最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
2017年11月26日
マタイによる福音書25章31節〜46節
教会の暦では、2017年(平成29年)は、今週で終わります。次の主日からは「降臨節」「アドベント」に入り、2018年度が始まります。この降臨節の4週間は、降誕日(クリスマス)を迎える準備のシーズンとなります。今日の主日は、「降臨節前主日」と言います。
さて、今年の暦の最後の主日である本日の聖書ですが、福音書には、今、読みましたマタイ福音書25章31節〜46節が定められています。この聖書の個所には「すべての民族を裁く」という見出しがつけられています。そして、終末や、キリストが再び現れる再臨の時のことが語られています。さらにその時に「裁き」というものがあると教えています。
裁きとは、審判をくだす、良いものと悪いものが明らかにされ、選り分けられると言っています。
私たちは、日頃、神さまは、愛の神であり、恵み深い方であり、赦してくださる方であると教えられています。
愛と恵みに満ちた方であるから、どんなことでも赦して下さると信じています。
しかし、同時に、神さまは、裁く方であり、選り分ける方であると、聖書は言います。そういう意味では、非常に厳しい方であり、恐い方であることを知らなければなりません。
私たちは、お祈りをするときに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけます。私たちと、神さまの関係を、あなたと、わたしの、人格的関係としてとらえるために、「父」として擬人化し、親しみを込めて「父よ」と唱えています。本来、一家の家長である父は、愛に富んだ、やさしいまなざしの父であるとともに、厳格な厳しい父のイメージが含まれています。厳しい父親というのは、ただ厳格で怒ると怖いというだけでなく、畏怖する、威厳をもった父がイメージされています。父である神の厳しさというのは、「裁く方」であるという姿で私たちに示されます。
さて、聖書の言葉に目を向けてみたいと思います。
今日の福音書、マタイによる福音書の25章31節から46節には、2つの「たとえ」が続けて記されています。
最初のたとえは、31節から33節までです。
羊飼いが、羊と山羊を選り分けるという、たとえが記されています。
そして、その次の34節から46節では、王様が、祝福された人と、呪われた人とを、右と左に分別するという、たとえが記されています。
最初のたとえでは、羊飼いは、昼間は羊も山羊も、同じ場所で放牧され、いっしょに草を食べさせます。羊飼いは、夕方になると、その山羊と羊の群れを集めて、連れて帰り、山羊と羊を別々の囲いの中に入れて休ませます。山羊と羊は性質、習性がちがいますので、いっしょにしておくわけにはいきません。囲いの入口で、右と左に選り分けて、山羊は、山羊の囲いに、羊は、羊の囲いに入れて選り分けます。
キリストが再び来られて、栄光の座に着かれるときには、すべての国民、民族がこのように選り分けられるのだと、聖書は言います。
次に、もう一つのたとえですが、主人公は「王」です。王様は、右側にいる人たちに、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から、お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言いました。
そして、王様は、左側にいる人たちにも言いました。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と、恐ろしいことを言いました。
人を、右と左に選り分け、永遠の国の世継ぎとする者と、悪魔の用意した永遠の火に投げ入れられる者とに、選り分けられるというのです。恐ろしい裁きの様子が語られています。
それでは、この祝福された者と、呪われた者とに、分けられる理由とは何でしょうか。何を規準として、このように分けられるのでしょうか。
それは、王様が、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」か、そのようにしてくれなかったかに、かかっていると言います。
右側の人たちは、「わたしたちは、王さまにいつそんなことをしましたか?」と言いました。すると、王さまは、「わたしの兄弟である、この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言いました。
その反対に、左側の人たちは言いました。「わたしたちは、王さまに、いつそんなことをしませんでしたか?」と言いました。すると、王さまは、「この最も小さい者の一人に、しなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言いました。
「この最も小さい者の一人にしてくれたことが、わたしにしてくれたことなのだ。」
そのようにした人と、そのようにしなかった人とは、最後の裁きの時には選り分けられ、永遠の命にあずかる者と、永遠の罰を受ける者とに分別されるというのです。
さらに、最も小さい者の一人にしてくれたことが、わたしにしてくれたことなのだ、そのようにしたか、しなかったかということが、分別の基準になるというのです。
亡くなって、ちょうど20年(1997年9月5日逝去、87歳)が経つのですが、あのマザー・テレサのことは、よくご存知だと思います。
