「ペトロの信仰告白」

2017年08月27日
マタイによる福音書16章13節〜20節  イエスさまが、弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に行かれた時のことでした。イエスさまは、突然、弟子たちに、お尋ねになりました。 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。  この問いは、単に、人からの人気を気にしたり、世論調査をして、好感度を測ろうというようなものではありません。 「人々は、わたしのことを何者だと思っているのか」 「わたしのことを誰だと言っているのか」と、お尋ねになりました。  これに対して、弟子たちは、あちこちで耳にしていた噂、人々から聞いたきたことを、それぞれに4通り答えました。  「洗礼者ヨハネだと言う人がいます。」  「預言者エリヤだと言う人もいます。」ほかに、  「預言者のエレミヤだという人もいます。」また、  「預言者の一人だと言う人もいます。」   洗礼者(バプテスマの)ヨハネは、イエスさまが来られる直前に、人々の前に現れた人で、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、ヨルダン川で人々に、悔い改めの洗礼を授けていた人でした。(マタイ3:1-16)  預言者エリヤというのは、旧約聖書の列王記上(17章以下)に登場する預言者で、紀元前9世紀の北王国イスラエルで活躍した預言者でした。後の時代の人々からは、エリヤは、世の終わりの時には、メシアに先だって現れると言われていました。(マラキ3:23)  預言者エレミヤというのは、エレミヤ書にくわしく述べられていますが、紀元前6世紀の南ユダ王国が滅ぼされようとする頃に活躍した預言者でした。  そのほかにも、過去に活躍した預言者たちの姿を想い浮かべ、その中の一人だと、見ている人たちもいると弟子たちは口々の述べました。  弟子たちの周りにいる人たちの多くは、イエスさまのことを、普通の人ではない、ということはわかっていましたが、まだ、漠然と、何か神さまに近い、神さまから与えられた特別の力、能力を持った人、預言者の誰か、預言者の一人だというぐらいに、受け取っていました。  しかし、それは、イスラエルの歴史をふり返り、過去に、民族歴史の中に登場した人物、有名な宗教的指導者の生まれ変わり、再現だと考えていました。言いかえれば、自分たちの過去の経験と、知識をふり返って、その中の、誰かに当てはめて、それ以上の者ではない、そこから出ることのない姿を、イエスさまに当てはめて、受け取っているだけでした。  そこで、イエスさまは、今度は弟子たちの方に、向き直って尋ねました。 「それでは、あなたがたに尋ねるが、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか、何者だと思っているのか」と。  これまで、イエスさまは、弟子たちに多くのことを教え、弟子たちを訓練してこられました。難しいことは、たとえ話で語り、数々の奇跡を行って見せてこられました。このイエスさまの質問は、弟子たちが、そのことをどのように理解し、受けとめているかということを、訊いておられる根本的な問いかけです。  これに対して、ペトロが、弟子たち一同を代表して答えました。  「あなたはメシア、生ける神の子です。」  それは、まわりの人たちが、かつて現れた歴史上の人物の誰かに当てはめて出した答えではありません。  モーセでもない、ダビデでもない、どの預言者でもない、あなたこそ「救い主」です。あなたこそ「キリスト」です。 この世のすべてを支配し、すべてを導き、すべてを審き、「生きて働く神」の子です。「神の子」ですと、答えたのです。  その答えは、百点満点の、十分に的を射た答えでした。  イエスさまが期待しておられる「信仰を告白した」言葉でした。  「告白する」とは、「心の中に思っていることや、隠していることを打ち明けることです。「罪を告白する」「愛の告白」とか言います。とくにキリスト教では、「自分の信仰を公けに言いあらわすこと」を言います。ペトロは、短い言葉で、はっきりと、イエスさまに対する信仰の告白をしたのです。  これに対して、イエスさまはお答えになりました。  