知識は人を高ぶらせるが、愛は人を作り上げる。
2018年01月28日
コリントの信徒への手紙一 8章1節〜13節
パウロは、コリントの地に教会を立ち上げることに尽力し、約1年半、コリントに滞在しました。コリントから次の伝道地に出発した後、追いかけるようにして、コリントの教会から手紙が届き、生まれたばかりの教会に、さまざまな問題が起こっていることが知らされました。
さまざまな問題に対して、どのように対処したらよいのか、どのように考えたらいいのかという質問状です。パウロは、福音の種蒔きをした人であり、コリントの教会を設立した責任者ですから、そのさまざまな問題について、答えなければなりません。指導しなければなりませんでした。
「コリントの信徒への手紙」は、このようにして、パウロが書いた、返事であり、教えであり、キリスト教徒として、いかに考えるべきかを指導した手紙です。
一方、この手紙を読む私たちには、質問者の方からの手紙の内容はわかりません。その質問者がどのような立場で、どのような考えを持った人なのかも、くわしくはわかりません。
さて、先ほど読まれました今日の使徒書8章1節〜13節の内容は、「偶像に供えられた肉」を食べても良いのか、食べてはいけないのかという問いに対するパウロの答えであり、教えが記されています。
古代ギリシャにおいて、コリントは、アテネやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)の一つでした。その地には、当時、ギリシャ人、ローマ人、ユダヤ人などが住んでいました。
当時のギリシャの宗教と言えば、「ギリシャ神話」で知られている神々が中心で高い山の上には神殿があり、街のいたるところに祭壇が祀られ、さまざまな宗教行事やしきたりがありました。
神々というのは、天空の神ゼウス、月と狩猟の神アルテミス、太陽の神で学芸と音楽の神アポロン、医療の神アスクレピオス、ゼウスの妃で婚姻の神ヘラ、知恵と戦争の女神アテナ、美と性愛の女神アフロディーテ、豊穣の女神デメテル、ぶどう酒の神ディオニュソス、半神半人ヘラクレス、海の神ポセイドン、地母神ガイア、火山と鍛治の神ヘファイストス、旅人の神ヘルメス、天空神ウラノス、冥界神ハデス、その妃ペルセフォネ、竃(かまど)神ヘスティア、軍神アレスなど、沢山の神々がありました。
これらの神々の像が神殿や祭壇に祭られ、そこに、羊や牛が、いけにえとして捧げられていました。
一方、故郷パレスチナから離散して、地中海沿岸の各地に住む「ディアスポラ」と呼ばれるユダヤ人たちが、コリントの街にも大勢住んでいました。彼らは、異国の地に住んでいますが、アブラハムの子孫であることを誇り、モーセの律法を厳格に守っていました。
「わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。」「あなたは自分のために、偶像を造って拝んではならない。」「あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という、唯一の神を信じ、偶像崇拝を禁じる掟を、厳格に守っていました。
このように、違った宗教的な背景を持つ人々が、パウロによって導かれ、イエス・キリストに出会い、洗礼を受け、キリスト教徒に回心していました。
そこで、問題になった一つのことは、コリントの街に住むユダヤ人、ユダヤ教徒であった人たちが、コリントの街の市場で売っている肉を食べても良いのだろうかという問題です。
コリントの多くの人々は、神殿に詣でています。その時には、羊や牛の肉を携え、神殿や、街のあちこちに設けられた祭壇にこれを捧げて祈ります。そこに捧げられる羊や牛は、たいへんな数であったと言われます。神殿に仕える祭司たちは、捧げられた肉の一部を当然の報酬として受け、残りの大部分の肉を、裏口から市場に流していました。
コリントの市内に住むユダヤ人たちは、偶像に捧げられた羊や牛の肉など、これを食べることは、到底許されないと考えていました。
一方、ユダヤ人であっても、イエス・キリストの名によって、洗礼を受け、ユダヤ人の掟という束縛から自由になったのだから、何を食べようと自由になったのだと主張する人たちもいました。
さらに、ギリシャ人やローマ人であって、クリスチャンになった人たちは、そのようなユダヤ教の掟、偶像を否定する思いは薄く、偶像に供えた肉を汚れたものであるかのように考える思いは毛頭ありません。平気で市場に出回っている肉を買い、食べていました。
同じように回心してクリスチャンとなった者でも、それぞれに、生活の背景や宗教的な習慣が違っています。そこで、「偶像に供えられた肉を食べても良いのか、いけないのか」ということが、一つの教会の中で問題になり、どのように考えればよいのか、パウロに手紙を書き、質問してきたのです。