テレサは、18歳の時、修道院に入り、1946年、黙想のため、ダージリンへ向かう汽車の車中で「神さまからの召命」を受け、修道会を出て、貧しい人々の中に入ることを決意します。1948年、まず薬を買って、粗末なサリーをまとい貧民街に立ったとき、所持金わずか5ルピー(現在、1ルピー=1.73円)だったと言います。
「富の中から分かち合うのではなく、無いものを分かち合うのです」と、テレサは言いました。
1950年、テレサは、インドに帰化しました。 12人のシスターと共に、「貧しい中の最も貧しい人に仕える修道会」、「神の愛の宣教者会」を設立し、「マザー・テレサ」と呼ばれるようになりました。
1952年、路上で死にそうになっている人を連れてきて、最期の時をみとるための施設「死を待つ人々の家」を開設しました。地元住民の強い反対と施設撤去を求める請願が出されました。インドは、ヒンズー教徒の国ですから、キリスト教のシスターは良く思われませんでした。また、いずれ間もなく死ぬ人のために、そんなに苦労しても、あまり意味がないという批判もありました。でも、マザーは、最期の一瞬だけでも人間らしく扱われることの大切さを説きました。
ある日、コレラで死にそうなヒンズー教の僧を引き取り、死をみとったことがきっかけになり、住民の、彼女を見る目が変わったと言います。
「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、お金や物ではない。世の中で、誰かに必要とされているという意識なのです。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです」と言いました。
孤児のための施設「聖なる子供の家」を開設し、また、ハンセン病の巡回診療を始めました。西ベンガル州にハンセン病患者の「平和の村」を開設、1975年、学校・病院・作業所などを持つ、複合センター「プレム・ダム」を開設しました。
そして、1997年9月5日、マザー・テレサは、「もう息が出来ないわ」という最後の言葉を残して、87歳で亡くなりました。
私は、ある時に、マザー・テレサが、インタビューに、答えている場面をビデオで見たことがあります。
「マザーは、飢えている人を引き取り、病気の人の面倒を見、ハンセン病(らい病)の人の足をさすり、死に瀕している人の最後を看取り、孤児のための施設をつくり、さまざまな最も貧しい人、弱い人、見捨てられた人のために働いておられます。あなたが、それをなさる動機は何ですか。なぜそのようなことをなさるのですか」と尋ねました。
これに対して、マザー・テレサは、「飢えている人に食事を用意するのは、イエス・キリストに、食事を差し上げているのです。らい病の人の足をさするのは、イエス・キリストの足をさすっていることになるのです。」と答えていました。
まさに「この最も小さい者の一人にしてくれたことが、わたしにしてくれたことなのだ」という聖書の言葉を、生涯を通して実行した人でした。
マザー・テレサの言葉や行動が人の心を打つのは、単に人道主義や博愛主義によるのではなく、自分自身への見返りや自分の名誉のためでもなく、イエス・キリストとの関係、キリストへの服従、信頼、愛のゆえであったことがわかります。
毎朝4時から、ミサと、黙想のために、2時間を費やします。その上に立ってこそ、ヒンズー教徒にも、仏教徒にも、宗教を持たない人々にも、同じように仕えることができたのだと言われます。
1979年、ノーベル平和賞を受賞しました。その時、「わたしは、受賞に値しない者ですが、世界中の最も貧しい人々に代わって、賞を受けました」と言いました。受賞後も、朝4時に起きて、シスター達と一緒に、路上生活者や、ごみ捨て場に行き、捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活を、いつもと変わらず続けたといいます。
マザー・テレサの修道院の、どの部屋にも、イエスさまの像がついた十字架が掛けられています。その十字架像のすべて、そのそばには、どれにも全部、「われ、渇く」(ヨハネ19:28)と、イエスさまが十字架の上で、最後に残された、この言葉が記されています。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
マザー・テレサは、この言葉に、忠実に従った方でした。
いつも、いつも、誰もが、自分のため、自分の利益になるために、あくせくしている世の中で、私たちは、瞬間でも、どんな小さいことでも、神さまが喜んでくださること、イエスさまが喜んで下さることに、心を向けて生きたいと思います。
私たちは、すぐにマザー・テレサのような生き方はできませんが、身近に起こるどんな小さなことでも、たとえば、人との会話や、おつき合いのなかでも、目の前にいるその人を通して、「イエスさまが喜んでくださるかどうか、神さまが喜んでくださるかどうか」を考えながら生活したいと思います。
マザー・テレサは、沢山の名言を残しています。その中の一つを紹介します。
「慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを。」
「昨日は去りました。明日はまだ来ていません。わたしたちにはただ、今日があるのみ。さあ、始めましょう。」
新たな気持ちで、「降臨節」「アドべント」を迎えましょう。
〔2017年11月26日 降臨節前主日(A-29) 聖光教会〕