わたしのもとに来なさい。
2017年07月09日
マタイによる福音書11章25節〜30
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」
街を歩いていますと、いろいろな教派の教会で、玄関や門の前に、掲示板や看板に、この聖書の言葉、聖句が書いて張ってあるのを見かけます。いろいろな悩みや生活の苦しみを持って、教会の前を通りかかる人が、この言葉を見て、ふっと足を止め、教会の扉を叩こうとする人を招くために、掲示されているのだろうと思います。
皆さんも、どこかで、お読みになったことがある聖書の言葉だと思います。
マタイが伝えている福音書のこの個所は、イエスさまは、どのような場面で語られているのでしょうか。その前後を読んでみますと、イエスさまが、宣教を初められて間もない頃、12人の弟子たちを連れて、ガリラヤ地方の、ガリラヤ湖という湖の北の方にあるカファルナウムやコラジンやベトサイダという町々に宣教活動をしておられた時に、語られた言葉です。この地方で、イエスさまは、教えたり奇跡を行ったりなさったのですが、これらの町の人々は、あまり、イエスさまの教えに耳を傾けようとしませんでした。イエスさまを受け入れようとはしませんでした。マタイ11章20節以下には、このように記されています。
「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。‥‥カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。』」と言って、これらの悔い改めない町を叱っておられます。
今日の福音書の個所は、そのあとに続く個所で、イエスさまは、思い直すかのように、父である神さまに語りかけ、祈っておられます。イエスさまは、父である神さまとの対話の中で、神さまに受け入れられる人々の条件を、改めて確認しておられます。その条件とは、何でしょうか。
第1の条件は、「幼子のような者になる」ことです。反対に、自分には、知恵がある、賢いのだと思っている人々には、神さまは、最もだいじな真理を隠してしまわれるということです。「幼子のような者」とは、ただ、可愛らしい、可愛いというだけではありません。赤ん坊は、わがままで、身勝手で、自分の欲望を満たすために、所かまわず、泣き出したらとまらない。腹が立つこともありますけれども、本来的には、お父さんやお母さんに、しがみついていなければ、生きていけない存在です。お母さんの乳房にしがみついている赤ちゃんの姿を思い出して下さい。このお母さんは、良い人か、悪い人か、どんな性格を持ったお母さんか、などと考えながら、お乳を飲んでいる赤ちゃんはいません。
一方、わたしには、学歴がある、いろいろな経験もしている、何でも知っている、いろいろな宗教についても研究している、科学的な知識も持っている、私は賢いのだと思っている人には、神さまは、門を閉じてしまって、「あなたがたには、わたしが求める条件には適していません」と言われます。
第2の条件は、イエスさまは言われます。
「すべてのことは、父から、わたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。(27節)
それは、神さまとイエスさまの関係を、きちんと受け入れ、信じていることです。神さまとイエスさまの関係は、父と子の関係です。ほんとうに父を知っている、父のみ心を知っているのは子です。そして、ほんとうに子を知っているのは父です。それは、頭の中で分かっている関係ではなく、血のつながりというか、体の一部ともいうべき知り方です。愛する子に痛い所があれば、父もその痛みを感じる関係です。この関係を知ってこそ、イエスさまのなさること、教えられること、さらにこれからなさろうとすることが、正しく理解できるのです。この関係を正しく理解し、受け入れ、あなたは、信じられますかと問われるのが、第2の条件です。
そして、第3番目の条件は、第1、第2の条件を経た上で、さらに、自分で立ち上がり、自分の足で、イエスさまに近づこうとする行動を起こしなさいと言われます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは、柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(28節〜30節)
イエスさまが語られたその当時は、「疲れた者、重荷を負う者」とは、私たちが頭に浮かぶ、生活上の問題や人間関係の問題で苦しんでいる。職場の問題、家庭の事情などで苦しみ、へとへとになっている、そのような状態の人をだけを言っているのではありませんでした。それは、イエスさまの時代の宗教生活、ユダヤ教に問題がありました。当時のイスラエルの国では、律法を守ることが厳しく教えられ、旧約聖書にある掟だけでなく、それ以外に無数の言い習わしや律法の解釈、毎日の生活の習慣にいたるまで、これを守ることが厳格に義務づけられ、祭司たちや律法学者たち、ファリサイ派の人たちが、住民に向かって権力を振るっていました。それを守ることが、熱心に信仰生活を送ることだと教えられていました。一般のユダヤ人には、何よりも律法主義、厳格に掟を守らされることが「重荷」でした。日々、そのことのために、くたくたに疲れていました。そのような人々に向かって、イエスさまは、言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは、柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と。