「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間(の智恵)ではなく、わたしの天の父なのだ」と。  そのことを知ることが出来るのは、単に人間の知恵や経験から出るものではない。自分で考えた理論や結論でもない。 それをさせるのは「わたしの天の父なのだ」。聖霊の働きがおまえを助け、それを導き出したのだ、聖霊がおまえを促(うなが)し、前に突き出す、神の意志が働いているのだと言われました。  そして、最高の褒め言葉と共に、「あなたはペトロ。わたしは、この岩の上に、わたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしは、あなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言われました。 実は、ペトロという名前はギリシャ語なのですが、これは、当時の日常語「ケパ」の訳なのです。そしてこのケパは、「岩」という意味です。ペトロ(すなわち岩、ケパ)が信仰告白をした、その岩の上にわたしの教会を建てると言われたのです。世界中のキリスト教の教会は、ペトロがした信仰告白白、すなわちしっかりとした土台、岩の上に建てられているのです。  さて、皆さんにお尋ねしたいと思います。  私たち自身のことですが、もし、今、私たちの前に、イエスさまがお立ちになって、イエスさまから、弟子たちに言われたのと同じように尋ねられたら、私たちは何と答えるでしょうか?  「それでは、あなたがたに尋ねるが、あなたがたは、あなたは、わたしを、何者だと言うのか。わたしを誰だと思っているのか?」と。  そこで、私たちは、にっこりほほえんで「あなたはメシア、生ける神の子です。」と、胸を張って、きっぱり答えるのではないでしょうか。  私たちは、今、福音書に書かれているところを読み、説教を聞いていますから、ちゃんと答えはわかっています。  それぐらいはわかってますと、胸を張って答えるのではないでしょうか。ペトロが答えた模範解答と、同じ答えをしたのですから、イエスさまから褒められるはずです。ところが、イエスさまは、そのような私たちに、何と言われるでしょうか。  ちょっとだけ、昔の私の体験話を聴いてください。  私は、大学生の頃、アルバイト学生でした。いろいろなアルバイトをしたのですが、家庭教師というアルバイトもしました。今のように、小学生や中学生の塾というようなものがあまりなかった時代です。  ある時、ある中学生の男の子の勉強を見てやってほしいと頼まれて、毎週、夜、その中学生の家に通いました。  お父さんは、大阪のど真ん中に、大きなビルを所有している人で、家族はそのビルの最上階に住み、その中学生は、一室、個室が与えられていました。親御さんは、高校へ行かせたいと願っているのですが、テストをしてみると、小学校低学年の算数が出来ません。まず、簡単な計算問題を沢山やろうということになって、昼間、その中学生と一緒に大阪駅の近くの大きな本屋へ行って、計算問題の問題集を1冊選んで買って来ました。  基本的な計算の方法を、噛んで含めるように教えて、来週来る時までに、この問題集のここからここまでやっておくようにと言って、宿題を出して帰りました。その時には、問題集の後ろについている解答集を切り取って持って帰りました。  次の週の夕方、その中学生の部屋へ行って、宿題を出しなさいというと、まったく出来ていませんでした。少し、きつく小言を言って、もう一度やり方を教えて、次までに、ここからここまでやっておくようにと言って、また宿題を出して帰りました。  次の週に行きますと、出しておいた宿題が全部、完璧に出来ていました。これはおかしい、ちょっと出来すぎだと思って、机の抽出を開けさせると、そこからもう一冊の同じ問題集が出てきました。後ろにちゃんと解答集がついています。答えを丸写ししていました。自分で本屋へ行って、同じ問題集を買って来て、答えを写していました。  それでは勉強にはならないと叱って、その問題集を取り上げて、持って帰りました。同じように宿題を出して帰りました。  次の週は、宿題は全部出来ていましたしたが、ところどころ間違えていました。その間違え方がどうも不自然なので、本棚の奥を探ると、また、もう1冊同じ問題集が出てきました。