「アッバ、父よ」
2017年12月31日
ガラテヤの信徒への手紙4章4節ー7節
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。(ガラテヤの信徒への手紙4:4ー7)
私たちは何のために生きているのでしょうか。
人生の目的とは何でしょうか。
この年末の忙しい時に、いったい何を言いだすのかとお思いでしょうが、年末とか、新年を迎えてとか、暦の区切り目には、一年を振り返り、生きてきた道をふり返り、そして新しい年を迎えるにあたって、抱負を語り合ったりします。
人生には、ひと口で言えるような決められた目的はありません。しかし、目的のない人生は、さびしいものです。さびしいだけでなく空しいものです。
むなしい人生は、何か大きな困難、問題にぶつかったときには、弱くて続かないものです。
人生の目的は、「自分の人生の目的を探すことにある」と言った人がいます。自分一人だけの目的、世界中の誰とも違う、自分だけの「生きる意味」を見出すことですが、なかなか、それは難しく、容易に出来ることではありません。
別の言い方をすれば、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言えるのではないでしょうか。私たちは、自分の生きる目的を見いだせなくっても、それでもそれを求めて、生き続けなければなりません。
ひょっとすると、確実に見つかるのは「目的」ではなく、「目標」にすぎないということもあります。たとえば、大学受験、就職、結婚、子育てなどです。
目標は、達成すれば終わります。その後には、自分は達成したという満足感が残るだけです。そして、その満足感も、時間とともに薄れ、そして、やがては単なる記憶に変色してしまいます。しかし、目的は、色あせることがない、失われることもないものだと思います。そこにちがいがあります。
人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのではないでしょうか。
それが嫌だと思うなら、自分だけの人生の目的をつくりだすことです。それは、一つの「物語」をつくり出すことです。自分で物語をつくり、それを信じて生きるという方法です。
しかし、それは、なかなか難しいことです。誰にでも出来るものではありません。そこで自分でつくった物語ではなく、過去ににおいて、歴史上に、誰かが生きた生き方、誰かが提唱した生き方、その人たちが生きた物語を「信じる」という方法、道があります。
たとえば、<悟る>という物語。<来世>という物語。<天国や浄土>という物語。<再生>とか、<輪廻>とか、<復活>という物語。等々。それぞれ、人間の歴史の中で表された偉大な物語です。
キリスト教で言いますと、創造物語、族長物語、アブラハム物語、出エジプト物語、律法と預言者物語、イエスの誕生物語、奇跡物語、受難物語、復活物語、使徒物語、など、
これらの物語を信じ、これらの物語を自分の物語とすることです。
人が全身全霊をもって信じた「物語」は、真実となります。その人がつかんだ真実は、誰も動かすことはできません。
誰もこれを奪うことはできませんし、失われることもありません。
しかし、自分以外の人がつくった物語を、本当に、それを信じるためには、そのつくった人、その物語の中心となった人を尊敬できなければなりません。共感し、愛さなくては、信じられません。
よく言われることですが、信仰や宗教は、教義(理屈や理論)から始まるのではなく、その偉大な物語をつくり、それを信じて、生きた人への共感と尊敬と愛から始まるのです。そのことを、仏教用語では、「帰依する」と言います。「ナムアミダブツ」の「ナーム」「ナモー」は、帰依しますという言葉です。それは「信じます」であり、「尊敬します」であり「愛します」でもあります。「ナームー」は、元は、『ナマス』または『ナモー』というサンスクリット語の音写で、『帰依する』『帰命する』といった意味だと言われています。ですから『全面的にすべてをお委せいたします』という意味です。
信仰や宗教を目的として生きるということは、誰かと、心から共感でき、心から尊敬でき、心から愛することができる人に出会って、その方に、素直に、忠実について行く、というのが「信仰」であり、「宗教」だということができます。それは、良き人との偶然の出会いから始まり、「帰依すること」であり、「慕わしく思うこと」であり、「愛すること」だと、言うことができます。
たとえ100冊の本を読んでも、書物から入った信仰は続きません。人から伝わった信仰、人から入った信仰だけが、変わらない人生の目的となります。信仰も宗教も、結局は人から人へ、肉声と体温をもってしか伝わらないものだと、私は実感します。
