こった迫害、26聖人の殉教のような迫害もありません。世界中には、宗教が原因で起こっている戦争や殺戮は、まだまだあちこちにありますが、日本の国では、信教の自由は、まずまず守られています。
しかし、その一方で、
「キリスト教を滅ぼすには、剣や鉄砲はいらない。豊かさと自由を与えれば勝手に滅びる」というような言葉を聴いたことがあります。
2千年の教会の歴史をふり返ってみますと、キリスト教がもっとも勢いよく活動し、ほんとうの福音伝道がなされたのは、きびしい迫害が続いている時代でした。中世のヨーロッパでは、キリスト教世界になり、教会が大きな権力を持った時代には、キリスト教の教会は堕落し、迷信がはびこりました。
では、現在は、どうでしょうか。ほんとうに、「恐れ」はなくなったのでしょうか。恐れるものはなくなったのでしょうか。
科学は発達し、文明は進み、地震も、雷も、火事も、親父も、恐くなくなりました。
しかし、それでも、今もなお、私たちは、何かを恐れ、いつも不安を感じています。2千年昔、千年昔にはなかったような「恐れ」が「不安」が、新たに生まれ、私たちはおびえています。そのいちばんの原因は、ほんとうに恐るべきもの、恐るべき方を見失ってしまっているからではないでしょうか。
世界のすべての人々が感じている恐れと不安、私たちが住むこの社会が感じている恐れと不安、そして、今、自分自身が、自分の問題として、自分の前に立ちふさがる恐れと不安、それを、それぞれの立場で、じっくりと考えてみてください。
そのすべては、神を恐れず、神を神ともしないところから来る、恐れや不安ではないでしょうか。
「恐れるな、ほんとうに恐れるべき方、神を恐れなさい。」
〔2017年6月25日 聖霊降臨後第3主日(A-7)〕