毒 麦 の た と え
2017年07月23日
マタイによる福音書13章24節〜30節、36節〜43節
先週の主日には、マタイによる福音書13章1節から9節が読まれ、そこで、イエスさまは、集まってきた群衆に「種まきのたとえ」を話されしました。そのすぐ後で、弟子たちは、イエスさまに近寄って、「なぜ、あの人たちには、たとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねました。
すると、イエスさまは、「弟子であるあなたがたには、天国、神の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」とお答えになりました。 (マタイ13:10、11)
この時、イエスさまは、イエスさまの話を聞いている人たちを、2つのグループに分けて話しておられます。
一つは、弟子たちをはじめ、イエスさまに従って生きていこうとしている人たちです。
もう一つのグループは、当時のユダヤ人の一般の群衆です。その中には、面白半分の野次馬もいたり、イエスさまの話に反発したり、批判しながら聞いている人たちもいます。律法学者やファリサイ人たちがいます。
暗にその2つのグループを指して、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」と、イエスさまは、言われました。(マタイ13:12)
神の国の奥義というか真理は、イエスさまにとって、最も大切な、重要な教えです。神の国とは、別の言葉で言いかえると、神さまと私たち人間の関係、神さまに対する私たち人間のあり方を言っています。
イエスさまは、神の国について、いつも「たとえ」を用いて語られました。
「たとえ」で話すということは、どうしても伝えたい、最も大切な教えや真理を、誰でも知っている日常的な材料を用いて、やさしく話すことです。(私たちも自分の気持ちや意見を人に伝えたい時に、「たとえばやねえ、‥‥‥というようなものや」と言って説明します。)
しかし、その内容に、心を開いていない人にとっては、逆にいっそう分かりにくい「なぞ」になることもあります。たとえ話を聞いて、「なるほど、わかった」と言って、悟ることができる人と、悟ることができない人に分かれてしまいます。
マタイ福音書の記者は、「イエスは、これらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』」と、詩篇78篇2節を引用して、このように記しています。(マタイ13:34、35)
少し、前置きが長くなりましたが、今日の福音書のテーマ、「毒麦のたとえ」から学びたいと思います。
果たして、私たちは、イエスさまが語られる、このたとえから「神の国の奥義」を、しっかりと受け取ることができるでしょうか。
24節からですが、もう一度読んでみますと、
「天の国は、次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間、夜に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』すると主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
このような「たとえ」を話されました。
マタイによる福音書では、その後に、さらに「からし種」と「パン種」のたとえを話されたと記されています。
その後で、36節以下になるのですが、イエスさまは、この「毒麦のたとえ」を、自らこのように説明されました。
「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:36〜43)
良い種を蒔く者とは、人の子、神さまから遣わされたイエスさまご自身のことを指します。
畑とは、この世、この世界を意味します。
良い種とは、神さまのみ言葉であり、福音です。その種が成長し良い麦となった、良い麦とは、神さまのみ国の子らです。
敵とは、悪魔です。悪魔とは、神さまに背かせる、神に敵対する力です。
毒麦とは、悪い者の子たち、悪魔の子どもたちです。
そして、毒麦を蒔いた刈り入れの時とは、世の終わりの時です。
刈り入れる者とは、神さまの使いである天使たちのことであると言われます。
終わりの時には、審判が下される。毒麦は集められて燃え盛る炉の中に投げ込まれると言われます。神さまに背く者たちは、そこで泣きわめいて歯ぎしりすることになるだろう。そして、そのとき、正しい人々は、その父の国、神のみもとにあって、太陽のように輝くと、イエスさまは、このたとえの意味を説明されました。