パウロは、これに答えて手紙を書きました。4節以下を読みますと、
「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外に、いかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」(4節−6節)
パウロは言います。キリスト教徒である私たちは、唯一の神を信じています。日頃、他の神々、偶像の神などない、そんな神など存在しないと言っているのですから、存在しない相手に捧げられた肉などありませんし、汚れているわけではありません。
偶像に供えられたからと言って、「肉」そのものの質が変わってしまったのでもありません。だから、別にそれを食べてもかまわないではないですかと、言っています。
このような理屈というか、自由な考え方を、パウロは「知識」と言っています。
さらに、パウロは言います。しかし、そのように自由な考え方ができる知識が、誰にでもあるわけではありません。
ある人たちは、今まで、偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが、頭から離れず、良心、すなわち悟る力が弱いために汚れたものと思ってしまうのです。
私たちを、神さまのもとに導いてくれるのは、肉でも、食物でもありません。食べないからといって、何かがなくなるわけではありませんし、食べたからといって、何かを得るわけではありません、と言います。(7節、8節)
ここで、推測できることは、たぶん、パウロに手紙を書いた人というのは、偶像に供えられた肉を食べてもよい、少しも問題ではないと考えている人たちで、ユダヤ教の掟の束縛から離れて自由になったと考えている人ではないかと思われます。パウロは、その人を、知識を持った人、意識を持った人、「強い人たち」と呼んでいます。
これに対して、まだ、ユダヤ教時代の掟を引きずっていて、偶像に供えられた肉を食べられない人を、「弱い人たち」と呼んでいます。
パウロは、9節以下に続けます。
しかし、それよりも、もっと大事なことがあります。それは、あなたがたのように、自由な考え方ができ、自由な態度で、肉でも何でも食べてもよいという人が、そのように考えることができない「弱い人々」を、罪に誘うようなことになってはならない。そのことに気をつけなさい。
さらに、肉を食べることに自由な考え方を持ち、強い意識を持っている、あなたが、偶像の神殿(レストラン)で、食事の席に着いているのを、誰かが見て、その人は、偶像に供えられた肉を食べるべきではないと考えている弱い人なのに、その良心(意識)が強められて(変えられて)、偶像に供えられたものを無理に食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたが自由だと思っている知識によって、弱い人に、罪の意識を持たせて、苦しめることになります。その人のためにもキリストが死んでくださったのですから、そのようなあなたの態度が、兄弟たちに対して罪を犯すことになります。
神殿に供えられた肉を食べるべきではないと信じている彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して、あなたがたも罪を犯すことになりますと、パウロは言います。
それだから、何を食べて良い、何を食べてはいけないという食物のことが、わたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたし、パウロは、今後決して肉を口にしませんと言います。(9節〜13節)
神殿に供えられた肉を食べるか、食べるべきではないか、ということに対する答えは、パウロが言おうとしていることの結論は、最初の1節から3節の言葉になります。
偶像に供えられた肉について言えば、肉に問題があるのではありません。その肉を見ている心の問題です。
わたしたちは、始めからそのことはよく知っています。わかっているのです。
「ただ、知識は、人を高ぶらせます。」知識は人を傲慢にさせ、他の人の意見や生活を受け入れられなくします。
しかし、「愛」は、人の関係を造り上げ、人間を生かします。自分は、何でもわかっていると思っている人がいたら、その人は、知らねばならないことを、まだ知っていないと思いなさい。しかし、神を愛する人がいれば、その人は、神に知られているのです。
私たちも、クリスチャンであるがゆえに、真剣に生きようとすればするほど、起こってくる問題にぶつかります。意見の違いや対立も起こってきます。
しかし、どのような場合でも、一番大切はことは、私たちの口に、私たちの言葉に、私たちの意見や体の動かし方に、「愛」があるかどうかではないでしょうか。
〔2019年1月28日 顕現後第4主日(B年) 聖光教会〕