種まきのたとえ
2017年07月16日
マタイによる福音書13章1節〜9節、18節〜23節
「難しいことを易しく、易しいことを重く、重いことを面白く。」これは、2010年に亡くなった、作家であり、劇作家であり、放送作家でもあった井上ひさし氏の有名な座右の銘と言われています。
私は、昔、もっと若い頃でしたが、ある信徒の方から、「説教を聴いていると、牧師は、みんな、聖書の中で、イエスさまが易しく語られたことを、わざわざ難しくして話しよる」と、言われたことを覚えています。
今、読みました今日の福音書の個所を読むたびに、これらの言葉を思い出します。
イエスさまは、天国、神の国とは、御国の言葉を聴いて悟るということは、こういうことですよと言って、マタイによる福音書の13章3節から9節までのところで、一つのたとえ話をなさいました。それがこの「種まきのたとえ」です。
子どもにでもわかるようなやさしい「たとえ話」です。
さらに、イエスさまは、このたとえ話が、言おうとしている内容、その意味を、18節から23節までのところで、わざわざ解説して下さっています。
子どもにでもわかる、やさしい「種まきのたとえ」ですから、それを、またわざわざ難しく語ってはいけませんから、「今日の説教は、ここまで」と言って終わりたいところですが、(手抜きをしていると思われると困りますので)やっぱり、敢えて解説を加えたいと思います。
まず、この「たとえ」の背景についてですが、当時の農作業の状況をふまえて、考えてみたいと思います。日本の農作業では、お百姓さんは、田植えでも、麦を蒔く時でも、丁寧に水田を造り、畑の畝(うね)をつくって、一本ずつ苗を植え、一粒ずつ種を蒔いていきます。ところが、今でもそうだと思いますが、パレスチナ地方では、農夫が種を蒔く方法は、土を掘り、大きな石や雑草を取りのけると、そこに、一面に、ちょうど節分の豆を撒くように、パラパラと種を蒔いていきます。19世紀のフランスの画家、ジャン・フランソワ・ミレーの作品に「種まく人」という絵があります。これは、聖書の「種まきのたとえ」を題材として書かれたと言われています。岩波書店では、1933年(昭和8年)から、このミレーの「種まく人」の人物を参考にして、丸いマークにデザインされ、今日でも使われています。その農夫の姿を思い出しながら聞いて下さい。日曜学校の子どもたちに話すようなつもりで話してみます。
「お百姓さんが、畑にタネをまいていました。お百姓さんが、パラパラ、パラパラと種をまくと、ひとつのタネは、ピューーッと、飛んでいって、コロ、コロ、コロと、ころがっていって、道ばたに落ちました。すると、鳥が飛んで来て、ちょんちょんと突ついて、すぐに食べてしまいました。
また、お百姓さんが、パラパラ、パラパラと、種をまくと、もうひとつのタネは、ピューーッと、飛んでいって、コロ、コロ、コロと、ころがっていって、こんどは、石だらけで土の少ない、堅い堅い土の上に落ちました。すると、そこは土が浅いために、そのタネはすぐに芽を出しましたが、お日さんが昇ると、あつくなって、根がないために、枯れてしまいました。
また、お百姓さんが、パラパラ、パラパラと、種をまくと、もうひとつのタネは、また、ピューーッと、飛んでいって、コロ、コロ、コロと、ころがっていって、こんどは、その種は、茨の間、草の中に落ちてしまいました。すると、茨や雑草がどんどん伸びて、そのタネの上にかぶさって、それをふさいでしまいました。
また、お百姓さんが、パラパラ、パラパラ、パラパラと種を蒔くと、ほかのタネは、よく耕された、柔らかい、良い土地に落ちて、だんだんと根が伸び、どんどんと芽が出て、葉っぱも大きくなって、たくさんの実が成りました。一粒のタネから、あるタネからは、100倍に、あるタネからは、60倍、あるタネからは、30倍にもなりました。このようにして、お百姓さんは、たくさんの実が取れたので、大喜びをしました。」
このようなお話です。
飛んでいった種の行方によって、ここに4通りの例が挙げられています。最初の種から3番目までの種は、道ばたに落ちて、鳥に食べられてしまったり、石地に落ちた種は、芽を出しても太陽が昇ると焼けてしまったり、また、茨や雑草の中に飛び込んだ種は、周りに雑草に囲まれて芽が出ても育たず、実をつけずに終わってしまいました。
そして、第4番目の種は、根が出て、芽を出し、どんどんと成長して、見事に実をつけました。
同じように、種は、蒔かれているのですが、このたとえでは、実をみのらせられない土地と、その種が成長して立派に実をみのらせる土地と、大きく2つに分かれ、それが対比されています。
イエスさまは、このような「たとえ話」をなさって、さらに、マタイの13章18節から23節では、ご自分で、そのたとえの解釈を示して、その意味を語っておられます。
「種をまく人」とは、神さまのことです。「種」とは、神さまの「み言葉」です。それは、イエスさまの教えであり、イエスさまが伝えようとしておられる「天の国の秘密」を、「種」に、たとえておられます。そして、種が蒔かれた「土地」とは、当時のユダヤ人の社会であり、同時に、ユダヤ人の指導者たちの心であり、その時、イエスさまから話を聞いている群衆、大勢の人々の心です。
