いつもわたしの神に感謝しています。

2017年12月03日
コリントの信徒への手紙一 1章1節〜9節  教会の暦では、今日の主日から、新しい年を迎えます。 そして、今日からイエス・キリストの誕生を迎える準備をするシーズン「降臨節」に入り、12月25日には、主のご降誕を祝うクリスマスを迎えます。  先ほど読んでいただいた使徒書、「コリントの信徒への手紙一1章1節から9節までの聖書の個所から、ご一緒に学びたいと思います。  新約聖書の目次を見ますと、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、4つの福音書から始まって、ヨハネの黙示録まで、27の書が掲げられています。その6番目の「ローマの信徒への手紙」から、18番目の「フィレモンへの手紙」まで、13の手紙は、これは、パウロが書いた手紙であると言われています。  パウロが書いた手紙は、もっとあっただろうと言われていますが、失われたものもあり、その中の13の手紙が、ここに残され、聖書として、現在にまで伝えられています。  パウロ(アラム語名はサウロ)は、ユダヤ民族のベニヤミン族の出身でしたが、タルソという町で生まれ育ち、生い立ちでは、ギリシャ系の生活にも馴染んでいました。少年時代、青年時代には、ユダヤ人であることに誇りを持つ、ファリサイ派の教育を受けていました。  イエスさまが、エルサレムの郊外で十字架に着けられて、殺されたのが、西暦30年頃と言われます。イエスの死後、弟子たちの集団は、ひそかに人数を増やしていき、ユダヤの役人から追われる状態になっていました。  青年パウロは、熱心なユダヤ教徒でしたから、クリスチャン狩りに加わり、クリスチャンを捕らえようとして奔走していました。  それは西暦37年頃のことでした。クリスチャンを追って、エルサレムから、ダマスコの町へ向かい、ダマスコに近づいた時に、突然天からの光が射してパウロを照らし、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声が聞こえ、パウロは地面に倒れました。そして、何も見えなくなりました。一緒にいた人々は、パウロをダマスコまで連れて行き、そこで、イエスさまの弟子であったアナニアという人に会い、イエスさまのことを教えられ、洗礼を受けて、クリスチャンになりました。  パウロは、このように不思議な聖霊体験をして、熱心なクリスチャンになりました。今までは、クリスチャンの迫害に誰よりも熱心であったパウロは、この出来事によって、誰よりも熱心なクリスチャンに生まれ変わり、誰よりも熱心な伝道者になりました。使徒言行録9章1節以下に、くわしく記されています。  パウロは、その後、3回にわたって、地中海沿岸の各都市、町や村を巡回して、福音を説いて周り、伝道旅行をし、大変な苦難に遭いながら活動を続けました。  「ユダヤ人から40に1つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙二 11:24-30)  パウロは、生前のイエスさまには一度もお会いしていません。直接声をかけてもらったこともありません。特別のキリスト教教育も受けていません。それでも、わたしは、イエスさまによって招かれた使徒だと言って、働き続けました。  パウロは、第2回の伝道旅行の時に、アテネの街からコリントの街に入り、そこで、しばらく滞在して、福音を宣べ伝えました。最初は、ユダヤ人が集まるユダヤ教の会堂で、ほんとうの救い主は、イエスであると言って説教をし、人々と論じ合いました。そこで、クリスチャンのグループが生まれ、そこに教会が誕生していきました。(使徒言行録18章1-17)  パウロは1年半ほどコリントに滞在した後、次の伝道地エペソに出発し、そこでも宣教活動をしていたのですが、その間に、生まれたばかりのコリントの教会に、いろいろな問題が起こり、その情報が伝えられてきたために、パウロは、エペソから、コリントの教会の人々に手紙を書きました。  何通かの手紙を書いたと思われますが、その中の2通が、「コリントの信徒への手紙一」であり、「コリントの信徒への手紙二」として残り、約2千年の年月を経て、私たちの手に、聖書として伝えられています。  このような、事情や背景の中で、パウロが、命がけで伝え、導き、そして立ち上げたコリントの教会の人々に、いろいろなことを心配しながら、切々と訴え、書き送っている手紙です。  今日の使徒書は、その手紙の書き出しの挨拶と、感謝を述べた部分です。  とくに、その中から、1章4節の、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」から、パウロが言おうとしているところを、私たち一人一人に宛てて書かれた手紙だと思って、読んでみたいと思います。  最初に、パウロは、「神さまに感謝しています」と述べています。パウロは、この感謝という言葉をよく使っています。