「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」
2017年08月06日
ルカによる福音書9章28節〜36節
今日、8月6日は、教会の暦では、「主イエス変容の日」と言われる祝日にあたります。
同時に、今日、8月6日は、私たちにとって、忘れてはならない、「広島に原爆が投下された日」です。
1945年(昭和20年)、72年前の今日、午前8時15分、歴史上初の原子爆弾が、広島市に投下されました。多くの生命が奪われました。その年の末までには、約14万人が亡くなったと言われます。また、その3日後、8月9日には、午前11時2分、長崎市に、再び原爆が投下され、長崎市の人口約24万人の内、約7万4千人が亡くなりました。いずれも、72年経って、未だに正確な死者数はわかりません。
今日、これらの日に際して、改めて亡くなった人々のため、そして、今なお、苦しみの中にある人々のため、さらに、二度とこのような悲惨な戦争が起こらないように、お祈りしたいと思います。
さて、今日の聖書から、学びたいと思います。
私たちは、いつも、もっと、もっと、聖書を読まなければならない、もっと、聖書からいろいろなことを学びたいと思っています。しかし、何のために、何を得たいと願って、聖書を読まなければならないと思っているのでしょうか。
一つは、イエスさまの教えや、パウロの手紙には、よい事が書いてあるから、生きていく上で、精神的な支えが必要だからと、思っておられるかも知れません。人を愛しなさいとか、人を赦しなさいとか、教訓を得、お願いごとを聴いていただけるようにとか、元気が頂けるようにとか、いろいろな動機や目的があるのではないでしょうか。
ただ、何となく、クリスチャンだから、聖書を読まなければならないという義務感、脅迫感だけで、聖書を読まなければならないと思っている人もいるかも知れません。
しかし、それだけでは、足りない、もっと大切なことがあるように思います。
それは、いつも、新鮮な気持ちで、イエスさまに出会うこと、さらに、神さまと、イエスさまに対して、新しく発見を体験すること、その喜びを得ることにあるのではないでしょうか。そのような気持ちで、今日の福音書を読み、もう一度ゆっくり味わってみて頂きたいと思います。
今日の福音書、ルカの福音書の個所の直前には、このような出来事が記されています。
イエスが、一人で祈っておられたとき、弟子たちも共にいました。そこで、イエスさまは、弟子たちに、「群衆は(人々は)、わたしのことを何者だと言っているか」と、お尋ねになりました。すると、弟子たちは、口々に答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人もいます。『誰か、昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」と。すると、イエスさまは言われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。 ペトロが一同を代表して答えました。
「神からのメシアです」と。ペトロは、正しい答えをしました。これを聞いて、イエスさまは、このことを、まだ、だれにも話さないようにとお命じっになったうえで、このように言われました。(9:18〜21)
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日目に復活することになっている」と(ルカ9:22)言って、弟子たちに、これから起こるご自身の死と復活を予告されました。これは、第1回目の予告でした。
そして、この話をしてから8日ほどたったとき、イエスさまは、12人の弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて高い山に登られました。
その山の頂上で、イエスさまが祈っておられるうちに、弟子たちの前で、イエスさまのお姿が変わったというのです。
29節に、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記されています。
マタイの福音書によりますと、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(17:2)と、記されています。
イエスさまは、真っ白になり太陽のように光り輝かれたのです。そして、さらに弟子たちは不思議な光景を目にしました。「見ると、2人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリアである」(30節)と記されています。
そこに、旧約聖書に登場するモーセとエリヤが現れ、イエスさまと話し合っていたというのです。
モーセとは、イエスさまの時代からさかのぼって、1300年ぐらい昔の人です。エリヤは、860年ぐらい前の預言者です。
当時のユダヤ人たちは、神の律法は、モーセを通して与えられたということを誰でも知っています。また、エリヤは、預言者たちが活躍したイスラエル王国分裂時代の、北イスラエルの最初の預言者で、預言者の中の預言者と言われるこれも誰でも知っている預言者です。
当時は、写真も肖像画もない時代です。それなのに、弟子たちは、その人たちが、モーセだ、エリヤだ、ということがどうしてわかったのか不思議です。しかし弟子たちには、それが分かり、その光景から、イエスさまが、律法を代表するモーセと、預言者たちを代表するエリヤと、親しく語り合っておられるのだと理解しました。
モーセとエリアの2人は、栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合っていました。「ペトロと仲間(すなわちヨハネとヤコブ)は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスさまと、そばに立っている2人の人が見えました。」(32節)
やがて、そのモーセとエリアの2人が、イエスさまから離れようとしたとき、ペトロは、(あわてて)イエスさまに言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、(なんて)すばらしいことでしょう。(そこで、わたしは)仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と、口走りました。
