カナンの女の信仰
2017年08月20日
マタイによる福音書15章21節〜28節
私は、先日、8月3日、4日の両日、国立京都国際会館と比叡山延暦寺で開かれた「世界宗教者平和の祈りの集い」という集会に参加しました。「比叡山宗教サミット」と言われ、毎年開かれていて、今年は30周年記念の集いでした。
仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教ほか、いろいろな新宗教、宗教団体から代表が集まり、基調講演を聴き、シンポジウムがあり、交流会がありました。最後に、比叡山山上で、全員が世界の平和のために祈るというプログラムでした。
基調講演の一つは、元国連の事務総長の明石康氏による「分裂と憎悪はどうしたら乗り越えられるか」という題の講演があり、もう一つの講演は、世界宗教者平和会議国際事務総長、ウイリアム・ベンドレイ氏による「暴力的過激主義に宗教者はどう立ち向かうか」という題でした。
宗教と平和、宗教と暴力、貧困と教育の問題などが、話し合われましたが、私は、全期間参加したのですが、どの講演者もスピーチも、皆、いいことを言っているのですが、しかし、どの言葉も、どの意見も、そらぞらしく聞こえて、言葉だけが行き交っているような感じがして、仕方がありませんでした。
宗教とは何か。信心とか、信仰とは何か、考え込んでしまう2日間でした。
そのような思いを一方に持ちながら、今日の福音書から、イエスさまが発しておられるメッセージに耳を傾けたいと思います。
今日の聖書の個所、マタイによる福音書15章21節〜28節には、「カナンの女の信仰」という見出しがつけられています。
イエスさまは、ティルスとシドンという地方へ行かれました。このティルス、シドンという町は、パレスティナの北、地中海に面したフェニキアという地方にある町で、異邦人の町でした。
ユダヤ人の住む地域から見ると、そこは、異教徒の町、異国の町で、イエスさまは、そのような地域に、足を踏み入れられました。
そこで、イエスさまは、一人の女の人に出会いました。
この女性は「カナンの女」であったといわれています。カナン人というのは、イスラエルの先住の民族でした。
かつて、モーセに率いられて、イスラエルの民が、40年間、シナイの荒れ野を彷徨い、神さまに導かれて到着したのが、このカナンの地でした。そこに、イスラエル民族が侵略し、定住してしまった土地でした。カナン人は、先住の民族でありながら、追いやられた民族ということになります。
イエスさまの前に現れた、この女性は、カナン人の子孫で、ずっと北の方のフェニキアの国に生まれた人でした。
ユダヤ人からすると、明らかに異邦人です。
ユダヤ人は、自分たちは、ヤーウェの神を信じる民、アブラハムの子孫で、神によって救いと繁栄が約束された民族だと、自負し、誇っていました。自分たちユダヤ人は、救われて当然だと信じ、それに対して、その他の民族はみな、異邦人であり、異教徒であり、それだけで罪人であり、救われるはずがない、滅びて当然だとさえ考えていました。
とくに、イエスさまの時代のユダヤ人は、そのような選民意識かったようです。神さまは、確かにイスラエル民族を特別に選ばれたのですが、それは、神さまが、イスラエルの民を選び、イスラエルの民を通して、その他の民族、世界中のすべての人々に、神さまの御心を行き渡らせるためでした。特別の使命を与え、彼らを選んだのでした。
しかし、当のユダヤ人たちは、神さまから与えられた自分たちの使命を忘れ、神さまから選ばれた民であるという、選民意識だけが高く、異邦人を差別し、異邦人を蔑んでいました。
このように差別されている異邦人の一人である、カナンの女の人が、イエスさまの所に来て訴えました。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にとりつかれて、苦しめられています。助けてください。どうか、娘を助けてください」と、繰り返し叫びました。
これに対して、イエスはさまは、最初は、何もお答えになりませんでした。沈黙を守っておられたのです。
そこで、弟子たちがイエスさまに近寄って来て言いました。 「この女を追っ払ってください。いつまでも、どこまでも、叫びながらついて来ますから」と。
ユダヤ人である弟子たちは、この明らかに異邦人である女の人を、追い払うことしか考えていません。
すると、イエスさまは言われました。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、お答えになったのです。
当時のイスラエルの民と呼ばれるユダヤ人は、その心は、頑なで、神さまのみ心に従おうとしません。とくに、自分のことしか考えないユダヤ教の指導者たちの姿は、目に余るものがありました。そのためにイスラエルの民全体が、信仰を失い、神さまの導きを求めて、ただ頼りげなく、さまよっているだけのあり様でした。
イエスさまが、この世に来られたのは、まず、そのような「失われた羊たち」を養うことにあると言われました。
イエスさまが、父である神さまによって与えられた使命は、何よりも、このイスラエルの民を、救いに導くことにありました。まことの羊飼い、救い主、メシヤとして、この世に来られたのです。特別の使命を持って、この世に来られました。
しかし、このカナンの女の人は、そんなことには、お構いなく、しつこく、しつこく、イエスさまのところに来て、イエスさまの前にひれ伏し、「主よ、どうか、娘を助けください」と叫びつづけました。
イエスさまは、「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と、お答えになりました。
本来、子どもに食べさせるべきパンを、子どもに与えないで、これを取り上げて、犬に、子犬に与えるべきではないと、言われたのです。
それは、あくまでも、イスラエル民族を通して、世界に救いを与えようとする神さまのみ心、神さまの宣教のご計画に従うべきであると言われたのです。イエスさまは、神さまの御心に従おうとしておられます。異邦人の女には、神さまと人々との関係や歴史的な背景など知りません。またこのカナンの女には、イエスさまを受け入れる信仰的な心の準備もありません。 ただ、ただ、目の前で奇跡が起こることだけを願って、叫び続けました。
