言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
2017年12月24日
ヨハネによる福音書1章1節〜14節
クリスマスおめでとうございます。
神が、私たちに、神の御子、神の独り子をお与えくださり、私たちは、この方によって、神の愛を知り、また私たちが互いに愛し合うことができるようにして下さいました。
神が、私たち一人ひとりに、あふれるばかりの恵みと真理と愛を与えて下さったことを、心から感謝し、神に賛美をささげましょう。
皆さんは、よくご存じのことですが、私たちが持つ新約聖書には、4つの福音書があります。イエス・キリストの生涯と言いますか、その宣教の働きと教えについて書かれています。イエスさまの伝記と言いたいのですが、時間の経過や、場所の特定も、必ずしも歴史的な事実として正確なものとは言えません。「イエス・キリストという方はどのような方であったか」ということを、初代教会の信仰の目でとらえ、書き記したものと言うことができます。
この4つの福音書のうちで、マルコによる福音書が、いちばん最初に書かれた福音書であると言われますが、ここには、イエスさまの誕生については、何も記されていません。一言も触れられていません。
その次の時代に書かれた、マタイによる福音書と、ルカによる福音書には、それぞれにクリスマス物語が記されています。
マタイもルカも、マリアは聖霊によって身ごもったとありますし、ベツレヘムの馬小屋で、男の子がお生まれになったと、はっきりと記されています。
さらに、マタイには東の方から占星術の博士たちが、はるばる星に導かれてベツレヘムに来て、馬小屋のイエスを礼拝して帰って行ったという物語があります。
ルカの福音書には、ザカリアとエリサベツの話があり、荒野で野宿していた羊飼いのところに天使が現れ、主イエスの誕生を知らせ、彼らもすぐに主イエスを拝みに来たという物語が記されています。
ところが、西暦100年頃、主イエスが亡くなって70年ぐらい経って、いちばん後に書かれたと言われるヨハネによる福音書には、具体的な主イエスの誕生物語は記されていません。
抽象的な表現の仕方で、キリストがこの世に来たということを書き記しています。
もうすでに、その時には、キリスト教は、ギリシャ文化を持つ人たちのところに広まり、いわゆるギリシャ哲学や文化の影響を受けた人々にも、理解できるように編集され、このような形で書かれたものであると言われています。
そこで、今読みました今日の福音書ですが、この「ヨハネによる福音書」の冒頭の部分が、クリスマスの当日には、毎年、読まれます。マタイやルカの福音書にあるような物語はありませんが、神の子キリストがこの世に来られたということの深い「意味」を私たちに伝えようとしています。
ヨハネの1章1節から5節に、次のように記されています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
ヨハネは、このような書き出しの言葉で、イエスと呼ばれる方が、どのようにしてこの世に姿を現わされたかということについて説明しようとしています。
旧約聖書のいちばん最初の書、創世記の最初は、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」という言葉で始まります。
神が天地を創造された様子を、このように描いています。真っ暗闇で混沌とした状態、何の秩序もない闇の深い淵の状態に向かって神は「光あれ」と言われました。神のこの言葉によって、宇宙の創造が始まったというのです。光ができて、光と闇が分けられ、昼と夜が出来たとあります。この「光あれ」こそ、神の言だったのです。
私たち人間も、言葉を使います。人間が他の動物と違うところは、言葉を持っているからだと言われます。言葉は、私たちの意志や考えを伝える道具ですが、私たちは言葉で、ものを考え、言葉で自分の思いをあらわすことができますので、言葉は、私たちの意志、思い、心、そのものです。そして、言葉を交わすことによって、私たちは、特別の人間関係を保ちます。 神が、「光あれ」と言われ、言葉を発することは、神の意志が示され、神の考え、神のみ心が現されたということです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という言は、神が「光あれ」と言われ、それによって、天地が創造されました。その言葉と同じ言葉によって、ひとりの男の子が生まれたのです。
すべてのものが神によって創り出される前から、神の意志があり、神のみ心がありました。すべてのものが、この神の言によって創造され、存在させられたのです。
神の言は、神の意志、神の考え、神のみ心そのものであり、神の言は、神そのものなのです。
さらに、ヨハネによる福音書1章14節には、
「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。神の意志であり、神の思いであり、神のみ心である言が、肉体となった。この肉体とは、私たちが持つ肉体と同じ肉体です。