この時、「ペトロは、自分で、自分が何を言っているのか、分からなかったのである」と(9:33)記されています。
イエスさまの時代には、ユダヤ人の間では、3つの大きな「お祭りの行事」がありました。「過越の祭り」の他に、「種入れぬパンの祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」という3つの祭りがありました。この3つ目の「仮庵の祭り」という祭りは、秋の収穫祭で、ぶどうや、オリーブの収穫が終わった後、畑に木の枝で編んだ小屋を造り、そこに7日間寝泊まりをするという祭りのしきたりがありました(レビ記23:39)。このようにして、神さまに収穫を感謝する祭りでした。
ペトロは、舞い上がってしまって、頭が真っ白になり、自分で自分が何を言っているのかわからなくなり、思わず口走りました。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしが、ここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と。神秘的な体験というか、不思議な神がかりとも言うべき出来事を目の当たりにして、ペテロは、自分が思いついたこと、秋の収穫の感謝祭に行う、神さまが宿るとされた小屋を建てましょうと咄嗟に提案し、口走ったのです。
そのうちに、光り輝く雲が、彼らを覆いました。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえました。
3人の弟子たちはこれを聞いて、思わず地面にひれ伏し、非常に恐れを感じました。彼らは頭も上げられず、ひれ伏していると、イエスさまが近づいて来て、彼らに手を置いて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ますと、もうそこには、イエスのほかにはだれもいませんでした。イエスさまは、山を下りてきたとき、マタイによる福音書によると「わたしが死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちにお命じになりました。(マタイ17:9)
ルカ福音書では、「その声がしたとき、そこには、イエスさまだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。」と記されています。
これが、山の上で、イエスのお姿が、真っ白に変わられたという非常に神秘的な出来事です。
この出来事は、ルカによる福音書だけでなく、マルコ(9:28-36)も、マタイ(17:1-8)も、3つの福音書が、この出来事を伝えていますから、初代教会では、イエスさまのことを伝えるだいじな出来事だったのに違いありません。
このイエスさまの変容貌の出来事を通して、私たちが、しっかり受けとらなければならないことは何でしょうか。
第一に、モーセとエリヤが現れてイエスさまと話し合っておられたということですが、これは、旧約聖書の時代に示された預言の事柄との関係が確認されているということです。イエスさまが、苦難を受け、十字架に付けられて死なれたことは、たまたま、偶然に、仕方なく、そのようになってしまったことではないということです。旧約聖書の律法と預言に、裏付けされたことであり、神さまの御心が行われたことであり、律法と預言が、この瞬間に成就された、成し遂げられたということです。
第二に、この山の上で、祈っておられる時に、お姿が変わられたという出来事は、イエスさまご自身が、神の子、「神」として、ご自分を確認しておられる瞬間です。神が、神のみ子が、人間の肉体を取り、この世に来られました。この時、この山の上で、神のみ子が、神の栄光を現わし、ご自身を確認しておられます。どこかから差して来た光に照らされて輝いたのではなく、み子ご自身が光り輝き、神の栄光を発せられた瞬間でした。太陽の光より白く、光り輝く神そのものに変貌された瞬間でした。
ヨハネ福音書1章にある「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)という言葉を思い出します。同時に、イエスさまご自身が、これから歩み出そうとされる道を、確認しておられたのではないでしょうか。
第三は、神さまが、イエスさまとの関係の中で交(か)わしておられる確認です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が、雲の中から聞こえました。(9:35)
イエスさまが、最初、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて祈っておられた時、天が開け、聖霊が鳩のようにイエスさまの上に降りました。そして、「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。(ルカ3:22) これは、イエスさまが、宣教活動を始める第一歩を踏み出そうとされる時、神さまから与えられた呼びかけの声であり、確認の声でした。神さまとイエスさまが交信し、「愛する子」「お父さん」と確認し合っておられます。
そして、今、いよいよ、苦難と死の道行きに一歩を踏み出そうとされる時、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と、同じ言葉が掛けられています。
イエスさまが、苦しみと、死に向かって歩まれることに、誰よりも痛みを感じておられるのは、父である神さまです。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:10)
神さまが私たちを愛して下さっているということは、神さまご自身が、誰よりも先に、誰よりも大きな痛みをもって、与えてくださっている愛であることを忘れてはなりません。
山の上で、イエスさまの姿が変わられたこの出来事は、神さまと、み子イエスさまとの間の愛、神さまとイエスさまとの密接な関係が表わされています。イエスさまは、つねに神さまと共におられます。父である神さまのみ心に従おうとしておられます。この変容貌の出来事は、その密接な関係を、私たちに、垣間見せて下さるる瞬間なのです。
わたしたちが、聖書を読むとき、その行間、その言葉の一つ一つに、にじみ出る、あふれ出る、神さまの愛に触れ、その恵みを受け取り、感謝と喜びに満ちるような、そのような読み方をしたいと思います。
〔2017年8月6日 主イエス変容の日 京都聖ステパノ教会〕