イエスさまが、「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われた言葉に対して、カナンの女は、言いました。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬でも、主人の食卓から落ちるパン屑はいただくことができます」と。
この婦人は、「うちの子どもは、子犬ではありません」とか、「カナンの子どもも、ユダヤの子どもも一緒です。」「うちの子どもにも病気を治してもらう権利があります」とは言いませんでした。イエスさまの言われた言葉を、そのまま受け入れ、その上で言いました。
「ごもっともです。しかし、小犬でも、主人の食卓から落ちるパン屑は、いただくことができます。」
この言葉に対して、イエスはお答えになりました。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そして、そのとき、その瞬間、このカナンの女の娘の病気はいやされました。イエスさまは、奇跡を行われました。
「あなたの信仰は立派だ」と褒められた本人に、奇跡が起こったのではなく、その母親の信仰によって、遠くにいる、この女の娘が癒されたのです。
イエスさまは、このカナンの女の何を、どこを、褒められたのでしょうか。どのような信仰が立派だと言って、褒められたのでしょうか。
それは、一口にいえば、この女性の「謙虚な信仰」「謙遜さ」にあります。
同じように神さまに頼っていても、まったく違う態度があります。私は、長年、神さまを信じてきました。掟を守り、捧げ物をし、いつも、神さま、神さまと言っています。だから、わたしも、娘も、救われるのは当たり前です。救われるべきですと、神さまに迫る、そのような信仰と、あなたの食卓で堂々と、食べ物を受け取り、食べることができるような者では決してありません、食卓から落ちるパン屑でも結構です。お恵みを与えて下さいという信仰とでは、大きな違いがあります。
選ばれた民であるから、先祖に約束されたからと言って、救われて当然ですと言って胸を張り、当然のように自分の正しさを主張するユダヤ人と比べると、傲慢な信仰と謙遜な信仰との違いがはっきりとわかります。
イエスさまは、神さまの前に、私たちが徹底的に謙遜であることを求められます。
さて、私たちの神さまへの姿勢はどうでしょうか。
イエスさまから、ほめられるような信仰を、私たちは、持っているでしょうか。
先ず、第1に、私たちもいろいろな生活の場で、「救い」を求めてはいるのですが、このカナンの女のように、真剣に、しつこく求めているでしょうか。お願いしても、すぐには、応えて頂けず、無視されたかのように沈黙で応えられても、それでも、叫び続け、ついて回れるでしょうか。
弟子たちに追い払われても、黙れと、言われても、ついて行く「しつこさ」はあるでしょうか。
また、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われ、あなたには、その立場にはないと、言われても、なお食い下がる、しつこさはあるでしょうか。
救って頂きたいのです。今、救ってください、今です、と、神さまに迫る、迫力はあるでしょうか。娘の病気が癒されることを願う母親の一途な気持ち、これしかない、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、そういう壁を、全部乗り越えて、ただ、助けてくださいと叫ぶ。この婦人と、私たちの救いを求める姿を比べてみたいと思います。
第2に、この女性の謙遜さに学びたいと思います。
現代の私たちのものの考え方は、何かというとすぐに権利の主張をします。私にはそれを受ける権利がある、なにかを要求する権利があると。大人も子どもも、みんな自分の権利を主張します。そして、権利と権利がぶつかり、争いが起こります。 権利を主張することのすべてが間違っているとは思いません。しかし、そのような考え方や、発想が、体中に染みついて、神さまとの関係にも、信仰の姿勢にまで、及んでいるとすれば、どうでしょうか。
神さまは、すべての人々を愛すると言われました。だから、私も、神から愛されるべきだ。神さまは、すべての人々を救うために、この世にひとり子を与えられた。だから、私も救われるべきだ。救われて当然だ、というような姿勢で、神さまに救いを求めると、どうなるのでしょうか。
神さまの愛も、神さまの救いも、それは、「恵み」として与えられるものです。
ほんとうの信仰に生きる条件は、神さまの前に、まず謙遜であること、徹底的なへりくだり、悔い改めることにあります。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬でも、主人の食卓から落ちるパン屑はいただくことができます。」
謙遜の反対の言葉は、傲慢です。そして、傲慢こそ、イエスさまが、いちばん嫌われる大きな罪です。クリスチャンであるがゆえに持つ傲慢があります。「わたしは洗礼を受けました。神の子とされたのです。神さまは天国を約束してくださっています。だから安心です。何をしても赦されるはずです」と、自分の姿を、省みることをせず、人を裁きます。
信仰生活が長くなればなるほど陥る傲慢があります。
青年は、青年の傲慢があります。男性の傲慢、女性の傲慢、そして、年を取ると、体中に、いっぱい、へばりつく老人の傲慢があります。
救いの恵みは、今の、この世においても、私たちにも、もたらされています。それを受けるためには、まず、神さまに対して、イエスさまに対して、謙遜でなければなりません。
神さまの前に、謙遜になって、はじめて、人に対しても、謙遜になることができます。
私たちは、世界の平和のためにいつも祈っています。
宗教と戦争、世界中にある貧困、子どもたちへの教育のあり方、等々。それは、どんなに会議を重ねても、それだけでは、解決しません。
そのためには、まず、私たちが、神さまに対して、謙遜、謙虚であること、そして、人と人との間ので、謙遜、謙虚でなければなりません。私たち一人一人の心の中の状態を振り返ることがなければ、ほんとうの平和は来ないのではないでしょうか。今、世界中で起こっているさまざまな問題も、何も解決しないのではないでしょうか。
〔2017年8月20日 聖霊降臨後第11主日(A-15) 聖光教会〕