最 も 重 要 な 掟
2017年10月29日
マタイによる福音書22章34節〜40節
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエス を試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:34〜40)
今、読みました福音書から学びたいと思います。
この聖書の個所は、マルコ福音書(12:28-34)にも、ルカ福音書(10:25-28)にも、同じ記事が記されています。マタイとマルコの福音書には、「最も重要な掟」という見出しがついていますが、ルカによる福音書では、「最も重要な掟」の説明として、「善きサマリア人」のたとえが語られています。
イエスさまは、弟子たちと共に、エルサレムの街に入り、神殿の境内で、人々に教えておられました。いつも大勢の人々が話を聞くために集まっていました。
これに対して、何とかして、イエスさまをやり込めたいと考えるユダヤ教の指導者たちがいました。ファリサイ派、サドカイ派、律法学者たちは、示し合わせて、次々と、イエスさまに議論を吹きかけにやって来ました。
その内の一場面ですが、一人の律法の専門家が、イエスさまを、試そうとして、質問しました。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねました。これに対して、イエスさまは、
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と、お答えになりました。
当時のラビ、律法の専門家によれば、守らなければならない律法。「何々してはならない」とか、「何々しなければならない」と規定されている掟の数は、613あるとされていました。その中のどの律法が一番大切か、一番重要であるかということは、昔から議論がつきない問題でした。
そのように、覚えられないほど沢山ある律法の中で、どの掟が最も重要かという問題を、イエスさまを、試そうとして、大勢の前で、イエスさまに質問して来たのです。
すると、イエスさまは、言われました。
「全身全霊をかけて、あなたの神を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟です。第二も、これと同じように重要です。隣人を、自分のように愛しなさい。すべての律法と、すべての預言者(の言葉)は、この2つの掟に基づいている」と。
第一の掟というのは、旧約聖書の申命記6章4節〜5節に記されている掟です。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は、唯一の主である。あなたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
これは、モーセが、神から啓示を受けて、解き明かした言葉です。
申命記では、そのあとに、さらに「今日、わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも、道を歩くときも、寝ているときも、起きているときも、これを語り聞かせなさい。」と記されています。 当時のユダヤ人には、子供の時から教えられ、誰でも知っている、最も大切な掟の一つでした。
そして、第二の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」は、これも、旧約聖書のレビ記の19章18節にある掟です。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。わたしは主である」という所から引用されています。
これも、神さまがモーセを通して告げられた掟です。これは、単に、自分を愛する自己愛も大切だが、隣人愛も大切だと言っているのではありません。
自分を愛するその愛と同じ愛を、隣人に向けよ、隣人愛とともに、自分が、犠牲になる、自己犠牲が求められている言葉です。
このように、申命記とレビ記に記されたこの2つの掟は、両方とも、当時のユダヤ人なら、誰にもよく知られている掟でした。
イエスさまは、わざわざこの2つの掟を並べて、「律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている」と言われました。マルコ福音書では、「この2つにまさる掟は、ほかにない」と、イエスさまは言われたとなっています。
この2つの掟は、分けられるものではない、第一の神への愛と、第二の隣人への愛とは、どちらが上、どちらが下と、位置づけられるものでもない。第一の神への愛も、第二の隣人への愛も、「愛しなさい」と命じられている、求められている重さは、どちらが重い、どちらが軽いというものでもない。その2つは、同じ重みを持つものだと、イエスさまは言われます。ここに、イエスさまの教えの独特の意味があります。
これこそが、モーセも、どの時代の預言者も、その他の世界中の哲学者、思想家も、いまだかつて、語ったことがないイエスさまの独特の教え、掟だということができます。
この2つの掟の結合が、613あると言われる他の掟のどの掟にもまさる「この2つにまさる掟は、ほかにない」と、はっきり宣言されました。
当時の、ユダヤ教の律法学者や律法主義者に対するイエスさまの革命的なとも言える宣言でありました。
イエスさまは、613もあると言われる沢山の律法の中から、なぜ、申命記とレビ記に記されたこの2つの掟を最も重要な掟、律法の中の律法と言われたのでしょうか。
それは、その当時のユダヤ教に対する警告、ユダヤ教の指導者に対する厳しい非難がありました。
ここで、同じ「最も重要な掟」が書かれたマルコによる福音書の方を見てみたいと思います。
マルコによる福音書12章29節以下によりますと、イエスさまは、質問してきた律法学者に、「第一の掟は、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。」と言われた後で、質問した律法学者は言いました。
「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは、律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった」と、あります。
イエスさまが答えられた、この答えに対して、質問した律法学者は、「神を愛し、また隣人を自分のように愛する、ということは、どんな焼き尽くす献げ物や、いけにえよりも優れています。」と反応して答えたのです。
イエスさまの時代のユダヤ教は、信仰を持って生きるということは、いかに忠実に、供え物、犠牲をささげるか、またそのための儀式を行うか、ということにかかっていました。 定められた日には、または罪を犯した時には、定められた動物の犠牲をささげる、その度に神殿に来なければなりませんでした。旧約聖書のレビ記を見て下さい。律法を守ることは、そのような儀式を、家族ぐるみで、繰り返さなければなりませんでした。それが信仰生活だと教え込まれていたのです。そのために、無数の掟、律法が押しつけられ、それを守れば、神さまから救われるのだと、教えられていたのです。
イエスさまは、いちばん大事な、いちばん重要な掟は、神さまを愛し、隣り人を愛することだと言われた時、この律法学者は、イエスさまが言われていることに気がつきました。
「神さまを愛し、また隣り人を、自分のように愛するということは、どんな「焼き尽くす献げ物」や「いけにえ」よりも優れています」と応答しました。
イエスさまは、律法学者が、ピントの合った、正しい答えをしたのを聞いて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。
このマルコ福音書を見ますと、イエスさまが、613あると言われる律法の中から、最も重要な掟として、神を愛せよ、隣人を愛せよと言われた理由がよくわかります。
その当時の、形骸化したユダヤ教、目に見える祭りや行事ばかりに心を向け、儀式の形式や手続きばかりを問題にしている当時の指導者、祭司長、祭司たち、ただ律法を振りかざす律法学者たちに対する厳しい非難、批判から発せられた言葉だということがわかります。
さて、私たちは、今日、「第一に、全身全霊をもって、神を愛せよ、同じように隣人を愛せよ」という言葉を聞いて、どのように受け取るでしょうか。
昔から知っている、キリスト教の標語ぐらいに思っていることはないでしょうか。私たちの信仰生活、礼拝生活も、長く続けていると、マンネリ化し、形式化し、形骸化していることはないでしょうか。
神を愛するということは、神さまの言葉に従い、そのご意思に従おうとすることです。神さまの恵みをしっかりと受け取り、すべてのことに感謝することです。そして、神さまに絶対の信頼を寄せ、すべてをゆだねることです。
それは、私の、自分の心の状態であって、ただ、見える形の礼拝や、教会の行事や活動に身を置いていればよいというものではありません。
私たちが、隣り人を愛するということは、これも、私たちの心の状態です。イエスさまによって、意味づけられた「愛」とは、自分自身の犠牲を伴う愛です。
最後に、ヨハネ第一の手紙4章7節以下の言葉を読みたいと思います。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は、神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように、わたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」
イエスさまご自身が、父である神を愛し、そして、私たちを愛するために、私たちのために死んでくださったのです。最も重要な掟を、口で、言葉で伝えるだけではなく、ご自分が死んで、神の愛を、私たちに見せてくださいました。
〔2017年10月29日 聖霊降臨後第21主日(A-25) 於・大津聖マリア教会〕