私たちは、イエス・キリストという方に出会い、この方が指し示した物語を、この方が生きた愛の物語を、自分の物語とし、その物語に生きようとしているのです。それは、私たちが、仏教用語で言えば、イエスさまに「帰依し」、この方に寄りすがり、この方を信じ、この方を愛して生きるということです。
ここで、一人のカトリック教会の修道士だった方で、井上洋治という神父さんのことを紹介します。この方は、東京大学の文学部哲学科を出られて、1950年にフランスに渡り、カルメル会という修道会に入られ、修道のかたわら、リヨン大学、リール大学で学ばれ、1960年に、カトリック教会の司祭になられました。その後、日本で、さまざまな宣教活動、教育活動をし、たくさんの著作を残されました。2014年(平成
26年)3月、3年前に、87歳で亡くなられました。
この井上洋治神父が、72歳の時から、唱え始めたのが、「南無 アッバ」という言葉でした。「南無」とは、先ほど言いました「南無阿弥陀仏」の「南無」です。「ナマス」とか「ナモー」というサンスクリット語から伝えられた言葉で、『帰依する』といった意味の「ナム」です。それは『全身全霊をかけて、すべてを、あなたにお委せいたします』という意味の言葉です。
「アッバ」とは、イエスさまの時代に使われていた日常語、アラム語で、「お父ちゃん」、「パパ」という意味の幼児語です。新約聖書に3回使われています。
一つは、マルコによる福音書の14章36節に、イエスさまが、ゲッセマネで祈っておられた時、このように祈られました。「アッバ、父よ、あなたは、何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。この時に、イエスさまは、「お父ちゃん」という幼児語で呼びかけておられます。
二つ目の個所は、ローマの信徒への手紙の中で、8章15節に、パウロは、このように書いています。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として、再び『恐れ』に陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが、神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし、子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(14節〜17節)
そして、三つ目の個所は、先ほど読んで頂きました、今日の使徒書です。
ガラテヤの信徒への手紙4章6節にあります。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(4ノ4〜7)
井上洋治神父は、死にいたる最後まで、「南無 アッバ」を唱え続け、カトリックの教会の追悼式では、「南無アッバ・ミサ」が行われたと記されています。
「ナムー」すなわち、日本語の「帰依する」は、英語では「embrace」という言葉で、「抱きしめる」、「抱擁する」、「まとわりつく」という意味です。
私たちが、信仰を告白して、洗礼を受け、クリスチャンになったということは、時が満ちて、神の子イエスさまが、母マリアさんから生まれ、この世に来られて、律法の支配下にあり、罪の中にある私たちを救い出して、「神の子」とされ、神さまに向かって「お父さん、お父ちゃん」と呼ぶ資格を、「アッバ、父よ」と呼ぶ資格を与えてくださったのだと、パウロは言います。
それは、言いかえれば、小さい子どもがお父さんにまつわりつくように、私たちも神さまにまとわりつき、すべてをゆだねてよいのだと言っています。
私たちは、私たちと神さまとの関係について、このような物語を共有することができ、それができる恵みに、心から感謝したいと思います。
私たちも、神さまに向かって「お父ちゃん」と言って抱きつくことがゆるされているということから、私は、イエスさまの「ストーカー」になりましょうと、言い続けているのですが、誰も耳を傾けてくれません。
ちなみに、日本には「ストーカー行為等の規制等に関する法律」(平成12年5月施行)という法律があるのですが、その第2条に、ストーカーの定義が規定されていまして、そこには、「つきまとい、待ち伏せし、押し掛け、うろつくこと、など」と書かれています。相手が、女性だったり、男性だったりすると、この法律で罰せられますが、イエスさまは、迷惑がったり、怒ったり、訴えたりなさらないと思いますので、誰が何といおうと、「イエスさまのストーカー」を続けたいと思っています。
来年は、誰よりも熱心な「イエスさまのストーカー」になりましょう。
〔2017年12月31日 降誕後第1主日(B年) 京都聖マリア教会〕