目に見えない神、神の意志、神のみ心は、私たちと同じ肉体を取って、私たちの地球上に、私たちが住む同じこの地上に、私たちが織りなす人間の歴史の中に、見える姿を取って来られたのです。そして、私たちの間に宿られたのです。
このようなことは、人類が始まって以来、始めてのことであって、この出来事によって、神を見た人と、神を見たことがない人にはっきりと分かれることになりました。
福音記者ヨハネが受け取った主イエスの誕生の出来事は、このように「言」という言葉で表現されました。
言は神である。イエス・キリストは、肉体となった言である。ゆえにイエス・キリストは神である。このような三段論法で、主イエスとは、どのような方なのかをあらわしています。
ギリシャ人には、旧約聖書の知識の下地がありません。彼らにはメシヤ、キリストを待ち望む思想や信仰もありませんでした。ユダヤ人が大事にした、イスラエルの歴史や預言者の言葉に基づいた主イエス誕生の物語よりも、このように理性に訴える方法がとられたのでした。
さらに、10節〜13節に、次のように述べます。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。」
この世は、すなわちあらゆる被造物、私たち人間も含めてすべてのものは、神によって創造され、存在させられているのですが、被造物とくに多くの人間は、神の言であるイエス・キリストを認めませんでした。
神の言は、肉体を取って、まず、神が選ばれたイスラエルの民のところへ来たのですが、この民は、この肉体となった神、イエス・キリストを、受け入れようとはしませんでした。
それどことか、彼を捕らえ、鞭打ち、侮辱を加え、最後には十字架につけて殺してしまいました。
しかし、人々の中には、この肉体を取った「神の言」であるイエス・キリストを受け入れた人たちもいました。
しかし、この「肉体を取った言であるイエス・キリスト」は、ご自分を、ご自分の名を信じた人々には、神の子となる資格をお与えになりました。イエス・キリストを受け入れた人々に、神の子となる資格が与えられたのは、生まれや血筋や、人間の努力や欲望や意欲によって与えられたのではなく、神によって生まれかわったのです。
神さまに出会う、神さまを知る、神さまを受け入れるための条件は、単純に、生まれや血統や学識や教養や財産の有無によるものではありません。それは神さまの側から与えられるもので、目に見えない霊によって、押し出され、神さまのご意志によって生まれたから、神の子となる資格が与えられたのです。
私ごとを言って申し訳ないのですが、私は、20歳の時に洗礼を受けました。小さい時には、近所にキリスト教の教会の教会があって、日曜学校に行っていた記憶もあるのですが、長続きしませんでした。高校生の時に、公立の高校だったのですが、ギデオン協会の無料で配布される聖書がもらえるというので、友だちについて行ったことがありました。日本語と英語が半分ずつ印刷された聖書が欲しくて、ついていっただけでした。
その帰り道、私を誘ってくれたその友だちが、片山君というのですが、熱く神のことを語ってくれました。しかし、そんな神など信じるヤツ、頭がおかしいのではないかと、そいつの顔をじっと見つめたことを覚えています。
アルバイトのために、教会の掃除を頼まれて、はじめて教会の門をくぐりました。クリスマスに誘われ、青年会の集いやハイキングに誘われ、牧師と話す機会もありました。
いつも、神などいない。神は人間が造りだした幻想だ。観念にすぎないなどと言い、反対するために教会に通っていました。
しかし、今、80歳を過ぎ、自分の人生を振り返ってみますと、不思議なことに、このように、神さまのことについて、多くの人々の前で語り、証しする側に立っているのです。
私が、神さまを、捕らえたわけではありません。
私が、神さまのことを、100パーセント理解したからでもありません。
よく考えてみますと、いつの間にか、私が神さまによって捕らえられ、引き寄せられたような気がします。目に見えない手が、指が、私の首筋をつかんで、引き寄せられたような気がします。自分の意志や努力によって、ではなく、神によって生まれた、生まれさせられた自分が、今ここにいることを感じます。そして、感謝せずにはいられません。
私たちは、生まれたままでは、持っていないもの、肉体を取った神の言であるイエス・キリストを受け入れ、その名を信じることを言い表して、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊によって洗礼を受け、神の子とされたのです。
そして、私たちは、私たちの群れ、教会のメンバーの一員として迎えられ、神さまを信じることの喜びを共有することができるようになったのです。
私たち、一人一人に、神のみ子を顕し、その方によって、神の愛を知り、生きる喜びが与えられていますことを、今、改めて、心から感謝し、賛美の声を上げたいと思います。
「今日、言は肉となって、わたしたちの間に宿られました。」
2017年12月24日 クリスマス総員礼拝 於・田辺聖公会