喜びと祈りと感謝

2017年12月17日
テサロニケの信徒への手紙一5章16節〜28節  降臨節(アドベント)も、第3主日を迎えました。  今日は、先ほど読んで頂きました使徒書、「テサロニケの信徒への手紙一」から、とくに、5章16節、17節、18節の、 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」という言葉からご一緒に学びたいと思います。  新約聖書のもくじの13番目の「テサロニケの信徒への手紙一」は、パウロが、テサロニケの教会の信徒に宛てて送った手紙です。  パウロは、クリスチャンになり、宣教者になってから、3回、地中海沿岸の街や地方を巡って、伝道旅行をしました。 その第2回目の旅行の時、それは西暦50年から53年だったと思われます。  パウロは、弟子のシラスとテモテを連れて、フィリピからテサロニケに入りました。  当時のテサロニケの街は、ローマ帝国マケドニア州の首都で、商業も盛んな港町でした。ギリシャの文化や宗教の影響を強く受けた街でしたが、そこには、移住してきたユダヤ人も大勢住んでいました。  使徒言行録17章1節以下に、  「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、3回の安息日にわたって、聖書を引用して論じ合い、『メシアは、必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と説き、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は、信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシャ人や、かなりの数の主だった婦人たちも同じように2人に従った。」と記されています。  このようにして、テサロニケの生まれたばかりの小さな教会は、育っていきました。  パウロは、しばらくテサロニケに滞在した後、ここを去って、伝道旅行を続け、次の都市、コリントかアテネに滞在中、追いかけるようにして届いた手紙で、テサロニケの教会の状況について報告を受け、折り返し手紙を書いたのが、この「テサロニケの信徒への手紙」です。はっきりした日付けはわかりませんが、西暦50年か51年頃に書かれたのではないかと推定されています。  さて、今日の使徒書は、その「テサロニケの信徒への手紙」の最後の部分で、手紙の「結び」の言葉です。  5章16節から18節に、このように述べています。  「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」  年配の方は覚えておられるかと思いますが、1960年頃(昭和35年)ごろに、流行った歌謡曲に「ありがたや節」という歌がありました。  浜口庫之助作詞、森一也作曲で、守谷 浩という若い歌手が歌っていました。    あーりがーたや、ありがたや。 あーりがーたや、ありがたや。    金が無ければ、くよくよします。    女に振られりゃあ、泣きまする。    腹が減ったら、おまんま(御飯)食べて    寿命尽きれば、あの世行き あーりがーたや、ありがたや あーりがーたや、ありがたや」 という歌詞でした。  また、田舎のおばあさんが、お坊さんのお経を聞いて、なんでも、かんでも、「ありがたや、ありがたや」と言っているのを聞いたことがあります。  パウロが、テサロニケの教会の信徒の人々に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と言っているのは、流行り言葉や口癖のように、なんでもかんでも「有り難い、有り難い」と唱えなさいと言っているのではありません。  「いつも」、「絶えず」、「どんなことにも」ということは、長い人生の中で、また毎日の信仰生活を送る中で、順調な時ばかりではありません。逆境の時もあります。  人生における苦難、挫折、絶望といった、マイナスと思われるような時にこそ、クリスチャンは、このような生き方をしなさいといいます。  「そのような時にこそ喜ぶことができる」、「そんな時にこそ祈りなさい」、どんなことにも感謝しなさい」と、パウロは、勧めます。  そうすれば、必ずマイナスは克服されてプラスになる、これこそが、神さまのみ心、ご意志であると言います。  常日頃、毎日の生活の中で、私たちは、どんな時に喜び、どんな時にお祈りをし、どんな時に感謝しているでしょうか。  予想していない時、思わない時、自分が期待していること以上の良いことが起こった時、驚いて飛び上がるほど嬉しいことが起こったとき、特別に自分の得になるような、利益になるようなことに直面したとき、などなど、自分の損得や満足度が中心であって、そこから、喜びや祈りや感謝の気持ちが起こってきます。  反対に、自分の不利益、自分の不愉快、自分が無視されるようなことが怒ると、当然、悲しんだり、落ち込んだり、怒ったり、また、神さまに向かって、不平や不満をぶっつけたりします。そんな時には、とうてい、喜んだり、祈ったり、感謝したりできるものではありません。その時は、あくまでも、自分中心の物差し、すべての基準が、自分中心で、測られているのではないでしょうか。  私たちは、「神さまのお恵み」という言葉をよく口にします。その時の「お恵み」は、やはり、自分に都合が良いことが起こった時、得をした時、自分の思いが通った時、それを、「神さまのからのお恵み」と思っているのではないでしょうか。  祈祷書の139頁、「諸祈祷」の次に、「感謝」の祈りという頁があります。その最初に「一般」というお祈りがあって、次のように「一同で唱えなさい」と定められています。  「全能の神、慈悲の父よ、わたしたちに、豊かな恵みを与えてくださることを感謝いたします。主はわたしたちを造り、わたしたちを守り、この世のものを与え、ことに主イエス・キリストにより世を贖って限りない愛を現し、恵みを受ける方法を示し、後の世の栄光の望みを抱かせてくださいました。どうかこのもろもろの恵みに深く感じ、ただ言葉だけでなく、自らを献げて主に仕え、生涯清い行いによって、主の栄光を現すことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。」  感謝のお祈りとは、このように祈りなさいと、伝統的なお祈りの言葉が示されています。  ここで、神さまの豊かな恵みとは、神さまが、わたしたちをこの世に生まれさせ、存在させ、わたしたちを守ってくださっていること、わたしたちが生きていくために必要なものを与えてくださいました。そして、さらに神さまのみ子、イエスさまを、この世に遣わし、わたしたちに代わって、わたしたちの罪を償うために、十字架にかけ、命を与えてくださいました。そのことによって、わたしたちに神さまの愛をあらわしてくださいました。これらのことこそが、あなたによって与えられた大きな大きな恵みです。さらに、その恵みを「受ける方法」を示してくださいました。さらに将来において栄光を受ける希望も与えてくださいました。  このすべてのことが、神さまからわたしたちに与えられた「恵み」です。その「特別の恵み」を受けていることを、それが受けられることを感謝しています。だから、いつも喜びなさい、絶えず祈りなさい、つねに感謝しなさいと、パウロは勧めます。  わたしたちは、ともすると、目先の、小さな、自分の損得にかかわる事柄だけを思いだして喜び、神さまに感謝のお祈りをしていますが、本当に感謝しなければならない、最もだいじな中心を外していないか、ふりかえってみなければなりません。  「喜び」と「祈り」と「感謝」は、イエス・キリストを通して示された「神さまの救いの働き」に対する、わたしたちからの応答です。  「喜び」と「祈り」と「感謝」は、わたしたちの信仰生活、日々の行動の原動力です。  「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神さまが、わたしたちに望んでおられることです。」  まもなく、主のご生誕を祝う日を迎えます。  神さまの恵みに感謝するという、最も大切なことから、心のピントがずれないように、祈りながら、喜びの時、クリスマス迎えましょう。 〔2017年12月17日 降臨節第3主日(B) 聖光教会〕