10人のおとめのたとえ

2017年11月12日
マタイによる福音書25章1節〜13節  今、読みました今日の福音書には、イエスさまが語られた「10人のおとめ」のたとえというたとえ話が記されています。  当時のユダヤ人の結婚式の様子を、うかがうことができるのですが、ユダヤ社会の結婚のしきたりを通して、イエスさまは、「終末の時」を迎えるということについて大切なことを教えておられます。  多くの場合、たとえは「天国、神の国とは、このようなものである」というかたちで語られています。それは、言いかえれば「神さまと、私たちとの関係は、このようなものですよ」いう意味だということができます。  当時の、イエスさまの時代の、ユダヤの結婚式は、このようなものだったということを学びましょう。  結婚式は、夜に行われます。まず、夕方になると、冠をかぶり、盛装で着飾った花婿が、大勢の友人に取り巻かれて、たくさんの贈り物を持って、楽器を打ち鳴らしながら花嫁の家に行きます。花嫁を迎えに行くのです。  そして、美しく着飾った花嫁が友だちに付き添われて花婿の家に向かいます。  その行列は、花婿とその友だちが先頭を行き、そして花嫁とその友だちが続きます。手に灯りを持ち、音楽あり、踊りありと賑やかにこの行列は進んで行きます。  花婿の家では、この行列が到着するのを待ちうけるのですが、夜遅くなることもしばしばありました。  花婿の実家では、その道を照らすために、灯りを持った乙女たちを、途中まで迎えに行かせました。灯りをいっぱいともして、花婿と花嫁の行列を迎え入れ、それから本格的な宴会が始まるのでした。  イエスさまが話された、この「10人のおとめ」のたとえは、このような婚礼の場面の中から語られています。  10人のおとめが手に手に灯りを持って、花婿の行列が到着するのを迎えに行きました。10人の内、5人のおとめは、手に持った灯りの他に、予備の油を入れた壺を持っていました。しかし、他の5人は予備の油を持っていませんでした。  花婿たちの行列が遅くなってしまいましたので、迎えに出たおとめたちは途中で休んでいる間に、いつのまにか眠ってしまいました。  眠り込んでしまった時に、「花婿が着いたぞーっ、迎えに出なさい」という声が聞こえ、乙女たちは、あわてて起きあがり、灯りを整えました。いずれの灯りも油が切れて、消えそうになっていましたが、予備の油を持っている5人の乙女たちはすぐに油を補給することができました。  しかし、予備の油を持っていないおとめたちの灯りは消えてしまいそうになりました。そこで「油を分けてください。わたしのともし火は消えそうです」と頼みました。しかし、予備の油を持っていたおとめたちは「あなたがたに分けてあげるほどの油はありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と答えました。  予備の油を持っていないおとめたちは、あわてて油を買いに行きました。しかし、間に合いません。その間に花婿の行列が到着し、予備の油を用意していた5人のおとめたちは、灯りを灯して、花婿たちの行列を迎え、無事に役目を果たすことができました。この5人のおとめたちは花婿たちと一緒に婚宴の部屋に入り、戸は閉められてしまいました。  その後で、予備の油を持っていなかったおとめたちは、帰って来て、花婿の家に行き、「御主人様、御主人様、開けてください」と言って戸を叩きました。  しかし、ご主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えました。  このようなたとえの話をした後、イエスさまは「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われました。  この「たとえ」話が、言おうとする問題点は、一体何なのでしょうか。  このたとえでは、「愚かなおとめ」と「賢いおとめ」と言って、はじめから、乙女たちは、はっきりと色分けされています。しかし、賢いおとめも、愚かなおとめも、同じようにみんな眠ってしまっています。おとめたちが眠ってしまったところに問題があるわけでもありません。  「花婿の来るのが遅れたので」とあり、遅れたのはたしかですが、ところがなぜ遅れたのかという遅れた理由については何も問題にされていません。遅れた理由よりも、花婿たちの行列が突然やってきた、この「突然やってきた」というところに重大な問題があるようです。  予備の油を持っていない愚かな乙女たちが、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」と頼みましたが、予備の油を持っていた賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と答えました。  何て冷たい、やさしくない、意地悪な答えでしょう。しかし、そのことが問題になっているようでもありません。その証拠に意地悪をした賢いおとめたちは皆、宴会の席に入っています。意地悪された方の愚かなおとめたちは、扉も開けてもらえないばかりでなく、ご主人から「わたしはお前たちを知らない」と無視されてしまいました。  このたとえが書かれた時代の、その当時の、教会の背景について、少し考えてみたいと思います。聖書が書かれた時代の教会、すなわち初代教会の信徒が持っていた信仰の特徴の一つは、「終末信仰」とか「終末思想」というものが非常に強く根付いていました。  それは、世の終わりが近いという考え方でした。すでに後期のユダヤ教に、その発端が見られるのですが、キリスト教の教会の中でも非常に強い緊張感をもって受け取られていました。  神さまがこの世をお造りになった。初めがあるのだから世の終わりがあると信じ、それは、いつ、どのようにして現れるのかということが重大な問題でした。  そして、この終末の時には、キリストが再び現れる、そのことを「再臨」というのですが、この「再臨を待ち望む」という信仰がありました。  その「時」の到来は、いつなのかはわかりません。非常に緊迫した近い日を予定されていましたから、その日が来るのを待っていました。自然界に、転変地異が起こる、台風や洪水や地震などが起こり、戦争が起こったりすると、人々は、それ終末の時が来たのだと、右往左往する人たちもいました。 しかし、そのような時は、まだやって来ません。キリストが再び現れると信じても、なかなかその時は来ません。終末の時の到来が遅れているということに、いらだっている初代教会の信徒が意識された「たとえ」であるということが出来ます。  