天 国 の た と え

2017年07月30日
マタイによる福音書13章31節〜33節,44節〜49節  今、読みました今日の福音書、マタイによる福音書13章31節以下の所から、イエスさまの教えに耳を傾けたいと思います。  イエスさまは、「天国」や「神の国」について教えるのに、多くの場合、「何々のようなものである」と言って、「たとえ」をもって話されました。マタイの福音書13章34節には、「たとえを用いないでは何も語られなかった」と、記されています。  今日の福音書ですが、ここに、5つの短いたとえ話が集められています。「からし種のたとえ」(31-32節)、「パン種のたとえ」(33節)、「宝が隠された畑のたとえ」(44節)、「良い真珠のたとえ」(45-46節)、そして、「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」(47-49節)です。  そして、このいずれも、冒頭に「天の国は」と記されています。これらのたとえのテーマは、「天国」とか「天の国」「神の国」、「神の義」、ほんとうの救いとは、言いかえれば「神さまと、人間との関係」は、このようなものだ、このようなものでありなさいと、言っておられるのです。  しかし、イエスさまは、「天国」について語られるとき、「天国とは何か」と言って、定義したり、抽象的な言葉で説明したり、哲学的な言葉を使って論理をまくしたてて、説得して「わかったか」というような話し方はなさっていませんでした。  「たとえ」で話すとは、伝えたい教えとか考えを、誰でもが体験している日常生活の出来事や、誰でも知っていることを材料をつかって、それに置き換えて、やさしく説明する方法です。  イエスさまの話を聴こうとして集まった群衆に、わかりやすく、小さな子供たちにも、わかるようなお話、「たとえ」として語っておられます。  イエスさまは、「天国とはこのようなものですよ」と、やさしく「たとえ」でお話しておられるのですが、しかし、イエスさまの時代と、時代も違い、社会的な背景や、文化も違いますので、少しだけ解説を加えたいと思います。  最初のたとえは、「天の国は、からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」というたとえです。(31節、32節)  天国とは、そのようなものですよと言っておられます。  からし種とは、クロガラシという植物で、その種から油が採れるために栽培されています。水が十分に与えられると茎の高さが4メートル、5メートルにもなり、4月から6月ごろには黄色い花をつけ、そのあとに、さやにつまった黒い種がとれます。ゴマ粒よりももっと小さい種です。明らかに野菜の一種なのですが、大きくなるので、木のようになるといわれています。  このたとえは、神さまと私たちとの関係は、その発端がどんなに小さな目立たないようなものであっても、結末、結果は、想像もつかないほど大きくなるということが語られています。さらに、神さまとの関係は、初めは小さなところから始まっても、最後には、大きな大きな結果が約束されているということです。  私たちのような、小さな者、神さまとの小さな出会いも、それほど劇的でもない、目立たない、ごく平凡な信仰生活も、その小さな者と、神さまとの出会いは、大きく成長する、だからと言って、現在の小ささに失望する必要はないと言われます。  それに比べて、神さまから受ける喜び、希望、愛、恵みの大きさを思うとき、想像も出来ないほどの成長と収穫を見ることができます。神さまとの関係、天国とは、そのようなものですよ、と言われます。  2つ目のたとえは、「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(33節)と言われました。  パンを作るときに、最初のごく少量のパン種(ふくらし粉、イースト)が、粉全体を、大きくふくらませると言われます。1サトンとは、12.8リットルと言いますから、38.3リットルのメリケン粉に入れて、一晩寝かせて発酵させると、粉全体を大きくふくらませ、たいへんな大きさになります。このたとえも「からし種のたとえ」と同じように、最初の状態は小さくても、その結果の大きさに驚く、私たちの信仰は、最初は小さくても、だんだん大きく育っていきます。神さまと、私たちの関係は、そのようなものですよと、教えておられます。  3つ目のたとえは、44節を御覧下さい。  「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。これ見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買だろう」と、言われました。  イエスさまの時代には、こういうことがよくあったようです。立派な建物や、信用して預けておける銀行がない時代ですから、人々はお金や宝石など財宝を手に入れると、壺に入れて、土を掘り、これを埋めてかくしていました。  それは、泥棒や強盗、他国の兵隊がやって来て、何もかも奪い取られてしまう、略奪から財産を守ることができる、最も安全な方法だったようです。ところが、その持ち主が死んでしまって、土の中に埋められた財宝はそのまま残りました。そして、土地も人の手に渡ってしまうというようなこともありました。たまたまその土地を耕していた農夫、雇われ農夫か、小作人が、この財宝を偶然に発見し、掘り出しました。その土地は自分のものではありません。その財宝を自分ものにするためには、まずその土地を自分のものにしなければなりません。そこで、その宝物をそこに隠しておいて、家に帰り、今まで持っていた物を全部売り払ってお金をつくり、地主にかけ合って土地を買いました。  天国とはそのようなものだと言われるのです。  