わたしにふさわしくない。
2017年07月02日
マタイによる福音書10章34節〜42節
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担(にな)ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37、38)
今読みました福音書、マタイによる福音書の10章37節、38節には、イエスさまは、「わたしにふさわしくない」という言葉を、3回も使っておられます。
イエスさまよりも、父や母、息子や娘を愛する者は、イエスさまに、ふさわしくないと言われるのです。
ここで使われている「ふさわしい」とか「ふさわしくない」とは、どのような意味でしょうか。
新約聖書が書かれたギリシャ語の辞書を引いてみますと、「アクシオス」という言葉なのですが、「値打ちある、値する、ふさわしい、適った、当然」といった日本語に訳されています。その語源は、重さを計る「はかり」と関連していて、天秤計りで何かを計る時、一方の天秤皿に何かものを載せて、もう一方の天秤皿に重りや何かものを載せて計ります。このように引き上げるものを言い、「同じ重さ」、「同じ値打ち」から、「つり合っている」「ふさわしい」という意味になっているそうです。
皆さんもよくご存じの、ルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」の中で、お父さんの所を飛び出した弟が、放蕩に身を持ち崩してしまって、もう一度お父さんの所へ帰えろうとする時、その弟は、「父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」、「もう、あなたの息子と呼ばれるに値しない、値打ちはありません」と言っています。(ルカ15:18、19) ここでも、ギリシャ語の「アクシオー」という言葉が使われています。
さて、今日の福音書の本題に戻りますと、イエスさまは、当時の弟子たちに、そして、今これを読む私たちに向かって、「あなたがたは、父や母、息子や娘と、「わたし」すなわち、イエスさまとを天秤にかけて、どちらを取りますか。どちらを大切にしますかと、尋ねておられます。
そして、わたしよりも、父、母、息子や娘の方を大切にする人は、わたしの弟子ではない、わたしのほんとうの信者でもないと言って、私たちに迫っておられます。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。わたしは、人と人とを、敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(34節、35節、36節)
このように、イエスさまは、私たちが驚くような恐ろしいことを言って、迫って来られます。
キリスト教とは何か、キリスト教の教えの中心は何か、最も大切な教えは何かと考えてみますと、聖書全体が語っていることを一口で言いますと、「何がなんでも、イエスさまが中心」「キリスト中心主義」だと言っていいのではないでしょうか。
もし、町に出て、人々に、イエスさまという方は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。わたしは、人と人とを、敵対させるために来たのだ」と言っておられるというと、どんな反応が起こるでしょうか。
時代が変われば、考え方も変わるのは当然かも知れませんが、それでも、聖書の中で、イエスさまが語っておられる、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。‥‥‥ わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」という言葉は、どの時代でも通用しないのではないかと思います。
教会の中でも、世界の平和のために祈り、戦争の被害者のために祈り、災害の被害者のため等々、お祈りをしています。教会で、平和のための祈りをしていることと、イエスさまが、「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」という言葉は、矛盾するのではないでしょうか。
そこで、考えなければならないことがあります。
それは、イエスさまが考えておられる「平和」と、今日、私たちが、「戦争のない世界」とか、「争いのない社会」などを夢見て、「平和、平和」と言っている「平和」とは違うのではないかということです。
人類の歴史が始まって以来、国と国との戦争や、部族やさまざまな集団、個人と個人との争いは、絶えたことはありません。人間の歴史は、戦争の歴史だと言っても過言ではありません。それが分かっていながら、私たちは平和が実現しますようにと祈っているのですが、それは、実現しそうもない「偽りの平和」や、「見せかけの平和」を、求めているではないか、気休めのための祈り、平和を叫んでいるのではないかと思ってしまいます。
パウロは言います。
「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。」 (ロマ3:9〜12、詩篇14:1〜3)
ほんとうの「平和」が得られない理由は、神を神として、信じることができていないからです。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」
それは、一人一人が背負っている「罪」が原因です。戦争や、争いの原因は、神さまに対する私たちの罪にあります。
神さまは、私たち一人一人が、世界中の人たちが、ほんとうの「平和」を求め、本ものの平和を得ることを願っておられます。
そのために、神さまは、そのひとり子をこの世に遣わし、神のみ子の命と引き替えに、私たちの罪を除いて下さったのです。
今日の使徒書、ローマの信徒への手紙6章3節以下に、パウロは、このように述べています。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、また、その死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
イエスさまは、私たちのために、私たちの罪を負って、死んでくださいました。私たちの罪を滅ぼし、復活して、私たちを生きるものとして下さったのです。そのことによって、ほんとうの平和にいたる道を開いて下さいました。
平和をつくり出す人、ほんとうの平和を追い求めることは、主が与えてくださった「平和の福音」に従って生きることです。
イエスさまは、父や母、娘や息子、その他の兄弟姉妹を愛し、平和だ、平和だと思っていることは、単に見せかけの平和に過ぎない。神さまの御心にかなったほんとうの平和ではないと言われます。そのような平和は、すぐに壊れてしまいます。
今日の福音書の10章38節、39節を、もう一度読んで見ますと、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」 そして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と。
わたしに従うのですか、従わないのですか、考え方、生き方、日々の生活において、イエスさまに従うのか、従わないのか、どちらですかと迫っておられます。
ほんとうの平和とは、イエスさまは、ご自分の鼻の頭を指さして、「それは、わたしだ、わたしだ」と言っておられます。
私たちは、キリストのために人を愛します。
それは、神が私たちのためにキリストを与え、私たちを愛してくださったからです。
私たちは、キリストのために人に仕え、人に奉仕します。
それは、キリストが、まず、私たちのために仕えてく ださったからです。
私たちは、キリストのために生きます。
それは、神が、私たちの命を与えてくださったからです。
私たちは、キリストのために死にます。
それは、その前に、私たちのために、キリストが死んでくださったからです。
私たちは、キリストのために礼拝をささげます。
それは、私たちに神が特別の恵みを与え、私たちが神に感謝し、神を賛美する方法を
示してくださったからです。
〔2017年7月2日 聖霊降臨後第4主日(A-8) 東舞鶴聖パウロ教会〕