「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
2017年08月13日
マタイによる福音書14章22節〜33節
マタイによる福音書によりますと、イエスさまは、ガリラヤ湖のほとりで、5千人以上の人々に食べ物を与えるという奇跡を行われました。その後、弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に先に行くように命じて、発たせました。
そこに残ったイエスさまは、群衆を解散させ、ご自身は、お一人で山に登り、夕方まで祈っておられました。
ガリラヤ湖という湖は、琵琶湖の4分の1ぐらいの大きさの湖です。人々は、手で漕ぐ舟か、帆を張った小さな舟で、この湖を行き来していました。ガリラヤ地方から、対岸のゲネサレトまで行こうとすると、12、3キロあり、一晩はかかります。弟子たちが乗った舟は、湖の岸辺から何スタディオン(1スタディオンは、185メートル)か、こぎ出した所で、逆風が吹き、なかなか前に進むことができません。夜通し、風と波に翻弄され、弟子たちは、へとへとに疲れていました。
夜が明けるころになって、薄暗闇の中で、目を凝らすと、イエスさまが、湖の上を歩いて、弟子たちが乗っている舟に近づいて来られる光景を目にしました。
弟子たちは、イエスさまが、湖の上を歩いておられるのを見て、びっくりしました。「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげる者もいました。すると、イエスさまは、すぐに弟子たちに話しかけられました。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。
すると、ペトロが言いました。
「主よ、あなたでしたか。あなたでしたら、わたしに命令して、わたしにも、水の上を歩いて、そちらに行かせてください。」と、ペトロは、思わず口走りました。
イエスさまは、「来なさい」と言われました。
そこで、ペトロは、舟から降りて水の上を、イエスさまの方へ、2歩、3歩と、歩き出しました。
しかし、ふと、まわりに目を向けますと、強い風が吹き、大きな波が押し寄せてきます。これを見て、急に怖くなりました。それと同時に、ズブズブっと、沈みかけたので、思わず、「主よ、助けてください」と叫びました。
イエスさまは、すぐに手を伸ばし、ペトロを捕まえて、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。
そして、イエスさまとペトロが、舟に乗り込むと、風は、ぴたりと治まり、波も静かになりました。
舟に居て、これを見ていた他の弟子たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスさまを拝みました。
これが、イエスさまが、湖の上を歩かれたという奇跡物語です。
この奇跡物語は、現在の私たちに、何が語られているのでしょうか。私たちは、今、この奇跡物語を読み、どのように理解すればよいのでしょうか。
このイエスさまが湖の上を歩かれたという奇跡物語には、いろいろな解釈が行われています。その中で最も、合理化した解釈というのは、実は、イエスさまは、弟子たちを舟で先に出発させられたあと、ご自分は、岸伝いに対岸へ行かれ、夜明けとともに、先に向こう岸に着いて待っておられたのだというのです。湖の方では、舟に乗った弟子たちは、突然、嵐に見舞われ、弟子たちは、向かい風に立ち向かい、一晩中、交替で舟を漕ぎ続け、朝がたにはへとへとになって、眠くなり朦朧となっていたのではないかというのです。
朝、夜明けの薄暗いうちに、舟は、対岸へ流れ着き、薄明かりの中で、岸の方に目をやると、すでにイエスさまが岸に立っておられた、さらに、薄いもやの中を岸辺から舟に向かって歩いて来られた、それを見た弟子たちには、イエスさまが、水面を歩いておられるように見えたのではないかというのです。弟子たちは、「幽霊だ」と言って恐れ、ペトロは、「わたしにも水面を歩かせてください」と口走ったのだと、説明する解釈です。
理屈に合っているこのような解釈を「合理的解釈」と言い、それなら、あり得ることだと納得してしまうのですが、それでは、奇跡でも何でもなくなってしまいます。
私は、若い頃、この聖書の個所を読んで、疑問に感じたことを思い出しました。
不思議だと思ったのは、12人の弟子たちのうち、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、ガリラヤ湖で、魚を獲る漁師だったはずです。(マタイ4:18〜22)彼らは、ガリラヤ湖のほとりで、網を打っている時、または、網の手入れをしている時に、突然、イエスさまが来られて、彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と、声をかけ、招かれました。この4人の漁師は、何もかも全部そこに置いて、イエスさまに従った人たちです。
彼らは、かつては、同じこのガリラヤ湖で、魚を獲っていた、プロの漁師でした。湖を吹く風のことも、波のことも、突然の嵐が危険であることも、長年の経験と知識で、十分に知っていたはずです。それだのに、この4人の弟子たちは、他の弟子たちと一緒になって、恐れたり、悩まされたりしたのはなぜだろうと、疑問に思ったことを覚えています。
理屈をこねることは、少し横に置いて、それでは、この奇跡物語は、私たちに、何を伝えようとしているのでしょうか。
先ず、第一に、イエスさまと、私たち一人一人の信仰の問題が問われています。私たちは、与えられた自分の人生を一生懸命生きています。その中で、平和な時、平穏な時もありますが、そうでない時もあります。
