聖霊の住まいである体

2018年01月14日
コリントの信徒への手紙一6章19節〜20節   しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。  先ほど読んで頂いた使徒書から学びたいと思います。  パウロは、3回にわたって、地中海沿岸の国や街を巡って伝道旅行をし、福音を説いて周りました。第2回目の伝道旅行では、アテネからコリントに入りました。西暦50年ごろだったと言われます。その時には、約1年、コリントに滞在し、コリントに住むユダヤ人の会堂で、証しをし、メシヤはイエスであることを説きました。ユダヤ人を中心に多くの人が洗礼を受け、クリスチャンになりました。そこに、一つの教会が生まれました。その後、船でエフェソに渡り、さらに伝道旅行を続けました。  その後、この生まれたばかりのコリントの教会では、いろいろな問題が起こりました。パウロのところに、手紙や人伝えに、いろいろな情報が入り、教会の設立者としての責任から教会に起こっている問題について、一つ一つ丁寧に、返事を書き、教え、励ましています。  コリントの信徒への手紙は、その手紙の一つです。聖書の残されている手紙は「第一の手紙」と「第二の手紙」の2つですが、まだ他にもあったのではないかと言われています。 この手紙の中に記されている、パウロの回答から見ますと、ほんとうに様々な問題が起こっていたことがわかります。  今日の使徒書、6章11節から20節では、不品行な行動を取っても、クリスチャンは自由になったのだから、どんな律法や掟や道徳からも解放されているのだと主張する、コリントの教会の人々に、パウロは警告を与えます。  当時の教会では、ギリシャの文化や風潮の影響を受けたままで、洗礼をうけたユダヤ人やギリシャ人は、自分たちは主イエス・キリストの名によって洗礼を受け、聖霊によって洗われ、聖なる者、正しい者とされたのだから、何をしても自由なのだと、声高らかに言い張る人たちがいました。  「何をしようと、自由なのだから、わたしにはすべてのことが許されている」と言い、そのような生活をしている者たちに対して、パウロはきびしく戒めています。  神からの霊を受けたのだから、自分たちはあらゆる道徳的なルールの、上にいるのだと主張し、自分たちはどんなことにでも手を出すことができる、自分の体で不品行なことを行っても、それは自分たちとは関係がないと主張したのです。  このようなことを教会の中で言い回る人々に対して、パウロは厳しく攻撃します。  キリスト者が、この世のあらゆるものから自由であることは否定しません。しかし、彼らには、ほんとうの自由の意味がわかっていないと、言います。  当時のコリントの街は、風紀の悪い、享楽の都市であったと言われます。この街の南の丘には、女神アフロデイトの神殿という立派な神殿が立っていました。この神殿の周囲には、千人を越す女娼(売春婦)が居て、街の中にもその人たちが横行していたと言います。  売春婦と一緒になって身体を不品行に引き渡すことは、決して自由ではなく、奴隷状態に置くことなのだと、パウロは言います。  今日の使徒書には、「みだらな行い」という言葉が3回出てきます。「みだらな」とはどういう意味でしょうか。聖書が書かれたギリシャ語の聖書を調べてみました。「ポルネイア」という言葉で、英語の「ポルノグラフィー」という言葉で、日本でも、ポルノ写真とか、ポルノ雑誌、などの「ポルノ」という言葉の語源になっていることを知りました。  コリントの教会の人々のように、私たちは、そんなに「みだらな行い」はしていないと思うだけでなく、パウロがいう、19節以下の言葉を、しっかりと受けとめたいと思います。  「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で、神の栄光を現しなさい。」(19-20)  私たちは、自分の身体に気をつけています。  若い頃には、体力もあり、少々無理をしても平気だった時がありました。年を取ってくると、その身体が自分の思うようには動かなくなり、あちこちに故障が出てきます。  しかし、元気な時も、病気の時も、弱った時も、自分の身体について思い、また、いろいろ話をする時にも、パウロが、今、私たちに語りかけるような発想を持ったことはあるでしょうか。  「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で、神の栄光を現しなさい。」  この言葉をご自分にあてはめて、自分に向かって語られていると思って聞いてみて下さい。  あなたの体は、神さまからいただいた聖霊が宿って下さる神殿です。神殿とは、「神が住まいする所」という意味です。神さまは目に見えません。しかし、霊となって、私たちの内に宿って下さるというのです。私たちが、父と子と聖霊のみ名によって洗礼が授けられた時、私たち一人ひとりの上に、聖霊がくだり、私たちの体を満たして下さったのです。その時、私たちの心も体も、イエスさまの贖い代、イエスさまの命と引き換えに、イエスさまの命を代価として支払われ、罪の鎖から解き放たれました。自由が与えられたのです。  そのようなあなたの体ですから、自分の身体、自分のためではなく、あなたの体を使って、神さまの栄光をあらわしなさいと、パウロは、私たちにすすめます。  私たちの行動、働き、一挙手一投足を通して、周りの人々が、神さまを誉め、神さまを賛美し、神さまに感謝を献げるような生き方をしなさいと言います。   私が、若い頃、大阪教区のある教会の牧師をしている時でした。教会のすぐ近くに住む信徒の奥さんが、脳溢血で倒れ、自宅で寝ていました。ご主人は先に亡くなり、息子さんと二人のお嬢さんが看護していました。  その奥さんは、話はできるのですが、寝たきりになり、手足は自分で動かすことはできませせん。  あるとき、私が訪ねていき、ベッドの横に座って、話をしていたのですが、もう、話すこともなくなった時、その婦人が、私に言いました。 「わたしは、もう何もできません。こんなんだったら、もう早く死んだほうがいいと思います。神さまに早く死なして下さるようにお祈りして下さい」と。  若かった私は、何と返事をしてよいのか分かりません。たしかに、その婦人は、寝たっきり手も足も動かない、ただ、窓の上の方に空が見えるだけでした。そちらの方向に教会があります。私は、咄嗟にいいました。  「お願いがあります。あちらの方を見ながら、お祈りして頂けないでしょうか。教会の皆さんは、お祈りしなければと思いながら、毎日、忙しくてお祈りできていません。だから、教会の礼拝のため、教会のいろいろな働きのため、そして、婦人の人たちのため、壮年の人たちのため、青年たちのため、日曜学校の子どもたちのため、ひとり一人の顔を思いだしながら、お祈りしてあげて頂けませんでしょうか。そして、牧師のため、私の働きのためにも、お祈りして頂きますようお願いします。あなたのお祈りがなければ、私たちは何もできません。」と言いました。しばらく、考えておられたその婦人は、ほほえみながら言いました。  「わかりました。わたしには、時間がいっぱいありますから」と言ってくれました。  その後、その奥さんの所に、毎日のように通ったのですが、「私にも仕事ができました」と言って、少し元気を取り戻されました。  その婦人が亡くなった後、お葬式の説教の中で、みんなの知らない所で、意識がなくなるまで、いつもお祈りして下さっていた婦人がおられたことを、教会のメンバーに、話しました。そして、みんなで、涙を流しながら、聖歌を歌い、まさに神の栄光をたたえました。  私たちは、どのような状況にあっても、私たちの体をつかって、思いや、心を用いて、神さまの栄光をあらわす生き方をしたいと思います。 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で、神の栄光を現しなさい。」 〔2017年1月14日  顕現後第2主日(B年)  大津聖マリア教会〕