仕える者になりなさい。

2017年11月05日
マタイによる福音書23章1節〜12節     1.ファリサイ派の偽善を非難するイエス  福音書の中に、イエスさまの時代のユダヤ教の一派で、ファリサイ派、律法学者と言われる人たちが、たびたび、登場します。彼らは、モーセの律法をはじめ、たくさんの掟や言い伝えを学んでいて、自分たちは、律法を守っているから正しいのだと主張し、一方では、律法、掟を守れない人を非難し、罪人であると決めつけ、差別しました。  イエスさまは、このような律法学者、ファリサイ派の人々の態度や考え方を批判し、彼らと、たびたび議論し、ある時には厳しく非難しました。  イエスさまは、その後、十字架につけられて殺されるわけですが、「十字架につけろっ」と叫んで、人々を扇動したのは、このファリサイ派、律法学者であり、祭司長や祭司たちでした。いわば、あまりにも厳しいイエスの非難、攻撃を受け、彼らの逆恨みを受けてしまったことになりました。  私たちが知っているイエスさまは、愛の人であり、柔和な人、やさしい人、人のことを悪く言ったり、怒ったり、感情的になったりは、なさらない方というイメージがあります。  皆さんも、そのようなイエス像を描いておられるのではないでしょうか。  しかし、聖書の中のイエスさまは、この律法学者、ファリサイ派の人々に対しては、やさしいとか、愛の人とか、柔和な人というイメージとは逆で、感情も露わに、怒り、非難し、ののしっておられるのです。  日頃、静かな、やさしい方が、ほんとうに感情も露わに怒っておられる姿は、これを見る人がびっくりするような迫力だったのではないでしょうか。  今日の福音書の個所は、その前哨戦のようなもので、これに続く13節以下では、彼らの行動の一つ一つを取り上げて、もろに、ののしっておられます。  「律法学者たちとファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者は、わざわいだ(不幸だ)」と。  この後、マタイ23章13節以下には、「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」など、7回も繰り返されています。この「不幸だ」という言葉は、「わざわいだ」とも訳されています。この言葉を辞書で引いてみますと、「終末論的な救いから締め出されるという威嚇と裁きの意味を持った預言者的」な言葉であると記されています。  このようなきつい言葉を使って、「お前たちは偽善者だ、わざわいだ」と言って、イエスさまは、このファリサイ派、律法学者を徹底的に攻撃しておられるのです。 2.ファリサイ派の偽善のいろいろなタイプ  イエスさまは、ここに、ファリサイ派や律法学者のいくつかのタイプを指摘しています。  「言うだけで実行しないファリサイ派や律法学者。」  「人には重荷を負わせるけれども、自分では指一本貸そうとしない。」  「聖句が入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くする。」  「上座、上席に座りたがる。」  「先生とか、父とか、教師とか呼ばれたがる」  等々、見せかけの偽善者、傲慢な偽善者、自分の面子や体裁ばかりを気にする偽善者。怠慢で、計算高く、臆病である。さらに自分は偉いのだと、少しでも多くの人たちに認めさせようと、自分を誇示し、自分の評判ばかりを気にする。  そのような神を畏れないファリサイ派、律法学者を、徹底的に非難しました。  「偽善者」(ヒポクリテース)とは、もともと、舞台で仮面をかぶって、芝居をする役者のことを指した言葉でした。  外から見たところでは、まったく宗教的な人物、信仰深い人物の役割を演じていて、内面では、ほんとうの宗教的な精神に反した生き方や考え方を持っている人のことをさします。意識的にそのように演じている場合もありますし、無意識のうちにそのような結果になっている場合もあります。  イエスさまは、このようなファリサイ派や律法学者に対して、「偽善者である」と決めつけました。 3.神を畏れなくなったクリスチャン  さて、私たちは、クリスチャンとして、どうでしょうか。  誰も、自分で、偽善者になろうとして、偽善者になっている者はいません。しかし、自分で気がつかない間に、イエスさまが、指摘されるようなファリサイ派、律法学者のようになってしまっていることはないでしょうか。  その原因の一つは、神さまを畏れなくなってしまっているということです。  現代という時代、社会全体が、さらに、個人的な生活を見ても、便利になり、快適になった生活の中では、私たちは神を畏れなくなりました。目に見える物質文明、すべてが数字で表される効果主義、能率主義は、人の優しさや、思いやり、ほんとうの愛を失い、人の心を押しつぶして平気でいられる社会です。