「くびき」とは、牛や馬などが肩と首に掛けられて、鋤につないで土地を耕したり、馬車や牛車をかじ棒に繋ぐ、木製の棒状器具をいいます。
牛や馬のように、律法という重荷を肩に枷をつけて働かされている人たちに向かって、イエスさまは、わたしの所へ来て、律法主義の重荷を降ろしなさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげましょう。そうすればあなたがたは安らぎを得られることになるでしょうと言われます。
さらに、わたしがあなたがたを解放しますから、新たにわたしのくびきを負いなさい。わたしの、そのくびきは負いやすく、軽いのだからと言われました。
私たちは、今、現在という時代に住んでいます。私たちも、それぞれ、生きていく上で、人には言えない重い重い荷物を背中に背負って歩いています。ひょっとすると、教会ででも、奉仕や人間関係や、献金のことなどで、重荷になっていることがあるかも知れません。
イエスさまは、今、改めて、私たちの前に立ち、わたしの所へ来て、その荷物を降ろしなさい。そして、もっと軽い、もっと負いやすい、ほんとうに負うべきわたしの荷物を負いなさいと言われます。
イエスさまとは、こんな方だと、自分で勝手に想い描いているイエス像、キリスト教とは、教会とは、こんなものだと、自分で思い込んでいる、そのために重荷を背負い込み、反発したり、不信仰になったりしていないでしょうか。
日々、自分自身を振り返り、正しい信仰に立ち、イエスが招いて下さる方向に、自分で、一歩、前へ足を出して、イエスさまが受け入れてくださる条件に近づかなければなりません。
そのために、皆さんに、一つの提案をします。
これは、私が編み出した方法ではないのです。
井上洋治というカトリック教会の神父さんがおられました。この神父さんは、1927年(昭和2年)に生まれ、東京大学文学部哲学科を卒業し、1950年(昭和25年)にフランスに渡り、カルメル修道会という修道院に入会し、リヨン大学、リール大学で学び、1957年(昭和32年)に帰国されました。
1960年(昭和35年)に、カトリック教会の司祭になられ、いろいろな分野で活動をされました。たくさんの本も出しておられます。2014年3月に、87歳で亡くなられました。
この神父さんが、72歳の時、1999年(平成11年)の5月のある日、けやき並木を散歩中、「南無アッバ」という言葉が突然、口を突いて出たといわれます。2001年(平成13年)2月、NHKラジオの「宗教の時間」で「南無アッバの心で聖書の深みを味わう」と題して講演されました。それ以後、「南無アッバの心」という言葉が有名になりました。
さて、この「南無アッバ」とは、どういう意味でしょうか。「南無」とは、仏教の「南無阿弥陀仏」(浄土宗、浄土真宗)、「南無妙法蓮華経」(日蓮宗)、「南無大師遍照金剛」(真言宗)などと、唱える称名の最初の2文字です。
もとの「ナム」は、サンスクリット語の「ナモ」から来ていて敬意、尊敬、崇敬を表す意味から来ています。中国経由「ナーモー」から。日本に入ってきて、仏教の中で、南無という漢字で音写され、とくに浄土宗では、南無は「おまかせします」という、信仰対象への帰依、信仰告白の意味で用いられるようになりました。
一方、「アッバ」とは、イエスさまの時代に、ユダヤ人社会で広く使われていた日常語のアラム語で、赤ちゃんか幼児が使う「お父ちゃん」という意味です。新約聖書では、3ヶ所で出てくるのですが、マルコによる福音書14章36節では、イエスさまは、ゲッセマネの園で祈られた時、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と言われました。
また、パウロは、ローマの信徒への手紙8章に言っています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として、再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(ロマ8:15、ガラテヤ4:6)
イエスさまが、「お父ちゃん」と、幼児語で、祈られたのです。南無は、先に言いましたように、「帰依する」「おすがりする」(embrace)という意味ですから、「南無アバ」は、神さまに向かって、「お父ちゃん、おすがりします」と、幼児のように抱きついて、祈る心だというのです。
イエスさまは、「これらのことを智恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われたのですから、そのことを、具体的に、生活の中で生かすために、井上洋治神父が提唱されたこの言葉を使って、思いっきり「南無アッバ!」、「お父ちゃんである神さま、すべてを委ねます。全身全霊で、おすがりします」と叫んでみてはどうでしょうか。仏教徒が、お題目を唱えるように、朝晩、折りに付け、これを唱えてみて下さい。「南無アッバ!」
〔2017年7月9日 聖霊降臨後第5主日(A-9) 大津聖マリア教会〕