「タラントン」のたとえ
2017年11月19日
マタイによる福音書25章14節〜15節、19節〜29節
1、タラントンのたとえ
マタイの福音書によりますと、先主日の福音書「10人のおとめのたとえ」を話された後、すぐにもう一つのたとえを語られました。
「10人のおとめのたとえ」は、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(25ノ13)という言葉で終わっていますが、それに引き続いて、今、読みました「タラントンのたとえ」が話されています。
天国、神の国、または神さまと私たちの関係は、このようなものであると言って、イエスさまは語り始められました。
あるお金持ちの主人が、僕たちに、自分の財産を預けて、旅行に出かけました。その時に、僕のそれぞれに、その力に応じて、一人には5タラントン、もう一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて、旅に出ました。
財産を預かった僕たち、5タラントンを預かった僕は、早速それを元手にして商売をし、5タラントンを儲けました。2タラントン預かった僕も、2タラントンを元手にして、2タラントンを儲けました。
しかし、1タラントンを預かった僕は、地面に穴を掘って、ご主人から預かったお金を隠しておきました。
かなり、日が経ってから、僕たちのご主人が帰って来て、僕たちと、清算を始めました。
まず、5タラントン預かった僕が、ご主人の前に進み出て、預かった5タラントンと、儲けた5タラントンを差し出して言いました。
「ご主人さま、あなたから5タラントンをお預かりしましたが、ご覧ください。ほかに5タラントンを儲けました。」 すると主人は、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。わたしと一緒に喜んでおくれ」と言いました。
次に、2タラントン預かった僕も、ご主人に言いました。「ご主人さま、わたしは、2タラントンお預りしましたが、御覧ください。ほかに2タランンを儲けました。」すると、主人は、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでおくれ』と言いました。
最後に、1タラントンを預かった僕も、主人の前に進み出て言いました。「ご主人さま、あなたさまは、種を蒔かない所から刈り取り、散らさない所からでもかき集められる、厳しい方だということをよく知っていましたので、恐ろしくなり、外に出かけて行って、土を掘り、あなたさまから預かった1タラントンを、穴の中に埋めて、隠しておきました。御覧ください。これがあなたさまのお金です。」
すると、主人は答えました。
「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からでもかき集める者だということを、知っていたのか。それなら、わたしは、わたしの金を銀行に入れて預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たときに、利息付きで返してもらえたのに。」
そして、周りの召使いに、「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントンを持っている者に与えよ。誰でも持っている人は、更に与えられて豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と言いました。
イエスさまは、この「タラントンのたとえ」を通して、当時、イエスさまのお話を聞いている人たちに、律法学者やファリサイ派の人々、大勢のユダヤ人、また、今、この聖書の個所を読む私たちに、何を語ろうとしておられるのでしょうか。何を教えようとしておられるのでしょうか。
2、イエスは、何を語ろうとしているのか
去る9月の中頃、聖霊降臨後第15主日で読みました福音書には、ペトロが、イエスさまに「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか、7回まででしょうか」と尋ねた時、イエスさまは、「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」と言われて、ある王さまから1万タラントンを借金していた家来のたとえを話されました。(マタイ18:24) その時の説教の中で、イエスさまの時代の「タラントン」というお金の価値というか、金額について話しました。
もう一度言いますと、タラントン(金貨であった?)とは、もとは、重さを計る単位だったのですが、お金の額を表す言葉になりました。当時、流通していたギリシャの貨幣で、1タラントンは、6千ドラクメ、1ドラクメは、銀貨で、銀4.3グラムでした。