目に見えないものの大切さが、分からなくなっています。目に見えないほんとうの神を、畏れない現象は、全く別な新しい偶像崇拝を生みだしてしまっていると言えます。  そのような現代社会、世界の流れの中に、とっぷりとつかっている私たちもまた、ともすると。神さまを畏れるほんとうの信仰を見失ってしまいつつあるのではないでしょうか。  宗教的な生活、礼拝や教会生活に慣れることが、それが、いつの間にか神さまとの関係が、特別親しくなったように思ってしまい、慣れっこになって、神を畏れなくなってしまいます。  ファリサイ派、律法学者の姿は、人にどのように思われるか、人にどのように評価されるかということ、自分の利益、自分の欲望を満足させることが、まず第一であって、神さまのことを忘れてしまっているところに問題がありました。  見せかけのクリスチャン、面子や肩書きだけのクリスチャン、うわべだけのクリスチャンになってしまっていないでしょうか。  人の目は、ごまかせても、神さまの目は、ごまかすことはできません。神さまは、一人一人の心の中をご存知の方です。  神さまが、黙っておられることをよいことに、神さまの御心に背き、神さまを無視し、神よ、神よと、神の名を唱えるだけの、自分を正当化するためだけの、クリスチャンになってしまっていないでしょうか。  私たちの信仰、私たちが物事を考える発想の出発点、私たちの生き方、価値観、立ち居振る舞い、そのすべてをふり返ったとき、ファリサイ派、律法学者のようになってしまっていないでしょうか。  イエスさまから偽善者だ、わざわいだと言われるような姿にはなっていないでしょうか。  ほんとうに、神さまを畏れる信仰をもって、神さまを仰いでいるでしょうか。 4.仕える者、へりくだる者となりなさい  では、私たちが、自分がファリサイ派、律法学者のようになっていないか、イエスさまに、偽善者だ、わざわいだと言われないためには、どうすればいいのでしょうか。  イエスさまは、上座に座り、上席に着こうとし、「先生」や「教師」や「父」と呼ばれたがっているファリサイ派の人たち、律法学者たちを、横目で見ながら言われました。 「あなたがたのうちで、いちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」  「仕える者」とは、奉仕する者、ご主人の僕となって働く者の姿を言います。たとえば、食事の席で、給仕をする人と給仕される人があります。その「給仕する人」になりなさいと言われるのです。  主イエスの時代には、食事の席で給仕をするのは奴隷の仕事でした。当時の奴隷の姿というのは、ご主人に買われ、生かすも殺すもご主人次第、報酬も受けず、ご主人の命令されるままに言われたことをするのでした。ご主人が食事をする間、自分は食事をしないで、お世話をする、食事する人が気持ちよく食事ができるように心を配る。それが給仕する人のつとめでした。一般的には、給仕する者より、給仕される者の方が、僕よりも、ご主人の方が偉いと考えらます。  しかし、イエスさまが教えられる価値観は、まったく逆です。「仕える者になりなさい」「給仕する者になりなさい」と言われます。それは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」からなのです。  神を信じる者の、最も大事な姿勢は、へりくだる者となることです。  まず、第1に、神の前に、へりくだる者であることが、神を信じる者となるための条件です。私たちは、神に対して「主よ」と言います。それは、奴隷制度があった時代の言葉でいう「ご主人さま」という意味です。これに対して、私たちは「僕」なのです。ご主人さまは、私たちの所有者であり支配者であり、命令者なのです。私たちはそのご主人さまの心を汲んで、そのみ心に従うだけです。まず、ご主人さまが、喜んでくださることをするのです。主である神さまに、仕える者となることです。何よりも神を畏れる者であり、へりくだる者となることです。  第2に、神さまの前に謙遜である者、神さまを畏れる者は、人に対して、初めて謙虚になることが出来ます。イエスさまが「仕える者になりなさい」と言っておられるから、だから、わたしに仕えなさい、わたしの奴隷になりなさいというのではないのです。すべての人が仕える側なのです。「互いに仕え合いなさい」と言われるのです。  私たちが、ファリサイ派、律法学者のようにならないために、「偽善者的な信仰者」にならないために、だいじな物差しは、神さまと人々の前に、ほんとうに「仕える」者になり得ているか、「へりくだる者」になっているかどうかが、問われています。     〔2017年11月5日 聖霊降臨後第22主日(A-26) 東舞鶴聖パウロ教会〕