新約聖書の中に、「感謝の祈り」とか、「感謝の念に満ちて」とか「感謝して」というように、たびたび出てきます。新約聖書の中で、全部で67回、「感謝」という言葉が出てくるのですが、その内、パウロの手紙の中に、47回出てきます。いかにパウロは「感謝」という言葉が、その思いが、大切であり、強調されていることが分かります。  私たちも、日常の会話の中で、「感謝」という言葉をよく使います。感謝という言葉を、日本語の辞書で引いてみますと、「ありがたく感じて謝意を表すこと」、「自分に対する好意や親切にありがたいと思うこと」と、あります。  「ありがとう」を辞書で引いてみますと、「感謝の意をあらわす挨拶語」とあります。  要するに、「ありがとう」とか「感謝する」ということは、私たちの心の状態ですから定義することは難しいのだと思います。  NHKのラジオ放送で、(10月1日〜12月24日)毎週日曜日の朝、6時45分からの「心をよむ」という時間で、「心の進化をさぐる」と題して、京都大学特別教授で、霊長類学者の松沢哲郎先生が講話をしておられました。松沢先生は、野生チンパンジーの生態調査を行い、ヒト、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンというヒト科に属する生き物を比較して、「人間の心の進化」について研究しておられます。  研究室で飼っているAとBという、2人のチンパンジーを使って、実験をしました。自動販売機のような装置をつくって、透明のガラスで仕切った部屋に置きました。それぞれの部屋に1人づつ、チンパンジーを入れて、コインを持たせました。Aのチンパンジーがコインを入れると、Bのチンパンジーがいる方の装置からリンゴが出てきます。Bのチンパンジーが、自分の所の装置にコインを入れると、Aのチンパンジーの方の装置からリンゴが出てくるという、このような装置になっています。  観察していると、最初は両方がコインを入れあって、見か け上の「互恵的な」協力が成り立ちます。(互恵とは、互いに恵むと書いて、「お互いに特別の便利や恩恵を受けること」。)  しかし、Aがコインを入れて、Bがリンゴを取る、またAがコインを入れて、Bが取る。さらにAが入れて、Bが取る、ということが続くと、Aはコインを入れなくなります。Bもコインを入れません。2人のチンパンジーには、それぞれ500枚のコインを持ちながら互いに立ち往生してしまい、人間では考えられない結果になることがわかったと、松沢先生は言われます。  人間にいちばん近いチンパンジーでも、「互恵性」の成立は難しいということがわかった。逆にいうと、「互いに特別の便利や恩恵を受けること」ができる「互恵性」こそが、人間の特徴だと言っておられます。  自分の利益だけを求めるのではなく、他の人にも利益が得られるようにすることによって、社会が成り立つ。さらにそれだけでなく、互いに「ありがとう」と、利益や恩恵を受け合って、お互いに喜び合い、その気持ちを表現することができる、これこそが人間にしかできない最も大切な心の動きではないでしょうかと言われます。  見ず知らずの人に対してでも、次に通る人のために扉を支えて待ってあげる、そして、扉を支えてもらった人が、便利や恩恵を受けて、「有難う」と言って感謝の気持ちを表現する、そこに人間関係、社会生活が成り立つ基本があるのではないでしょうか。  このように、人間と人間の間で感じ合ったり、行われたりしている関係を、神さまと、人との関係に置き換えて、パウロは言います。  「わたしは、あなたがたが、キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」  「あなたがた」すなわち「コリントの教会の人たち」が、イエスさまによって、イエスさまを通して、神さまの恵みを、受けることが出来るようになったことを、パウロは、道を伝えた者として、心から神さまに感謝しています。嬉しく思っています。こんなに嬉しいことはありませんと言っています。  それでは、パウロは、何を喜んでいるのでしょうか。 何を有り難いと言って、神さまに感謝しているのでしょうか。それは、コリントの教会の人々が、神さまの「恵み」を受けられるようになったからです。  その「神さま恵み」とは、神さまが、あなたがたのために、ひとり子を遣わし、その方の命と引き換えに、あなたの罪を引き取ってくださった、罪を赦してくださったということが知られるようになった。それが最大の恵みであり、最大の感謝だと言います。  私たちが、ほんとうに、感謝すべきことは、目先の利益や恩恵だけではありません。単に、衣食住にかかわることや、自分の健康にかかわることだけではありません。  今、わたしたちが、ほんとうに、感謝しなければならないことは、何でしょうか。     「感謝と賛美の祭り」をささげましょう。 〔2017年12月3日  降臨節第1主日(B年)  京都聖ステパノ教会〕