わたしの名によって集まるところには
2017年09月10日
マタイによる福音書18章19節〜20節
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち2人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19〜20)
私は、高校を卒業して、就職し、2年間、印刷屋に丁稚奉公をしました。病気になって会社を辞め、少しだけ受験勉強をして、大学に入りました。その大学生にになった、その年の12月に、洗礼を受けました。
だんだんと教会生活にも慣れてきた頃だったと思うのですが、毎週、日曜日に教会へ通っていることに、疑問を持ち出しました。なぜ、毎週、日曜日に、教会へ行かねばならないんだろうかと。毎日、アルバイトで、へとへとになって、日曜日ぐらい、ゆっくり寝たいと思っているのに、なぜか、一方では、クリスチャンになったのだから、教会へ行かなければならないという脅迫観念のようなものがありました。
洗礼を受けた時、「神さまを信じます」「イエスさまを信じます」と言って、クリスチャンになったのだから、自分で、聖書を読んで、お祈りして、聖歌を歌っていれば、それで、いいのではないかと思いました。
とくに、冬の寒い朝などは、起きるのがつらい。
そこで、ある日曜日の朝、布団をかぶったまま、頭だけ出して、布団の中で、自分の好きな聖歌を歌い、ぱっと開いた聖書の個所を適当に読んで、自分勝手な、お願いごとばかりのお祈りをしてみたことがあります。
ところが、なぜか、心が晴れないのです。
私が住んでいた家の近くに、カトリック教会があったのですが、朝の礼拝が始まる時間になると、カラン、カランと鐘の音が聞こえて来ます。それを聞くと、なんとも、良心の呵責のようなものに、苛まれて、部屋の中をうろうろしていたことを、覚えています。
そのようなことを繰り返しながら、なんとか、教会から離れられず、気がついたら、牧師になっていました。
ここで、まことに、皆さんに失礼なお尋ねをしますが、「私たちは、なぜ、毎週、日曜日に教会に行かなければならないのでしょうか。」
そんなこと、わかっていると、手を上げて答えて頂きたいのですが、それはやめて、ご自分の胸の中だけで、答えてみて頂きたいと思います。
「礼拝に出席することは、クリスチャンの義務だから」、
「みんなで、聖歌を歌って、先生のお話を聞いて、聖餐を受 けて、心が洗われるから」、
「安息日を守れと言われているから」、
「教会の礼拝は、日曜日しかやっていないから」、
「教会のメンバーのお友だちが、いつも待っていてくれてい るから」、
「なんとなく。長年の習慣だから」、
「礼拝も大切だけど、その後の信徒の交わりが楽しいから」
等々。皆さんは、そうじゃないと思い、私は、こう思うと、言いたい方もおられるかも知れませんが、礼拝後にでも、またお聞かせ頂きたいと思います。
いろいろな説明ができると思うのですが、一つ知っておいて頂きたい、「なぜ、私たちは、日曜日に集まって礼拝をするのか」ということの理由がはっきり書かれたところがあるのです。
それは、祈祷書115ページにある、諸祈祷13の「主日を尊ぶため」というお祈りです。
「全能の神よ、あなたは一週の初めの日に、み子イエス・キリストを、よみがえらせられました。どうかわたしたちは皆この日に、使徒たちの模範にならって、主のよみがえりを記念し、ともにみ前に集まり、主を拝み、み言葉を聞き、主の贖いを感謝してその恵みにあずかり、日々忠実に主に仕えることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
というお祈りです。私たちは、何のために、教会へ行くのでしょうか。誰のために、礼拝にをするのでしょうか。
日曜日の礼拝を、私たちは「主日礼拝」と言うのはなぜでしょうか。今、祈祷書のお祈りにありましたように、日曜日は、「一週の初めの日」、「主のよみがえりの日」、「主の日」、なのです。
毎日曜日、毎主日が、イースターのお祝いの日なのです。
この日には、神さまを信じます、み子イエス・キリストを信じますと、信仰告白をした者は、2千年昔の弟子たち、使徒たちがしたように、その模範にならって、主のよみがえりを記念し、ともにみ前に集まり、主を拝み、み言葉を聞き、主の贖いを感謝してその恵みにあずかり、日々忠実に主に仕えることができますようにと祈るのです。
礼拝は、神さまのためにささげるのです。神さまに、賛美をささげ、神さまから受けている絶大な恵みに感謝するのです。
マタイによる福音書は、最後の節にこのような言葉で終わっています。(28:18〜20)
