7の70倍までも赦しなさい。
2017年09月17日
マタイによる福音書18章21節〜35節
日本の諺に、「仏の顔も3度」という言葉があります。
どんなに穏和でやさしい人、よく出来た人でも、腹が立つようなことを、3度もされれば、怒り出すという意味です。
ある時、ペトロが、イエスさまに尋ねました。
「主よ、兄弟(親しい友人)が、わたしに対して、罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と。
日本のことわざでは「3度」ですが、それよりも多い「7回まで赦せばいいですか」と言いました。
ユダヤの国では、昔から「7」という数字は、神の完全数と言われ、すべてが完成されるという意味を持っていました。(天地創造の日数(創世記2:2-4)、第7日目の安息日(出エジプト(20:10)、ヨハネ黙示録では、神の7つの霊(1:4)、7つに封印(5:1)、7つのラッパ(8:2)等々。)
ユダヤ人の間での言い習わしでは、「7度までは赦せ」と言われていたのかもしれません。
これに対して、イエスさまは、「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と、言われました。
これは、単に7の70倍で、490回 赦しなさいということではありません。これは、無限に、限りなく、完全に人を赦しなさいという意味になります。
イエスさまが、私たちに、「このように祈りなさい」と言われて、「主の祈り」を教えられました。私たちは、毎日この主の祈り唱えています。
その中で、「わたしたちに対して罪のある者を赦していますから、私たちの罪も赦してください」と祈ります。
私たちが、自分の犯した罪を、神から赦していただくためには、「わたしたちに対して、罪のある者を赦していますから」ということが、前提になっています。
このように、祈りなさいと言われたのです。
「人を赦す」ということは、難しいことです。
毎日の生活の中で、何か、人を傷つけるようなことを言ったり、したりして、「ごめん、ごめん」と言って、あやまって赦してもらえるようなことは、あまり、ここでは問題にはならないと思います。
「このことだけは、絶対に赦せない、誰が何と言っても赦せない。いくらあやまってもらっても、赦せない」というようなことがあります。
嘘をついたり、だまされたり、人に陥れられたり、まさに、信頼している人から裏切られるようなことが、その信頼関係が、長ければ長いほど、大きければ大きいほど、裏切られたという思いは重く、赦すことができません。
そのように、心の深い所に傷つけられ、絶対に赦せないと思うようなことを、イエスさまは、「赦しなさい」と言われるのです。しかも、それは、一人の人に対しだけではありません。1回だけでもありません。3回だけでもありません。7回だけでもありません。無限に、赦して、赦して、赦し続けなさいと言われるのです。
正直に言って、私たちは、イエスさまが、そう言われても、「そう、簡単には、人を赦すことなど出来ません。人を赦すことなどできません」としか、言いようがないことがあります。ほんとうにそれは、難しいことです。
イエスさまは、「わたしが、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12,13)と言われました。
「あなたの隣り人を愛しなさい」と言われるこの言葉、この命令は、イエスの教えられる教えの中心です。
そして、この「愛せよ」ということと、「赦しなさい」ということとは、同じ意味を持っています。
私たちが、「人を赦せない」と言ういうことは、「ほんとうに人を愛せない」ということは、全く同じなのではないでしょうか。どんなに、イエスさまに命じられても、教えられても、時と場合によっては、絶対に赦せないことがあると、居直る私たちに、イエスは、どのように語られるでしょうか。
さらに、一つの「たとえ」を語られました。
ある王さまが、家来たちに、貸していたお金の決済をしようとしました。決済し始めたところ、1万タラントンも、借金をしている一人の家来が、王さまの前に引っ張って来られました。
1タラントンという当時のお金は、ギリシャの通貨で、6千ドラクメ。この1ドラクメというのは、ローマの通貨1デナリオンと同じで、労働者の1日の賃金だったと言われます。
そうしますと、1万タラントンは、6千万デナリオン。
これを、一人の労働者の賃金で計算しますと、1日も休みなく働いて、164,384日間、働かなければ稼げない金額になります。それは、5,480ヶ月、約456年となり、一生働いても返せない金額です。
それは、返しなさいと言われて返せるような金額ではありません。この家来は、返済できませんと言ったので、王さまは、この家来に、自分も、妻も子も、また持ち物も、全部売り払って返済するようにと命じました。自分自身も、妻も子どもも、みんな奴隷になって、土地も家も、家財道具も全部売って、そうしてでも、これを返済せよと王さまは言ったのです。これを聞いて、家来は、王さまの前にひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」「お助けください」としきりに願いました。
これを見た王さまは、その家来を憐れに思って、その姿に同情して、彼を赦してやることにしました。その借金を帳消しにしてやりました。
ところが、この家来が、王さまの家から出て、ほっとして、自分も家族も、財産も失わなくてよかったと、喜んで、外に出て、道を歩いている時に、自分が、100デナリオンを貸しているいる友だちに出会いました。そこで、その友だちを捕まえて首を絞め、「さあ、借金を返せ」「さあ、借金を返せ」と迫りました。この友だちは、ひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼みました。
しかし、この家来であるこのの男は承知せず、その友だちを引っぱって行って、借金を返すまではと言って、牢に入れてしまいました。
このいきさつを見ていた仲間たちは、事の次第を見て、非常に心を痛め、王さまの前に出て、こんなことをしていますよと、事件の顛末を残らず報告しました。これを聴いた王さまは、その家来を、再び呼びつけて言いました。
「不届きな奴だ。自分の借金を赦してくれと、助けてくれと、泣いて、頼んだから、おまえの借金1万タラントン、6,000万デナリオン、16万4,384日、456年間、働いても返せないような借金を、全部帳消しにしてやったのではないか。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も、友だちを憐れんでやるべきではなかったのか」と言って、王さまは、怒って、借金をすっかり返済するまでは赦すことができないと、この家来を、牢役人に引き渡し、牢屋に入れてしまいました。
イエスさまは、このような「たとえ」をペテロに話して、
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父も、あなたがたに同じようになさるであろう」と言われました。
これは、わかりやすい「たとえ」です。
王さまとは、神さまのことです。この家来とは、赦そうと思っても、赦せと言われても、赦せないと言い張っている私たちのことです。
1万タラントン、6,000万デナリオン、16万4,384年も働いてやっと返せるような借金とは、私たちが、神さまの前に負っている「借金、負債」のことです。生まれてこの方、神さまの前に、背き続けている、私たちの罪です。
生まれてこの方、私たちは、神さまの命令に背き、神のみ心に背き、神の怒りに触れるような生き方をして来ています。その罪は、その負債は、もし、数字で表すことが出来るとすれば、積もり積もって、莫大な量になります。
私たちの、最後の時に、裁きの時が来ると言われています。清算を迫られる時が来ます。その罪の量は、積もり積もって、1万タラントン、6,000ドラクメ、6,000デナリオン、164,384年間働いても返せないような、それ以上に、大変な借金になっています。私たちには、とうてい返せません。
神さまの前で、泣いて、取りすがって、ひれ伏して、赦してください、助けてくださいとお願いします。私たちには、何か良いところがあって、何かと引き替えに、この借金を棒引きにしてもらえるようなものは、何もありません。
しかし、神さまが、私たちを、憐れに思って、神の憐れみのよって、その罪を、神さまの前に積み上げられた借金を、全部帳消しにしていただいているのです。
神さまは、そのひとり子を、この世に与え、私たちの罪の代償として、本来ならば、私たち自身、私が、あの十字架につけられて苦しみ、命をもって償うべきところを、神の御子、あの方が、私のために、私たちの身代わりになって、命を与え、私たちを助けてくださったのです。私たち一人一人の1万タラントン、6,000ドラクメ、6,000デナリオン、164,384日、労働しなければ返せないほどの、大きな罪を、棒引きにしてくださるために、神さまは、神さまの最も愛するご自身のひとり子を、その命を、身代わりとして与えて下さったのです。
私たちが、人を赦せない、絶対に赦せないと言っている姿は、一方で、1万タラントン、6,000デナリオン、164,384日間働いてやっと返せるような借金、その莫大な長年積み重なった罪を、赦していただいていながら、道端で、友だちに出会って、たった100デナリオン、100日、3ヶ月ちょっとの労働で働いて返せるぐらいの借金を思い出し、「さあ返せ、さあ返せ」と迫り、首を絞め、牢屋に入れてしまおうとしている、そのような姿だということになります。
人の罪を責めている時、絶対に赦せないと言い張っている時には、神さまとの関係、神さまの前に、自分自身の、とてつもなく大きな負債、罪を赦していただいていることを忘れてしまっている時ではないでしょうか。
それでも、あなたは「赦せない」と言いますかと、イエスは、私たちに、尋ねられます。
ほんとうに人を愛する、ほんとうに人を赦す、ほんとうに心から人を受け入れるということは、とっても難しいことです。キリスト教の教えは、ただ、愛しなさい、赦しなさい、と、言っているだけではありません。単に道徳主義、人類愛、教訓を暗記して実行せよと言われているのでもないのです。
まず、神さまは、私たちを愛して下さっています。
そして、一方的な恵みとして、神さまのひとり子の命を、与えるという、かけがえのない命を犠牲として、「恵み」として与えて下さっているのです。
神さまは、これほど、あなたがたを愛して下さっているのですから、だから、あなたも人を愛しなさいと言われるのです。神さまが、これほど私たちを赦して下さっているのだから、だから、あなたがたも、人を赦しなさいと、言われるのです。神さまが、私たちを、こんな私たちをも受け入れてくださっているのだから、どんな人も受け入れなさいと言われるのです。
わたしたちは、赦せないと思う人を赦す側にあります。そして、同時に、到底赦してもらえない大変な罪を、人から赦してもらう、赦される側でもあるのです。
もし、私たちが、神さまの前に呼び出されて、神さまの前で、清算しようと言われたら、人生の帳尻をどのように合わせますかた問われたら、どのような生き方をしたかを問われる時があったとすると、神さまの前で、その時、私たちは何と答えるでしょうか。
〔2017年9月17日 聖霊降臨後第15主日(A-19) 於 ・ 聖光教会〕