答えを丸写しすると、全部正解になり過ぎるので、自分で、適当に1とか2とか足したり引いたりして間違いを作っていました。  勉強というものはそれでは身につかないのだ、わからなかったら何度でも繰り返して聞きなさい、こつこつ自分で考えないとだめなんだと、どれほど言っても、その時は「はい、はい」と言って聞いてくれるのですが、毎週のように本屋へ行って解答書付の問題集を買って来ることを止めません。  私の手元には、取り上げた同じ問題集が6冊も貯まっていたことを覚えています。毎週、毎週、バスに乗って本屋へ問題集を買いに行っている姿を思い、その努力を考えると、涙が出そうになるのですが、要するに叱られたり、小言を言われたりする、嫌なことから逃れたい一心だったのだと思います。へんな体験談をしてしまいましたが‥‥‥。  さて、私たちも、イエスさまに、すがって救われようとしているのですが、果たして、私たち自身は、そのために、どのような努力をしているでしょうか。ほんとうに、真剣に、心が救われることを願い、心の底から突き上げてくるような「信仰告白」をしているでしょうか。イエスさまに対して、自分の言葉で、誰かにどんなに遮られようとも止められない信仰告白、愛の告白ができているでしょうか。  ペトロが出した模範的解答を、答えとしては合っていても、100点満点であっても、問題集の後ろの答え合わせ用の解答集の答えのように、ただ、ペトロの答えが、自分の答えだと思い込み、先に答えを見てしまって、出来たと思っているのと似ているようなことはないでしょうか。  さて、ペトロですが、ここでは、模範的なイエスさまへの信仰を告白したのですが、それで、すべてパスというわけにはいきませんでした。  そのあと、イエスさまは、弟子たちと共に、エルサレムにのぼりましたが、ゲッセマネの園で、夜中に捕らえられるという出来事が起こりました。裁判のために大祭司の屋敷やローマの総督の官邸を引き回されました。弟子たちはどうすることもできず、見え隠れしながら、捕らえられたイエスさまの後をついて歩きました。大祭司の屋敷の中庭で、ペトロは、その家の女中に見つかり、「あの男は、あのナザレのイエスという男と一緒にいた男だ」と言われ、恐くなって、「そんな人は知らない」と、イエスさまを否定しました。3度も否定しました。(マタイ26:69〜75)  かつて、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した信仰の告白は、一度、言いあらわしたから一生通用する、一生有効だとは言えません。洗礼を受けた時、堅信式を受けた時、信仰告白をしたから、一生有効だというものでもありません。  毎日、毎日、今、現在、私たちはイエスさまと、どのような関係にあるか、私にとって、どのような方か、心に思い、口で告白して、言いあらわしていなければなりません。  自分の言葉で言いあらわせる愛の告白、信仰の告白を、どのように言いあらわしているでしょうか。  イエスさまの質問に、わたしたちはどのように答えるか、まず、ペトロが出した模範解答に、私たちの解答が近づくことができますように。ペトロと同じ答えが、本当に自分の思い、自分の言葉として、イエスさまへの思いを、心の底から溢れてくるような言葉で述べることができますように、そのような信仰が持てますように、祈り願わなければなりません。  ペトロと、その他の弟子たちが、彼らの信仰告白が、ほんとうに自分たちの身につき、自分の言葉になったのは、実は、イエスさまが十字架にかけられ、この世を去られた後、主のよみがえりを体験した後のことでした。  それは、どのようにして得られるか、その解答は、弟子たちは、どのようにして本当の信仰告白ができるようになったか、その後のことについては、聖書の後ろの方に、ほんとうの解答集が載っていますから、どうぞ、ご自分でこっそりごらんください。  私たちは、今、このすぐ後に「ニケヤ信経」を唱えます。  この言葉は、世界中のキリスト教徒が、共同して唱える「信仰告白」の言葉です。2千年の教会の歴史が唱え続けている信仰告白です。この言葉を自分の言葉として、今、新たな気持ちで、心をこめて、ご一緒に唱えたいと思います。 〔2017年8月27日 聖霊降臨後第12主日(A-16) 聖光教会〕