1ドラクメは、1デナリオンと同じです。ぶどう園で働く肉体労働者の1日の賃金は、朝から夕方まで働いて、1デナリオンであった言いますから(マタイ20:2)、今の日本の貨幣に換算すると、どれほどになるでしょうか。とっても大きな金額になります。
さらに、ギリシャ語のタラントンは、英語では、タレント(talent)になり、その言葉は、「生まれつきの才能」、「適正」、「才能ある人々、人材」となりました。
日本でも「タレント」というと、才能、技能、テレビに出ている芸能人という意味に使われています。
神さまは、すべての人に、それぞれに応じて、タラントン、タレント、すなわち、いろいろな才能や能力をお与えになりました。歌を上手に歌える人、上手に絵が描ける人、手先の器用な人、いろいろなことを考えたり、数学ができる人、健康な体が与えられてスポーツができる人、数え切れないほど、さまざまな、才能、能力が授けられています。その中味はさまざまで、多いか少ないか、それもさまざまです。すべての人に、タレント、タラントンが預けておられているのだといいます。
私たちが生きている間に、神さまからお預かりした、預かったタレント、才能、能力を使って、せい一杯働き、勤めて、努力して、人生の最後を迎えます。最後の時には、神さまに呼び出され、神さまの前で、神さまから清算を求められるというたとえです。
神さまからお預かりしたタラントン、タレント、才能、能力を使って、こんなに成果を上げましたと言って、差し出し、神様からよくやったと褒めていただくか、または、預けられた才能、能力を少しも使わず土の中に埋めて、隠しておいて、「神様から、役に立たない者め、この僕を暗闇に放り出せ」と言われるか。
イエスさまは、このように、神様から受けた賜物を有効に使って、神様を喜ばせなさいと、ということを教えるためにこのたとえを語られたのでしょうか。
そのように、解釈することもできるのですが、さらにもう一歩、踏み込んで、イエスさまの思いは、もっと深いところにある、そのみ心を探いってみたいと思います。
3、さばきの時と、わたしたちに委託された勤め
まず、第一に、この「タラントンのたとえ」が、その前の「10人のおとめのたとえ」の、すぐ後に置かれているということの意味です。
イエスさまは、「10人のおとめのたとえ」の最後、25章13節で、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われて終わっています。そして、すぐに、それに引き続いて、「タラントンのたとえ」が語られているのですが、ギリシャ語の聖書を見てみますと、25章の14節には、「‥‥というのは」または「すなわち」と訳せる言葉で、「タラントンのたとえ」が始まっています。(なぜか、新共同訳聖書には、その言葉が省略されています。)
「タラントンのたとえ」は、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」、「というのは、天の国は、また次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。‥‥‥」と、続いているように見えます。
第二に、たとえに出てくる「タラントン」とは、単に、人間一人ひとりに、神さまから与えられている(預けられている)才能や能力や健康というようなものだけでなく、そのすべてのものを含めて、「神さまの財産」「神さまからの賜物」「神さまからの恵み」と理解することができます。
さらに、私たちが忘れてはならないのは、イエスさまに出会い、イエスさまの名によって受けた洗礼の恵みです。「何ものにも代え難い、洗礼の恵み、クリスチャンにされた恵み」を与えられているということです。
旅に出る主人、すなわち神さまは、僕一人ひとりに、異なった賜物、大小さまざまな賜物をお預けになりました。私たち一人ひとりは、神さまから、それぞれに「賜物」「恵み」が与えられているというのです。
私たちは、神さまから預かっている賜物を、どのように受け取り、どのように扱い、どのように運用するかを、神さまは、見ておられます。
そして、ご主人は、いつ帰ってくるの、その時は、かわかりません。
ある時、突然帰ってきて、清算を求めます。居眠りをしているおとめたちの所に、婚礼の行列、花婿が突然やって来たのと同じように(25:6)、清算の時、審きの時が来ます。
5タラントン預かった僕と、2タラントン預かった僕は、それを元手にして、これで投資をして、商売をして、利益を上げて、ご主人の財産を倍にしました。
それを、ご主人に差し出すと、ご主人は言いました。
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」このように言って、褒めました。
5タラントンを儲けた僕にも、2タラントン儲けた僕にも、まったく同じ言葉で褒めました。
