神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
2018年01月07日
使徒言行録10章34節〜38節
そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
新しい年を迎え、新たな思いで、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができる信仰生活を送りたいと思います。
教会の暦では、今日の主日は、「顕現後第1主日」および「主イエス洗礼の日」という2つの意味を持っています。
昨日、1月6日は、主イエスさまがお生まれになって12日目、「顕現日」(エピファニー)と呼ばれる日でした。
1月6日の顕現日には、星に導かれた東方の占星術の博士たちが、はるばるベツレヘムまで来て、馬小屋の飼い葉桶に寝かされている幼な子イエスさまに会い、ひれ伏して拝み、いろいろな宝物をお献げして帰ったという記事、マタイによる福音書2章1節から12節が読まれます。
何千年も昔から、ユダヤの人々は、自分たちこそ神さまによって選ばれた民族、自分たちだけが救われて当然、他の民族、異邦人は滅びて同然だと言い張り、他の民族や他国人を差別してきました。ところが、遠い他国の占星術の博士たちに「ユダヤ人の王」「救い主」がお生まれになったというグッド・ニュース、ビッグ・ニュースが、誰よりも早く、一番先に、異邦人である博士たちに知らされという物語です。
今日の福音書では、イエスさまが、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったという出来事が記されていました。
「顕現」とは、「はっきりと現れること」、「明らかにあらわし示す」という意味です。顕現日とは、神さまの救いが、民族の垣根を越えて、世界中の人々にもたらされた、ということを意味します。
そのようなことを頭に置きながら、今年は、主に使徒書として定められている聖書の個所から、ご一緒に学びたいと思います。
本日の使徒書、使徒言行録10章34節から38節ですが、この聖書の個所の背景について、少しお話したいと思います。
エルサレムから60キロほど北へ行った所、サマリア地方の地中海に面した港町で、カイサリアという街がありました。かつてユダヤのヘロデ王が改修工事を行い、交通や貿易の拠点となる、パレスチナ地方で最も大きな港でした。現在のハイファと言われる街です。イスラエルがローマ帝国の属国になって以来、そこには早くからローマ軍が駐在していました。そこに駐留軍の百人隊の隊長に、コルネリウスという人がいて、この人は、イタリア人でしたけれども、当時のユダヤ教の神への信仰心が篤く、一家そろって神を畏れ、貧しい人々に多くの施しをし、絶えず祈っていました。(使徒言行録10:1〜)
一方、イエスさまが亡くなった後、復活したイエスさまは、たびたび弟子たちの所に現れ、ユダヤ人の迫害が厳しくなる中、弟子たちに「地の果てまで、福音を宣べ伝えよ」という命令じました。聖霊を受け生まれ変わった使徒たちは、各地に出かけ、伝道活動を始めました。
12弟子の一人ペトロも、あちこちの町や村へ出かけて、イエスさまのことを証しして歩いたのですが、あるとき、ヤッファという港町に滞在している時に、不思議な幻を見、天からの神の声を聞きました。(使徒行伝10:9〜16)
不思議な夢を見たものだと考え込んでいるとき、カイサリアの百人隊の隊長コルネリウスから送られた3人の使いがやって来て、コルネリウスがあなたに来て欲しいと言っていると伝えました。ペトロは、一緒にヤッファに向かいました。
ペトロとコルネリウスが出会った場面(使徒言行録10:〜33)を読みます。
「次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは、親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。『お立ちください。わたしもただの人間です。』そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。『あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。
それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。』
すると、コルネリウスが言った。「4日前の今ごろのことです。わたしが家で午後3時の祈りをしていますと、輝く服を着た人が、わたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。』それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
このような状況の中で、ペトロが語り始めました。それが今日の使徒書の内容、「そこで、ペトロは、口を開きこう言った」と続きます。
その第一声は、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34、35節) と語りました。さらに、バプテスマのヨハネから始まり、ガリラヤで起こったこと、イエスさまが数々の奇跡を行い、病気を癒やし、悪霊に取り憑かれている人を解放し、父である神さまのことを語り、教え、さらにエルサレムで起こったこと、捕らえられて、裁判に引き回され、苦しみを受け、十字架につけられ、3日目によみがえったこと、そして、弟子たちの所に、たびたび現れたことなどを、語りました。
ペトロが、これらのことを、なおも延々と語り続けていると、そのみ言葉を聞いている人たち一同の上に聖霊が降ったと記されています。(44節)
そこに居た、すでに、割礼を受けてユダヤ教の信徒になっている人たちも、ペトロと一緒に来た人たちも、皆、聖霊が異邦人の上にも注がれ、異邦人が異言を語り、神を賛美しているのを見て、びっくりし、驚きました。
そこでペトロは言いました。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言い、そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、人々に言いました。(47節、48節)
このように、ペトロが、異邦人であるローマの兵士コルネリウスの一族を、イエス・キリストのところへ導いたという、回心物語から、異邦人への宣教の大きな意味を伝えようとしています。
この中から、2つのことを学びたいと思います。
第1は、使徒言行録10章34節、35節の言葉です。
「神は、人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」
私たちは、神さまに受け入れられることを、切に祈り願います。しかし、それは、人種や民族、生まれや血筋によって受け入れられるかどうか選り分けられるのではないということです。私たちにとって、信仰生活を続け、ほんとうの喜びに満ち、いつも心からほんとうの祈りが出来、いつも感謝にあふれていられる者になるためには、血筋や生まれではない、何代目のクリスチャンであることを誇ることでもありません。神さまは、そのようなことによって分け隔てなさるようなかたではありません。それよりも、大切なことは、どれほど神さまを畏れ、敬い、愛し、神さまに褒められるような正しいことを行っているか、その条件にどれほど適っているかにあるということです。
第2のことは、私たちが、キリスト教、イエスさまのことを知りたいと思う人に出会った時、何をどのように語るでしょうか。私たちは、日常の生活の中で、お友だちや、先生など、日頃お世話になっている人を紹介することがあります。または、誰かを、誰かに紹介する紹介状を書かなければならないことがあったとしますと、どのように話したり、書いたらよいのか考えるに違いありません。
同じように、私たちが愛するイエスさまについて、誰かに尋ねられたり、自分の方から紹介したいと思う時、私たちは、何を、どのように語り、イエスさまを紹介するでしょうか。一度、ご自分で、「イエスさまとは、このような方よ」「私は、イエスさまのどこが好きで、イエスさまを愛しているのか」、イエスさまを紹介する言葉や文章を、自分の言葉で書いてみてはどうでしょうか。
実際に、そのような場面がなくっても、私たちがイエスさまを、ほんとうに真剣に「証し」しようとする時、聖霊の賜物が、私たちの上にも、注がれることを体験することができるのではないかと思います。
今年の1年、ほんとうの喜びに満たされ、心から祈り、感謝にあふれて、過ごすことができますよう、祈りましょう。
〔2018年1月7日 顕現後第1主日(B年)・主イエス洗礼の日
於・東舞鶴聖パウロ教会〕