イエスさまがよみがえられた後、弟子たちにガリラヤへ行くように言われ、そこで、よみがえったイエスさまは言われました。マタイが伝える、イエスさまの最後の言葉です。
「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは、行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」
よみがえったイエスさまの最後の言葉は、全ての人々に宣教することを命じると共に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束でした。
そして、先ほど読みました福音書を、もう一度見て頂きたいと思います。マタイによる福音書18章19節、20節ですが、イエスさまは、弟子たちにこのように言われました。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち2人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。2人または3人がわたしの名(イエス・キリストの名)によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
「あなたがた、2人または3人が、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
イエスさまが、お生まれになる時、マリアの許嫁、ヨセフの夢の中に天使が現れ、生まれて来る子どもにイエスと名付けなさいと告げました。
さらに「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と告げられました。「この名、インマヌエルは、『神は、我々と共におられる』という意味である」と記されています。
マタイによる福音書の記者は、イエスさまの生涯、すなわち、イエスさまがこの世に現れた存在の意味は、一口で言うと「インマヌエル」「神は我々と共におられる」であると言われたのです。そして、福音書の最後では、「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる(共にいる)」と約束して下さった方だと、いうことを強調しています。
このように考えますと、私たちが、雨が降ろうと、風が吹こうと、雪が降って、どんなに寒い日でも、イエスさまの名によって、イエスさまのために、2人、3人、5人、10人、100人、千人、集まる所には、「かならず、私は、あなたがたと共にいる」と約束して下さっていることを実現するために集まるのです。それが、目に見える私たちの教会です。
主日礼拝、とくに、聖餐式の中では、だいじな所で、「主はみなさんと共に」「また、あなたと共に」という言葉を交わしていることはご存じだと思います。司祭と会衆の間で、なぜ、このようなあいさつのような言葉を交わしているのでしょうか。その内容、個所を見ますと、
第1に、み言葉(特祷、旧約聖書朗読、使徒書朗読、福音書朗読)の前の所で、司祭と信徒の皆さんで、「主がみなさんと共に」「また、あなたとともに」と呼び交わして、主が共におられることを確認しています。
第2に、交わり(平和のあいさつ、奉献)の前に、「主の平和がみなさんと共に」「またあなたと共に」という言葉を交わして、主の平和があなたと共にありますようにと、一人ひとり、顔を合わせて願います。
第3に、感謝、聖別の前です。そこで、もう一度確認します。キリストの体、キリストの血を頂く前に、パンがキリストの肉に、ぶどう酒がキリストの血に変わるという信仰の奥義が行われようとする、最も大切な瞬間に臨む時、「主が共にいて下さる」ことを確認し合います。
イエスさまは、私たちに与えて下さった約束を果たして下さるために、「わたしの名によって」、集まりなさいと命じておられるのです。このようにして、集められたものが、目に見える教会、私たちの信仰共同体です。
礼拝堂の中で、あなたが座るべき所に、あなたが座っていない、あなたが立っているべき所に、あなたが立っていないと、イエスさまは、悲しい思いで見ておられます。あなたの祈りの声が、あなたの神を賛美する大きな声が聞こえないと、イエスさまは淋しい思いで、ここに、居られるのではないでしょうか。
最後に、もう一度、言います。私たちが礼拝をささげるのは、私たち自分自身が、楽しくなるためではありません。まず、神さまが、イエスさまが、共にいて、喜んでいただくためです。まず、私たちが大きな恵みを得ていることに感謝し、神さまと向かい合いましょう。
〔2017年9月10日 聖霊降臨後第14主日(A-18) 大津聖マリア教会〕