そして、今、この聖書の個所を読んでいる私たちの心、私たちの一人一人の「心」の状態が、種を蒔かれる土地にたとえられています。
種が蒔かれて、その種が育つ土地と、育たない土地があるように、み言葉を聞いても、そのみ言葉が、それぞれの心の中で、育って、成長して、実を結ばせる人と、実を結ばせられない心の人があることを、このたとえは教えています。
あなたの心という土地は、どのような状態の土地ですか。道ばたですか、石地ですか、茨や雑草が生い茂った土地ですかと、それとも良い土地ですかと、問うていられます。
農夫が収穫の喜びを胸の中に期待しながら、種をまくように、神さまは、神さまが期待しておられるような実を、私たちの心が、しっかりと受け取り、実を結ばせることができることを求めておられます。
それでは、種が実を結ぶことができない土地、成長することを妨げる土地とは、どのような心の状態なのでしょうか。 それには、外部から来る妨害の条件と、私たちの内部から来る妨害の条件があります。
外からくる妨害の条件とは、その時代や社会状況や環境から押し寄せてくる出来事であったり、考え方であったり、圧力であったりします。迫害するものであったり、さまざまな思想や外から働きかけてくる誘惑であったり、さまざまな快楽であったりします。
私たちの社会で考えると、物質的には、豊かになり、便利になり、地位や財産や権力が人間のすべてを支配するかのような考え方は、私たちの心にまかれる神さまのみ言葉である種の、成長を妨げてしまいます。
また一方では、み言葉という種の成長を妨げる要素が私たちの心の内にもあります。それは私たち一人一人の中から起こってくるいろいろな欲望であったり、誘惑であったりします。自己中心的な考え方、傲慢や不遜、不満が、私たちの心にまかれた種の成長を妨げてしまいます。
さらに大きな「妨げるもの」は、私たちの心に起こってくる「慣れ」です。「わかった、わかった、そんなことは、前から何回も聞いている」と思ってしまうことが、何よりも、み言葉の成長を妨害してしまいます。
それでは、蒔かれた種が実を結ぶような良い土地とは、私たちの心のどのような状態でしょうか。さらにどのようにすれば、良い土地にすることができるのでしょうか。
それは、その土地を耕すことです。私たちの「心の土地」に、深く深く鍬を入れ、下の方から掘り起こすことです。
干からびて、ひび割れて、石のように、かちかちになった土地に、どんなに良い種がまかれても、根は出ません。芽も生えてきません。深く、深く、土を掘り起こして、土をひっくり返し、土を砕いて柔らかくすることです。水分の潤いも必要です。心に鍬を入れるということ、それは、言いかえれば、神さまの前に、心から懺悔することであり、心から「悔い改める」ことです。
み言葉は、絶えず私たちに聞かされているのですが、同じようにまかれたみ言葉が、これを受ける心の状態によって、まったく成長しなかったり、実を結ばなかったりします。
そして、これを受ける心の状態によっては、そのみ言葉の種は、何十倍、何百倍もの実を、実らせます。
私たちは、神さまとの関係について、つねに自分自身を振り返り、改善を誓うことです。そこに、神さまは「恵みの雨」を注いでくださいます。よく耕され、水分と肥料が与えられた土地に落ちたみ言葉の種は成長し、30倍にも、60倍にも、100倍にも実を実らせて下さいます。
イエスさまが、「種まきのたとえ」を話された時、弟子たちは、イエスさまに尋ねました。「なぜ、あの人たちには、たとえを用いてお話しになるのですか」と。すると、イエスさまは、「あなたがたには、天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(大勢の群衆)には許されていないからである」と言われました。
さらに、「彼らに、たとえを用いて話すのは、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と言い、さらに、イザヤの預言から引用して、(イザヤ書6:9)
『あなたたちは、聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、 耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、
彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解
せず、悔い改めない。わたしは(神さまは) 彼らをいやさ ない。』
イエスさまは、子どもにでもわかる「たとえ」を用いて、神さまのみ言葉を「受け入れられる者」と「受け入れられない者」がいることを話されました。
今、私たちが礼拝をささげています。聖餐の恵みの与ろうとしています。
今、イエスさまは、私たちの前に立って言われます。
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「あなたがたの目は、今、イエスさまを見ているから幸いだ。あなたがたの耳は、今、イエスさまの言葉を聞いているから幸いだ。」と言われます。(マタイ13:16、17)
感謝と賛美の祭りをささげましょう。
〔2017年7月16日 聖霊降臨後第6主日(A-10) 聖光教会〕