主が定めた生き方
2018年01月21日
コリントの信徒への手紙一 7章17節〜24節
17:おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。18:割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。19:割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。20:おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。21:召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。22:というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。23:あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。24:兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。
パウロは、3回の伝道旅行をしました。
第2回目の伝道旅行では、アテネからコリントに足を伸ばし、コリントの教会に約1年半滞在して、コリントの教会の設立に力を尽くしました。
パウロが、次の伝道地に旅を続けている間に、生まれたばかりの教会であるコリントの教会から、手紙が届き、コリントの教会で起こっている問題について、様々な情報が入ってきました。パウロは、その一つ一つの問題について、指導し、教えるために手紙を書きました。その手紙が、今、私たちの手元にある「コリントの信徒への第一の手紙」であり、「コリントの信徒への第二の手紙」です。
この手紙から、コリントの教会の問題を垣間見ることができるのですが、今日の使徒書、コリントの信徒への手紙一7章17節から24節には、2つの問題が記されています。
その一つは、「割礼を受けているかいないかの問題」(18節〜20節)です。さらに、もう一つは、「奴隷の身分にある者に対する信仰者の態度の問題」(21節〜24節)です。
最初の「割礼を受けているかいないかの問題」ついて考えてみたいと思います。「割礼」とは、ユダヤ民族において、長年守ってきた一つの宗教儀式です。
創世記17章に、神さまは、イスラエル民族の族長であるアブラハムとの間に、民族繁栄のの約束、契約を立て、このように言いました。
「わたしは全能の神である。あなたは、わたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間に、わたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
この神さまのとの契約とは、このようなものでした。
「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫も、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから8日目に割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」
これが、割礼の儀式の起源であり、ユダヤ教では、何千年も経った今もなお続いている儀式です。
モーセの掟の中でも、このように規定されていました。出エジプト記12章43節以下に、過越祭の掟が記されています。 「外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる。‥‥‥イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない。もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後に、それを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない。この規定はその土地に生まれた者にも、あなたたちの間に寄留している寄留者にも、同じように適用される。」(出エジプト12:43〜48)
このように、ユダヤ人の間で、もっともだいじな過越の祭りのご馳走も、割礼を受けていない者は食べてはいけないと規定されていました。
このようにして、ユダヤ人の間では、この割礼の儀式を受けているかどうかということは重要な問題でした。
パウロは、コリントに住むユダヤ人の会堂を中心にして、福音を宣べ、伝道活動をしていましたから、ユダヤ人のクリスチャンが大勢生まれました。ユダヤ人の習慣として、クリスチャンになっても割礼は必要なのか、ユダヤ教徒ではなくクリスチャンになったのだから、割礼など要らないのだ、ギリシャ人がクリスチャンになるためには、やはり割礼の儀式を受けなければならないかなど、生まれたばかりのコリントの教会の中で、意見が分かれ、喧々諤々議論が絶えなかったのだと思われます。
これに対して、パウロは、言いました。
「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。」(18節〜20節) イエスさまを信じる者は、イエスさまの十字架によって、罪から解放され、自由にされたのだと教えられ、自由を謳歌するギリシャ人の前で、かつてユダヤ教の割礼を受けた人たちが恥ずかしい思いをするなど、教会の中で混乱していることを知ったパウロは、割礼を受けているか受けていないかは問題ではない、大切なことは、神の掟を守ることです。過去の出来事や境遇に左右されることなく、今のありのままの状態や立場で信仰を保ちなさいと教えています。
さらに、もう一つの問題は、奴隷に対しての忠告です。
聖書の時代には、どこの国、どの社会にも奴隷制度がありました。奴隷とは、人間でありながら所有物とされることです。人間としての名誉も権利も自由も認められず、他人の所有物として扱われ、所有者の絶対の支配に服従し、労働を強制され、売買され、奴隷の子は奴隷として身分づけられていました。1948年(昭和23年)に、国連で「世界人権宣言」が採択され、各国で、公に奴隷制度を持つ国はなくなったといわれますが、終戦直後まで、まだ奴隷制度を持っている国がありました。