この「たとえ」では、私たち人間の姿をふりかえってみますと、神さまは、始めから、良い麦の種と、毒麦の種を一緒に蒔かれたのではないのです。神さまは、良い麦の種だけを蒔かれたのです。ところが、夜、ひそかに悪魔がやって来て、麦とそっくりの毒麦、雑草の種を蒔いていったのです。
すべての人間は、本来、生まれてきたときは、「良いもの」として生まれてきたのです。ところが、神さまの意に反して良いものでない、悪いものが混ざってしまっているのです。
今、世界中で起こっているさまざまな事件や争い、残酷な出来事のニュースなどを見るたびに、神さまは、人間たちをどのようにお造りになったのかと考え込んでしまいます。
人類の歴史を遡ってみても、どの時代でも戦争が繰り返され、戦争がない時代はなかったと言って過言ではありません。他のどんな動物に比べても人間ほど残虐なものはないと言われます。世の中は、少しは便利になり、文明も進みました。しかし、人間の本性、人間の生まれつきの性質は、昔も今も、少しも変わっていません。
旧約聖書の創世記に記された創造物語では、人をこのように捕らえています。
「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された。」(創世記1:27)とあります。そして、一つ一つの創造の業が終わった時に「神はお造りになったすべてのものを御覧になって、すべて良しと言われた」(創世記1:31)と記されています。
聖書には、性善説とか、性悪説というような言葉は出てきませんが、この物語から推察しますと、この世のものすべてのものが「良いもの」として創造され、人間も「極めて良いもの」として創造され、生かされているのだいうことになります。そういう意味で、聖書は、「性善説」に立っていると言えます。
このように、神がせっかく人間を「良いもの」としてお造りになったのに、なぜ、こんなに醜いことが続き、悪がはびこるのでしょうか。悪人が栄え、ほんとうに良い人たちが、苦しい思いや、つらい目に会わなければならなくなったのでしょうか。
聖書の創造物語には、「自由」という言葉は出てきませんが、そのことの大切さが描かれています。
神さまは、アダムをエバを造り、エデンの園に置きました。その時に、「園のすべての木から取って食べてもよろしい。ただし園の中央に生えている善悪の知識の木からは、決して食べてはいけません」と教え、命じました。
しかし、結果的に、アダムもエバも神さまの言いつけに背いて、取って食べてはならない木の実を食べてしまいました。
良いものとして造られ、生まれさせられた人間は、悪魔の誘惑に負け、野心や欲望や快楽を求め続け、今日の人間の本性となったと、古代の人たちは、このような物語を通して、人間の本質を描きました。
神さまの言いつけに背き、神さまの教えを無視した、その結果、神と人との断絶、罪を犯してしまったという結末が、創造物語の中に語られています。
イエスさまの語られた「毒麦のたとえ」にもどりますと、私たちは、神さまによって、この世、この世界に蒔かれた良い種です。すべて良い種として、蒔かれ、生まれさせられ、生かされてきました。しかし、いつの間にか、悪魔によって蒔かれた毒麦が、まぎれこんでしまっています。いや、良い種で蒔かれ育った麦が、毒麦に変えられてしまっているのではないでしょうか。
「神さま、なぜ、こんなに、この世に悪い人たちがはびこっているのですか。一日もはやく、彼らを裁いてください。彼らをやっつけて、もっと住みやすい世界にしてください」と、私たちが訴えると、神さまは、「いや、毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、言われます。
種が芽を出し、成長し、穂が出るまで、その途中では、良い麦と毒麦の区別がつきません。その実を見て毒麦であることがわかります。
それでも、神さまは「毒麦を集めて焼き払ってしまえ」とは言われません。神は、忍耐強く待っておられます。じっと辛抱して待っておられます。それは、神さまが与えておられる「自由」、じぶんで選ぶことに、最後まで信頼しておられるからです。
それどころか、神は、そのひとり子を世に遣わし、その愛を表してくださいました。刈り入れの時を前にして、最後まで見捨てず、神との断絶を回復して下さるために、神の御子の命を、私たちに与え、十字架につけて、架け橋をつくってくださっています。
刈り入れの時、最後の裁きの時は、いつなのか、私たちにはわかりません。その時まで良い麦なのか、毒麦なのもかわかりません。
今、私たちはどちらなのでしょうか。良い麦でしょうか、毒麦でしょうか。
〔2017年7月23日 聖霊降臨後第7主日(A-11) 聖光教会〕