再び来られると信じられるキリストが、このたとえの中で花婿にたとえられ、花婿の到来が遅れていることにそのことが示されています。  そして、今か今かと、その時を待つ人たちには、2つのタイプあることが述べられています。それは予備の油の準備をしている人と、準備をしていない人、この2つのタイプの人たちです。  初代教会の時代から現在にいたるまで、約2千年の年月が経っています。長い歴史の中に終末を思わせる出来事はいくつもありました。しかし、現在もなお、この世は続いています。終末の到来は、未だその時ではないと言われたまま、今もまだ、待ち続けられている状態です。  2千年という長い年月の経過のうちに、現代人の信仰は、初代教会の人々の信仰に比べて、終末信仰の緊張は薄れてしまっていることは確かです。  しかし、その時は、明日かも知れませんし、1年後かも知れませんし、さらに何千年後かも知れません。  この世の終わりの時は、聖書が言うように、神のみがご存知であって、いつ、どこに、どのようにして来るのかということはわかりません。  しかし、一つ確かな終末があります。それは、私たち一人一人に、必ず「終わり」があるということです。  このようにして、考えたり、いろいろなことを感じたり、話したりしている私たちには、私たちにも、必ず終わりというものがあるということです。  私たち人間には、死というものがあり、誰一人例外として死なない人はいません。人間の寿命というものは、現代の医学の発達などによって、ある程度延ばすことはできていますが、それでも、その時はいつか必ず来ます。  そして、その時が、いつ、どこで、どのようにして来るのか誰にもわかりません。  世界中の国々で、今なおCO2(二酸化炭素)を垂れ流され、地球温暖化が進み、そのために異常気象が世界中で発生しています。  日本列島では、30年以内にマグネチュード8〜9の大地震が起こることが、60〜70パーセントの確率で起こると予想されています。これは日本の公の機関が予想し、太平洋岸の街や村で、何十万人の人が死ぬだろうと言われています。  科学が発達し、こんなに情報がいき交う時代になっても、その被害に遭った人たちにとっては、「世の終わり」を思わせる光景が展開されることになります。  私は、現在、81歳です。30歳代、40歳代、50歳代、60歳代70歳代と、同じ聖書を読み、同じ聖書の言葉に触れ、「誰にでも終末の時がある」と語って来ましたが、この歳になりますと、現実味が違います。適齢期に入ったというか、「その時」、「自分の終わりの時」を、非常に身近に感じます。  決しておどかすつもりや、怖がらせるつもりでこんなことを言っているのではありません。  一般的には、「自分の死」のことなど考えたくないと思っています。しかし、私たち一人一人に、かならず終わりがあるということは、絶対に確かです。  そのために、あなたには「備え」はありますかと、問われています。  花婿の到来は同じように告げられます。しかし、その時に油がつきて、花婿を迎えられない人と、余裕をもってその時を迎えられる人の違いが、ここに示されているのではないでしょうか。  私たちが「その時」を迎えるためには、一人一人が、自分で、そのことに立ち向かわねばなりません。隣りの人に油を分けてもらおうと思っても、断られるように、死に直面する人にとっては、誰もその時になっては、助けることが出来ません。終わりの時に、あわててお願いしても、過去のいきさつを述べてみても、泣き叫んでみても間に合いません。  その時にあわてて油を買いに行っている間に、戸は閉められ、外に放り出されてしまいます。「わたしはあなたを知らない」と言われてしまいます。  では、どうすればいいのでしょうか。  いざという時のために、水や食料を備蓄しておくように、心の備え、生きるか死ぬかに直面する者として、魂の備えが必要です。  「たとえ」が教えることは、前もって油の準備をしておきなさいということです。その時の来ることをつねに覚えて、心に用意をしておきなさい。すぐに立ち上がって花婿を迎えられるように備えなさいということです。それが、救い主である花婿のお祝いのテーブルにつく資格を得るということです。  イエスさまが私たちと共にいてくださる。イエスさまの食卓に与り、神さまのみ子であるイエスさまと食事を共にする。イエスさまのふところに抱かれる。それは、ちょうど赤ちゃんが、お母さんのふところに抱かれて安心しきって眠っているように、イエスさまのふところに抱かれ、本当の安心を得る準備を、その資格を得ておきなさいと言います。  これこそが天国の備えをすることです。  私は、今、自分自身の人生の終わりについて考える時、いつも思うことですですが、自分がこの世に生を受け、人生の終わりという壁にタッチして、回れ右をして、今の自分を眺めている姿を思ってみます。そこから、今の自分、現在の在り方、生き方を考えてみるのです。  そのような考え方を、終末的信仰を持つことだと思っています。そこには、老いも若きもありません。神さまから与えられた人生を、ただ昨日の延長で今日があり、今日の延長で明日があるという時間の経過だけで終わってしまうのではなく、向こう側から、自分の終わりというところから、こちらを見る思いで、今、何をなすべきか、どのような生き方をしたらよいのか、そして、神さまとの関係を見直すことがだいじだと思います。  戸が閉められた後で、油の準備をしていなかったおとめたちが来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言いました。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えました。  マタイの7章21節に、イエスさまは言われました。  「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。‥‥かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって‥‥いろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(21節〜23節)  今日のイエスさまのたとえの中で、イエスさまは、最後に言われました。その時になって、「御主人様、御主人様」、「主よ、主よ」と言っても、叫んでも、戸を叩いても、「あなたのことは全然知らない」と言われます。  「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と。 〔2017年11月12日 聖霊降臨後第23主日(A-27) 大津聖マリア教会〕