聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
2017年12月10日
ペトロの手紙二 3章8節〜15節a、18節
降臨節第2主日を迎えました。「降臨節(アドベント)」のテーマは、「主の日」を待ち臨め、その日は近い、だから、「目を覚ましていなさい」ということです。このことがくり返し述べられています。
そして、終末、再臨、審きの時を待ちなさいと言います。
今、読んで頂いた今日の使徒書、「ペトロの第二の手紙」でも、そのことが強調されています。
新約聖書の目次の22番目、「ペトロの第二の手紙」は、誰が書いたのかほんとうの著者はわかりません。この手紙の一章一節には、「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン(シモン)・ペトロから」という言葉で書き出されていて、イエスさまの12人の弟子たちの一人、ペトロが書いたとなっていますが、実はペトロの名を借りた全く別の人が書いたものだと言わています。また、「ペトロの第一の手紙」の続きのように書かれていますが、中味の思想がまったく違っていますし、書かれた年代も一致しないことが分かっています。
この手紙の内容から見て、西暦100年から120年頃に書かれたもので、ペトロが、殉教死した後で書かれたこともわかっています。
福音書やその他の手紙などでも、「主の日は近い」「その日、その時は突然やってくる」、「その時には偽預言者が現れる」などと言われています。
マルコ福音書の13章5節以下には、「その時には、人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」イエスさまは、世の終わりのことを、このように預言しておらます。
そして、人々はその時は今か今かと緊張して待っているのですが、なかなかその時は来ない。
初代教会では、そのような緊張感の中で、世の終わりと共にやってくると信じ、ほんとうの救いというものを待ち望んでいました。
しかし、日が経つにつれ、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」などと、言い出す者たちが現れました。(�競撻肇蹌�:4)
これに対する反論が、今日の使徒書、ペトロの第二手紙3章8節〜13節に述べられてるところです。
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
このように述べた上で、「主の日は、盗人のように、(突然)やって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。」と、恐ろしいことを予言しています。
このような現象は、2千年昔の人たちだけの予言ではありません。私たちは、専門家ではありませんが、現在知り得る科学的な知識や、世界の政治や経済や自然界に起こっている出来事や情勢を見ても、地球の未来、世界の未来に不安や恐れ、不吉な傾向を感じさせられるようなことがたくさんあります。急激な人口の変動、化石燃料供給の限界、気候の不安定化(地球温暖化)、地下水の枯渇にともなう生態系の損傷、国家間の関係の破綻、等々、さまざまな不安要素が報じられています。
聖書に予告されているような現象が、私たちが住む地球上に押し寄せ、「主の日」を想い起こさせるような「時」が、いつか来るのではないかと思わせられます。
ペトロの手紙の筆者は言います。
「このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは、聖なる信心深い生活を送らなければなりません。わたしたちは、神の日の来るのを待ち望み、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」
「聖なる信心深い生活」とは、どのような生活でしょうか。
すべての人は、皆、それぞれ、幸福な生活を送ることを望んでいます。「幸福な生活」とは、具体的にはどういうことでしょうか。若い人も、年寄りも、誰でもみんな、安心して生きていけること、自信をもって生きること、そして、自由にのびのびと生きていきたいと願っています。
誰でも、より大きな安心を持つために、自信を持って生きるために、もっともっと自由な生活ができるように、努力しているのですが、現在の私たちが住んでいる社会では、これらのものを手に入れるための方法は、すべてお金によって、お金さえあれば得られると考えられているような気がします。
お金があれば、安心が手に入る、お金があれば自信が持てる、お金さえあれば何でも選ぶことができ、自由に生きることが出来ると思っている私たちに、それだけではない、目に見えないところにあるほんとうの安心、ほんとうの自信、ほんとうの自由があることを、今こそ、知らなければならないのではないでしょうか。
ほんとうの「安心」はどこにあるでしょうか。それは、イエス・キリストにあります。イエス・キリストにすべてをゆだね、すべてを任せきった時にこそ、ほんとうの安心があります。生きていることも、死んでからのことも、すべてを支配される神さまにゆだねきる安心があれば何も恐いものはありません。
ほんとうの「自信」はどこにあるでしょうか。それは、イエス・キリストにあります。神さまが私たちの後ろについていてくださる。全知全能であって、そして愛に満たされた方が、私たちの後ろについていて下さいます。
ほんとうの「自由」はどこにあるでしょうか。私たちは、イエス・キリストによって、この世のすべてのものから解放され、罪の縄目から解き放たれています。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)
イエス・キリストは、真理です。イエス・キリストこそが私たちを自由にします。
パウロは、牢獄の中からフィリピの教会の人々に手紙を書いています。
「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(フィリピ2:17〜18)
パウロは、この手紙を牢獄の中で書き、牢獄の中からフィリピの教会におくりました。囚われの身でありながら、もっとも不自由な中から、「わたしは喜んでいます」「喜びなさい」とくり返し述べています。
このような心境になることができる「自由」というものがあるのです。
降臨節には、「目を覚ましていなさい」という聖書の言葉の耳を傾ける時です。それは、「心の眼を開きなさい」という意味です。さらに言いかえれば、「イエスさまから目を離すな」という意味です。緊張をもって降臨節を送り、主のご生誕を迎える心の準備をしましょう。
〔2017年12月10日 降臨節第2日(B年) 大津聖マリア教会〕