この人が、宝物を発見した時の喜びはどんなものだったでしょうか。彼がこの宝物を手にいれたのは、長い間こつこつと汗水流して働いて得た財宝ではありません。まさかと思う、予想もしなかった宝物を見つけたのです。そして、この宝物は、この人の、人生を変えてしまうほどのものでした。今までの生きてきた成果ともいうべき自分の持ち物を全部売ってでも、手に入れなければならない価値のあるものでした。天国とは、そのようなものですよと、言われます。  4番目のたとえも、同じようなたとえです。  「商人が、良い真珠を探していて、高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買うだろう。」(46節)  このたとえも3番目のたとえと同じです。このたとえは、金持ちの商人が、高価な真珠を見つけると、それを手に入れるために、この人が蓄えた全財産を手放すという話です。これは、まずこの真珠の値打ち、価値に驚き、それがわかると、これを手に入れるために一切を捨てもいいと思う心が描かれています。発見の喜びと、これをすぐに手に入れたいと願う気持ちが、この「たとえ」に表されています。  最後に、「魚を獲る漁師が、網を湖に投げ降ろして、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、漁師たちは、これを岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」(47-49節)というたとえです。  網を下ろすと、さまざまな種類の魚が網にかかります。  しかし、レビ記11章10節には、「鰭(ひれ)や鱗(うろこ)のないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるものでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。その肉を食べてはならない」と、律法によって禁じられていて、その当時のユダヤ人はこれを守っていました。(たとえば、ナマズ、アンコウ、ウナギ、ドジョウなど。) この掟に従って、漁師たちは、網にかかった魚を選り分けます。  ここに、終末の審判と、悪いものが受ける結果が、強調されています。網の中の魚、すなわち、神さまの網にかかった魚でも、最後には、選り分けられて投げ捨てられることを暗示しています。  このようにして、マタイによる福音書13章には、「天国は、このようなものでる」と言って、イエスさまが語られた「たとえ」を5つ連ねて書かれています。  たぶん、マタイによる福音書の記者は、イエスさまが、あちこちで語られたお話の中から、「天国とは」という共通のテーマのたとえを、ここにまとめて、編集したのではないかと言われています。  最初に言いました言葉を、もう一度繰り返しますと、聖書の中に、「天国」という言葉はよく出てきますが、この「天国」という言葉は、「神の国」、「永遠の命」と同じ意味に用いられています。また、さらに「神の義」とか、「救い」という言葉も、突き詰めると同じ意味を持っています。  それは、私たちの、信仰生活を送る上で、「究極の目的」であり、天国、神の国、救いとは、私たちが、生涯をかけて、信仰生活の中で、求めなければならないものだということです。マタイ6章31節において、イエスさまは、  「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と、言われました。  イエスさまを信じると言いながら、私たちが、毎日、まず、求めているものは、朝から晩まで、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』というようなレベルのことばかりです。その思い悩みは、今日のことだけではなく、明日のことも、10年先のことまでも思い悩んでいます。  そのようなレベルのこと、目先の満足、欲望を満たすことだけを追い求めて、お祈りをしています。そうすることが、信仰生活だと思っていることはないでしょうか。  イエスさまは、そんなことは、思い悩むな、それよりも、もっとだいじなものを求めなさい、それは、何よりもまず、一番先に、神の国と神の義を求めなさいと、はっきりと言われるのです。  天国、神の国、神の義とは、それは、神さまと私たちの関係です。私たち人間関係でも。親子の関係、兄弟の関係、夫婦の関係、友人との関係、など、さまざまな関係の中で、生きています。しかし、その「関係」は、一概に、絵や文字で書き表せない、目に見えない関係です。それは、愛であったり、信頼であったり、従順であったりします。それは、私たちの胸の中から取りだして、見せたり、証明することが難しいものです。  私たちが、信仰を持って生きていく上で、究極の幸福、しあわせとは、何でしょうか。若者であろうと、老人であろうと、金持ちであろうと、貧乏人であろうと、健康な人も、重い病気の人であろうとも、神さまと、私たちの関係を、正しくすること、イエスさまとの関係を正しく持つということです。それが、天国、神の国、神の義、ほんとうの救いを求めるということです。  それゆえに、イエスさまは、神さまと私たちのあるべき関係について、「このようなものである」と言って、「たとえ」で語られました。その関係は、小さいものから大きく成長し、何を置いても、手に入れなければならないものであり、最後には、本物か偽物かを選り分けられるものであると、教えておられるのです。  私たちが、求めるべき「しあわせ」とは、みんな仲良く、みんな楽しく、いつもニコニコしているような表面的な、幸福ではありません。ほんとうの天国、神の国、神の義、永遠の生命を、一生をかけて追い求め続けなさいと、イエスさまは、言われます。 〔2017年7月30日  聖霊降臨後第8主日(A年-12)  京都聖マリア教会〕