イエスさまも、パウロも、奴隷制度に反対する社会運動家ではありませんでした。奴隷制度があって当然の社会に住んでいました。
これが、コリントの教会に起こったもう一つの問題だったのです。パウロは言います。
「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。」(20節〜22節)
「召されたとき」とは、イエスさまに招かれてクリスチャンになった時という意味です。クリスチャンになった時、奴隷の身分であった人も、なんらかの理由で自由の身になった人でも、そのときの、そのままの姿でいなさい。身分が変わってもイエスさまに招かれてクリスチャンになったということでは、少しも変わらないのです。もし、奴隷の身分であっても、イエスさまによって、心の中は自由になっているのですから同じなのだと言います。反対に、奴隷ではない自由人であっても、イエスさまにとらえられ、クリスチャンになった者は、「キリストの奴隷」となったのだからと言います。
先の割礼を受けているかどうか、また、奴隷がクリスチャンになった時の問題、そのいずれについても、パウロは、
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」(17節)と言い、
「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」(24節)と繰り返します。
割礼の有無とか、奴隷の身分というと、難しく感じますが、例えば、私たち日本の国でも、かつては、士農工商というような身分制度があり、男女の差別があり、部落差別というような差別がありました。職業の選択や結婚にしても、人生のだいじな出来事の中で、身分差別で、苦しんだり、悲しんだりした人たちが大勢いました。そして、今なお、苦しんでいる人々がたくさんいます。
パウロは、割礼を受けることに固執しているわけでも、奴隷制度を肯定しているわけでもありません。
パウロが言おうとしていることは、教会の中で、イエスさまによって招かれ、召され、イエス・キリストによって生まれかわったのだから、イエス・キリストに従って、イエスさまと共に生きようとしているのだから、それぞれの過去や、生まれや、身分の違いは関係がない。だから、そのままの地位や身分や姿でいなさいと言います。
ご存じの方もおられると思うのですが、一昨年、2016年12月30日に、89歳で亡くなった渡辺和子さんという修道女(シスター)がおられました。
この方は、1927年に、北海道旭川で生まれました。1936年、小学校3年生の時、2・26事件という青年将校によるクーデター事件が起こりました。渡辺和子さんの父親は、渡辺錠太郎という方で、当時、陸軍の教育総監でした。武装した青年将校の襲撃を受け、9歳だった和子さんは咄嗟に机の下に隠れ、父が暗殺されるのを目の当たりにしたという経験を持った方でした。
1945年、18歳の時に、カトリック教会で洗礼を受けました。1956年、29歳でノートルダム修道女会に入会しました。日本の大学を出、海外留学をし、のちにノートルダム清心女子大学教授、さらに学長、理事長になり、教育界に大きな業績を残されました。沢山の著作があり、出版さていますが、2012年に発売された「置かれた場所で咲きなさい」という題の文庫本は、200万部を越えるベストセラーになりました。
今日の使徒書の、パウロの手紙を読んでいますと、この渡辺先生が書かれた本の題を思い出しましたので、少し引用したいと思います。
「30代半ばで、思いがけず岡山に派遣され、翌年、大学学長に任命されて、心乱れることも多かった時、一人の宣教師が短い英文の詩を手渡してくれました。
Bloom where God has planted you.(神が植えたところで咲きなさい)という言葉がありました。
咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と続いた詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と、告げるものでした。置かれたところで自分らしく生きていれば、必ず「見守っていてくださる方がいる」という安心感が、波立つ心を鎮めてくれるのです。
咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう。」
シスター渡辺は言います。「置かれたところ」とは、つらい立場、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的であることもあることでしょう。信じていた人の裏切りもその一つです。人によっては、置かれたところがベッドの上ということもあり、歳を取って周囲から「役立たず」と思われ、片隅に追いやられることさえあるかも知れません。そんな日にも、咲く心を持ち続けましょう。
多くのことを胸に納め、花束にして神に捧げるためには、その材料が必要です。ですから、与えられる物事の一つ一つをありがたく両手でいただき、自分にしか作れない花束にして、笑顔で、神さまに捧げたいと思っています。」
「どんなところに置かれても、花を咲かせる心を持ちましょう」「境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできます」「現在というかけがえのない時間を精一杯生きよう。」
今日の使徒書の中で、パウロが言っていることと重なります。
「兄弟たち、おのおの召されたときのの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」(24節)
パウロが言おうとすることを、私たちが生きる、現在の場にあてはめると、このようになるのではないでしょうか。
「神さまが、植えたところで咲きなさい」と。
〔2018年1月21日 顕現後第3主日(B年) 聖光教会〕