ところが、1タラントンを預かった僕は、これを、盗まれたり、無くしたりしては大変だと思って、穴を掘って埋めておきました。これをだいじに保管しておいた僕に対しては、ご主人は言いました。
「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それだったら、わたしの金を、銀行に入れておくべきだった。そうしておけば、帰って来たときには、せめて、利息だけでも付けて返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っている者に与えよ。誰でも持っている人は、さらに与えられて豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を、外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と、このように言いました。
今日の私たちの常識からすると、逆のように思います。
預かった高額のお金を、商売に注ぎ込む行為、大きく儲けようとすることは、すべてを無くしてしまう危険を冒すことになります。一方、1タラントンを土を掘って、穴に埋めておいた僕の方が、堅実で、安全第一、しっかりとご主人の財産を預かったことになるように思います。
ところが、主人は、危険を冒すかもしれない商売に、預かったご主人の財産を注ぎ、投機に走った2人の僕を褒めたというのです。
反対に、安全第一に、これを守った1タラントンを預かった僕は、主人から、厳しく断罪され、「怠け者、悪い僕だ」、「銀行に預けておいたほうがましだった」、「そのタラントンを取り上げよ」、「役に立たない僕だ」、「外の暗闇に追い出せ」と言われてしまいました。
4 自分のためか、神さまのためか
この3番目の僕の何が、怠け者、悪い僕、役に立たない僕だったのでしょうか。どこがご主人、すなわち神さまの怒りを買うことになったのでしょうか。
それは、預けられたタラントンを、誰のために使ったか、誰に喜んでもらうために、使おうとしたかということに違いがあります。
1タラントン預かった僕は、「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」(24、25節)と、言いました。
封建時代の悪代官のように、貧しい農民からでも無理矢理年貢を取り立てる、絞り取るような恐い人だ。
もし、預かったこのお金を、減らしたり、失ったり、盗まれたりしては、どれほど怒られるかも知れない。恐ろしいので、だから、穴の中に埋めて、だいじに保管しておきましたと、言いました。
この僕が、いちばん先に考え、いちばん大事にしたこと、それは、自分の身の安全、自分自身の安全を最重要と考えて、タラントン、すなわち、神さまからの賜物、神の恵みを、誰の目にも触れないように隠して、じーっと抱えていたのです。
ところが、5タラントン、2タラントンを預かった僕たちは、神さまからの賜物、神さまから与えられている恵みを、最大限に活用して、これを用いて神さまの財産を増やしました。ひょっとすると、商売に失敗するかも知れない、投機に失敗して、すってんてんになってしまうかもしれない。
しかし、そこには、決断、勇気が必要です。さらに、その動機というものは、ご主人さま、すなわち神さまに喜んで頂くためには、どうしたら良いかということを考えました。
来たるべき終わりの時、審判の時を前にして、神さまが彼らに(いや私たちに)与えられた賜物、恵みを、神の国、神さまのために働かせたか、それとも、自分自身の保身、自分の安全だけを考えたか、何を第一に考えたのかが問われているのです。
自分の命や財産を心配し、ただ自分の保身のことしか考えず、そのために、自分が神さまからの賜物を有効に使っていないことに気が付かない、それどころか、それがまともであると信じてさえいる3番目の僕に対して、イエスさまの厳しい言葉が発せられているのです。
神さまは、自分の立場や、自分の生命だけを固く保とう、守ろうとする者ではなく、神さまのために、それを使って賭け、神さまにおささげする、そのために危険を冒すことさえできる者であることを、神さまは、求めておられます。
イエスさまは、くり返しくり返しこのように言われます。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:38、39)
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)
何一つ間違ったことをしないということばかりに気をつかっている人は、まさに、神さまの御心の前を通り過ぎていると、イエスさまは、このたとえを通して語っておられます。
〔2017年11月19日 聖霊降臨後第24主日(A-28) 聖光教会〕