神のものは神に返しなさい。

2017年10月22日
マタイによる福音書22章15節〜22節 1 ユダヤ人たちのわな  イエスさまの時代には、ユダヤの国、イスラエルは、ローマ帝国に支配されている直轄支配地でした。ローマ皇帝から派遣されたコポニウスという総督が、西暦6年に着任して以来、ユダヤ人一人一人に一律に人頭税という税金が課せられ、それは直接ローマに納められていました。  一方、ユダヤ人には神殿税が課せられ、供え物や献金が求められていました。  そのために、人々の生活がずいぶん苦しめられていたのですが、それだけではなく、ユダヤ人にとって、許せないのは、モーセの十戒のいちばん最初の掟、「わたしは、あなたの神、主であって、あなたは、わたしのほかに何ものをも神としてはならない」と戒められる掟に反するからでした。  ローマ人は、ローマ皇帝を神として崇め、次々と征服した国の人々に、同じように忠誠を尽くすことを求めていました。さらに、異邦人、異教徒に、税金をおさめ、貢ぎ物をするということは、偶像崇拝を禁じるユダヤ教の教えからは辛抱できないことでした。  そのような時代的な背景の中で、ユダヤ教の指導者たちの一派である「ファリサイ派」の人々が動き出したのです。  ファリサイ派とは、律法学者を中心とした律法主義者の集団でした。昔から守っているユダヤ教の教え、文章に書かれた掟、それを解釈した言い伝えなどを律法とし、これを守ることに命をかけている信徒の集団でした。  一方、「ヘロデ党」という一派がありました。ローマ皇帝にへつらうユダヤの王ヘロデ王朝を支え、ローマ皇帝やローマ軍の支配下にあることをよしとし、服従する態度を取っていました。  律法を守ることに細かいことを言っているファリサイ派の人たちと、ローマ皇帝に追随しているヘロデ派の人たちが、それぞれの弟子たちを遣わして、イエスさまに尋ねさせました。考え方が違い、日頃、いがみ合っている派閥も、ある目的や自分たちの利益が共通になると、日頃のいがみ合いには目をつぶり、手を携えて協力するという日和見主義がその背景に漂っていました。  イエスさまに対して、ファリサイ派の指導者たちは、イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと日頃から相談していましたが、自分たちが直接尋ねるのではなく、その弟子たちを、ヘロデ派の人々と一緒にイエスさまのところに行かせて尋ねさせたのです。 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」  この言葉は、本心から出たものでないことがわかります。見え透いたお世辞を言い、イエスさまを何とかして陥れようとする策略があって、丁寧な言葉を使い、敬意に満ちたいかにも尊敬しているような姿勢見せて近づいて来ました。  そして尋ねました。「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と。  「皇帝に税金を納めてよいのでしょうか」という問いは、もし、「納めてもよい」と答えると、ファリサイ派の人々は黙っていられません。ローマ帝国では太陽神を崇拝し、皇帝を神として崇めています。明らかに偶像崇拝をすることになります。これに税を納める、貢ぎ物をすることは、明らかに律法に違反することであり、とんでもないことだということになります。  しかし、反対に、イエスさまが、「皇帝に税金を納めなくてもよいとか、納めてはならない」と言えば、ローマ皇帝にゴマをすっているユダヤの王を支えているヘロデ党は、黙っていません。イエスさまを、ローマ皇帝に反抗する者、ユダヤ人を扇動している者として、駐留しているローマの役人に訴えます。  どちらに答えても、必ず彼らの思う壺にはまってしまう、意地の悪い質問でした。 2 イエスの答え  イエスさまは、彼らの心の奥に潜んでいる魂胆を鋭く見抜かれました。イエスさまは彼らの悪意に気づいて言われました。  「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」と。  彼らは、持っていたデナリオン銀貨を差し出しました。デナリオン銀貨は、ユダヤでも流通しているローマの銀貨です。そこで、イエスさまは、その銀貨に刻まれている像を指して、「これは、だれの肖像とだれの銘か」と言われました。 彼らは、「皇帝のものです」と答えました。そこには月桂冠の冠をかぶったローマ皇帝の像が刻まれており、その周りには、「崇高んる皇帝ティベリウス、神聖なるアウグストゥスの子」という銘が刻まれています。これを指しながらイエスさまは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。 