長い人生の中では、突然いろいろな問題が起こり、思いもよらない事態にぶつかり、ちょうど、小さな舟が、強風や大きな波に巻き込まれ、今にも沈んでしまうのではないかと思うようなことがあります。身体や心の問題や経済的な問題、人間関係の問題等々、自分自身や家族の上に、それは、突然、何が起こるかわかりません。
思わず神さまに「助けてください」と叫ぶようなことがあるかも知れません。
ちょうど、「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」(26節)のと同じように、イエスさまへの信頼を失い、落ち込んだり、立ち上げれなくなることがあります。
「信仰」とは、ギリシャ語では、「ピスティス」と言います。これは、日本語の聖書では、「信仰、信頼、誠実、約束、確証」などと訳されています。これが動詞になると、「ピステウオー」といい、「信じる、〜と思う、任せる、委ねる」と訳されています。イエスさまへの信頼を失い、イエスさまにすべてを任せる、委ねることができなくなってしまうことがあります。ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言いました。それは、イエスさまへの信頼を確認するかのようなお願いでした。「あなたに、本当にその力があるのでしたら、私にも水の上を歩かせてください」と、イエスさまを試すような言葉を発しました。
イエスさまは、「来なさい」と言って、改めて招かれました。ペトロは、舟から降りて水の上を歩き、1歩、2歩と、踏み出しました。その時、ペトロの目が、イエスさまからはずれ、周りの風、大きな波を見てしまいました。
ペトロは、イエスさまから目をそらしたのです。
すると、突然、恐くなり、ズブズブっと、湖に、沈みそうなになりました。
ペトロは、「主よ、助けてください」と叫びました。
イエスさまは、すぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえ、「信仰の薄い者(信仰の小さい者)よ、なぜ疑ったのか」と言われました。「疑う」とは、ギリシャ語では「2つの方向に歩んで行く」、「人が2つの道を同時に行きたがる」という意味があります。「ふた心」、「心が定まらない」(ヤコブ1:8)、という意味です。イエスさまへの、絶対的な信頼から、目をそらして、心が離れようとする瞬間でした。
そして、ペトロは、イエスさまによって、手を取られ、イエスさまに助けられました。イエスさまとペトロが、舟に乗り込むと、風は静まりました。その時、舟の中にいた人たち、他の弟子たちは、「本当に、あなたは、神の子です」と言って、改めてイエスを拝み、信仰告白をしました。
この奇跡物語の中に、私たちが、毎日の信仰生活の中で出遭う問題の中で、イエスさまとの緊張関係をどのように持ち続けるかが問われ、具体的な、苦しみ、悩み、悲しみと出会った時の、ほんとうの信仰のあり方を指し示されているように思います。
さらに、この奇跡物語には、もう一つ大事な教えが示されています。それは、弟子たちが乗った「舟」は、「教会」を指しています。
マタイによる福音書が書かれたのは、西暦80頃だと言われています。西暦80年頃には、すでに、クリスチャン共同体(教会)が生まれていました。いわゆる教会に対する迫害が厳しくなっていった時代です。各地で、いわゆる迫害の事件が起こっていました。そのような社会的状況の中で、クリスチャンであり続けることは、命がけでした。
生まれたばかりのキリスト教の教会は、暗闇の中で、吹きすさぶ風と、高い波に翻弄される小さな舟そのものでした。
クリスチャンになったために、捕らえられ、牢獄に入れられ、殺される事件が、毎日のように続きました。
12弟子をはじめ、クリスチャンになった人々の小さな群れは、疲れ果て、力尽きて、イエスさまを見失い、教会の群れから去っていく人たちもいました。その当時の教会は、暗闇ので荒れ狂う嵐、風と波の翻弄されている小舟でした。
そのような時代の背景、状況の中にある教会に向かって、「イエスさまから目をそらすな」、「イエス・キリストへの信仰を堅く守れ」と、信仰を再確認し、励ます気持ちが、福音書を書いたマタイにあったのではないでしょうか。
それはまた、現在という時代にあって、暗闇の湖で、突風に煽られ、高い波に飲み込まれそうになっている私たちの教会の姿ではないでしょうか。
激しく動く物質文明の中で、神を、神としない風潮の社会にあって、逆風のために、波に悩まされている舟、すなわち教会は、漕ぎ疲れてへとへとに疲れている姿を見ます。
暗闇の中で、イエスさまの姿を見ても、イエスさまであることが分からなくなって、「幽霊だ」と言っておびえているような教会の姿がだぶって見える気がします。
ペトロが、イエスさまから目をそらし、強い風や高い波を見て恐くなり、沈みかけて、「主よ、助けてください」と叫んでいる、私たちの姿は、ここにないでしょうか。
「信仰薄い者よ、(信仰の小さい者よ)、なぜ疑ったのか」
私たちが、教会を、ただ楽しい所、面白い所にしようとしている、単なる楽しい「社交の場」にしている、現在の教会の傾向が、そこにだぶって見えるような気がします。
私たちが、イエスさまから目をそらし、周りの波や風ばかりに気をとられているとすれば、ズブズブと沈みそうになっているペトロの姿ではないでしょうか。
それが、現在の多くの教会の姿では、ないでしょうか。
イエスさまは、手を伸ばして、私たちを捕まえようとしてくださっています。今こそ、「本当に、あなたは神の子です」と、心から拝み、ほんとうの信仰告白をすることが、求められているのではないでしょうか。
今日のこの奇跡物語は、私たち一人ひとりに、また、現在の教会全体に、イエスさまへの、信頼の回復と、本当の信仰への確信が、指し示されています。
〔2017年8月13日 聖霊降臨後第10主日(A-14) 大津聖マリア教会〕