3 皇帝が造ったものと、神が造ったもの  「皇帝の肖像が刻印してあるものならば、皇帝が造ったもの、皇帝が命令して造らせたものだ。当然、それは皇帝のものではないか。それだったら皇帝に返しなさい。それと同じように、神さまが造ったもの、神さまが命令して創造されたものは、神さまのものではないか。それなら当然、神さまに返しなさい」という意味になります。  神さまは、天地を創造された方です。この地上のものは、すべて神によって造られ、神によって生まれさせ、存在させられているものです。すべてが神のものです。  その中には、ローマの皇帝も含まれています。皇帝といえども神さまによって、命が与えられ、生まれさせられたもの、また、その命が取り去られるべきものです。皇帝の肖像が入ったデナリオン銀貨も神による被造物の一つです。  イエスさまは、デナリオン銀貨を皇帝に「納めなさい」とは言いませんでした。皇帝のものは皇帝に「返しなさい」と言われました。  イエスさまを陥れようとして万全の策略を練って近づき、どちらとも答えられないような質問をしましたが、その策略は見破られ、思わぬ答えが返ってきました。 「彼らはこれを聞いて驚き、イエスさまをその場に残して立ち去った」と記されています。 4 真の創造者と被造物の関係    皇帝に税金を納めるべきか、神に献金を献げるべきかという問いは、単に政治と宗教は別だとか、政教分離などと言っているのではありません。  それは、神さまとローマの皇帝とを同じ次元に置いて、同じレベルで比較し、どちらが大事なのかと言っていることに問題があると指摘しておられるのです。  日本の国の歴史をふり返ってみますと、明治、大正、昭和と日本中に富国強兵、挙国一致が叫ばれ、戦時色が日増しに強くなり、すべてがお国のためとか天皇陛下のためと言った時代がありました。それ以外の価値観はすべて否定され、お国のため、天皇のために命を捨てる、個人の財産が奪われるというようなことも当然とされていました。  治安維持法とか国家総動員法とか、宗教団体法とかいう法律が次々と発布され、言論思想の自由は奪われ、多くの宗教団体が迫害をうけました。キリスト教もその例外ではなく、とくに西洋の宗教、敵国の宗教ということで、宣教師や牧師が憲兵や特高に尾行され、捕らえられ、監獄に入れられ、拷問を受けたり、獄死した人たちもいました。  そこで問われたことは、「お前たちが信じている神と天皇陛下とどちらが偉いのか」とか、「天皇とキリストとどちらを信じるのか」と問いつめられたと言われます。天皇は現人神と言われ、天皇よりも神を信じるとか、キリストを信じると言うと、非国民とか不敬罪とか言われて投獄されました。  その問いは、次元が違うとか、キリストと天皇を一緒にしないでくれと言っても、ほんとうの神を知らない、キリストを知らない、信じていない人にとっては、まったく通用しない言葉でした。  70数年前までは、ほんとうにそういうことがあったのです。  さて、私たちはどうでしょうか。私たちは神さまを信じています。キリスト・イエスを信じています。一生懸命信じようとしています。  しかし、毎日の生活の中で、神さまを、キリストを、私たちの次元に引きずり下ろしてしまって、自分と同じレベルで見てしまっているようなことはないでしょうか。  私たちにとって、神さまを信じるということは、命にかかわることです。私たちから信仰を奪われると生きていけない、信仰を捨てるよりも死を選びますと叫びながら殉教した人たちがたくさんいます。  ところが、今、私たちにとって、神さまを信じて生きるということが、どれほどの重さ、命にかかわることになっているでしょうか。  ただ、単に、身につけるアクセサリーのようになっていないでしょうか。十字架のついてネックレスや、十字架の模様が入った指輪や、ネクタイぐらいの程度で、簡単に取り外しができる、それがなくても痛くも痒くもない、それぐらいの程度で、信仰というものが終わっているようなことはないでしょうか。  神さまを崇め、神さまを賛美し、神さまに感謝することの大切さが、私たちの生活の目先の煩雑さ、忙しさが優先されてしまったり、そのために、忘れてしまったり、拒否してしまっていることはないでしょうか。神さまの思いと、自分の欲望や野心とを同じ天秤にかけて、上げたり下げたりしてしまっているようなことはないでしょうか。  すべてのものは神からいただいたもの、そしてすべてのものは神に帰する。私たち自分自身も、神さまから出て、神さまに返されるべきものなのです。  「神のものは神に返しなさい」といわれるこの言葉の意味を、もう一度、じっくりと受取り、考えてみたいと思います。     〔2017年10月22日  聖霊降臨後第20主日(A-24)  聖光教会〕