あなたがたを神のもとへ導くためです。

2018年02月18日
ペトロの手紙�� 3章18節〜22節 1 大斎節に入って  先週の水曜日、14日から「大斎節」に入りました。  私たちは、一般の人々が持っているカレンダーの外に、古くから教会に伝わる「教会暦」という特別な暦を持っています。私たちは、神さまを信じ、イエスさまに従って生きていこうと決心し、努力しているのですが、毎日の日常生活の中で、ともすると、信仰生活がマンネリ化してしまい、大切なことを忘れたり、緊張感に欠けたりすることがあります。  そのような生活の中で、教会暦を知るとか、教会暦に従うということは、信仰生活に、アクセントをつけてくれます。  「大斎節」とは、イエスさまが、宣教活動に入られる前に、荒れ野に導かれて、そこで40日40夜、断食をし、祈り、そして、悪魔の誘惑に打ち克たれたということの意味を、しっかりと受け取る時です。そして、私たちも、この40日間の大斎節を、祈りと克己の時として、有意義に過ごしたいと思います。 2 ペトロの手紙第一手紙の背景  さて、今、読んで頂きました今日の使徒書、ペトロの第一の手紙から学びたいと思います。  この「ペトロの手紙」は、誰が、いつ、誰に宛てて書いた手紙でしょうか。  この手紙の冒頭には、「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して、仮住まいをしている選ばれた人たちへ」という差出人と宛先が記されています。(�汽撻肇�1:)  「使徒ペトロから」と書かれていますが、イエスさまの12弟子の一人のペトロが書いたのではないことは、確かです。 なぜならば、この手紙の文体が、非常に洗練されたギリシャ語で書かれていて、実際にこれを書いた人は、学識に富んでいて、豊かな文学的用語を用いる、教養豊かな人だったと推察されます。弟子のペトロは、ガリラヤ湖で魚を獲っていた漁師でしたから、たぶん無学な普通の人だったはずです。このような文章を書く教養はなかったと思われます。(言行録4:13)。さらにその内容から見て、この手紙が書かれたのは、西暦85年から95年ごろだっただろうと推測されます。  さらに、ペトロは、ローマの皇帝ネロによって、西暦64年に起きた大迫害の時、殉教したとされまていますから、ペトロが書いたものではありません。たぶん使徒ペトロの名を借りた外の人が、書いたものであろうと考えられています。  同じペトロの第一の手紙の5章12節に、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ、神のまことの恵みであることを証ししました」と記されていますので、パウロと行動を共にしていたシルワノという人物が、ペトロから依頼をうけて、書いたのではないかと推測されています。  手紙の宛で先は、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して、仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と記されていて、かつて、パウロが伝道旅行を行い、福音の種を蒔いた、ユダヤ人を中心とした教会、設立して間なしの教会宛に、この手紙を書いて回覧されたものだろうと考えられます。  その当時、この地域には、キリスト教徒に対して、きびしい迫害が起こり、クリスチャンであるということがわかれば、捕らえられ、投獄され、殺されるというような事件が毎日のように起こっていました。  当時のクリスチャンは、息をひそめて真夜中に集まり、命がけで礼拝を続けていました。この手紙は、そのような危機感迫る生まれたばかりの教会に対して、洗礼の恵みを想い起こさせ、終末の希望を確信させることによって、信徒たちを励まし、キリストが受けた苦難に、寄り添うようなクリスチャンになり、生き方を勧める力強い牧会的な手紙でした。 3 ペトロの手紙�� 3:18〜22  そのような、この手紙の背景を頭に置きながら、今日の使徒書の言葉をもう一度、読んでみたいと思います。  3章18節に、「キリストも、罪のために、ただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」と、あります。  「キリストも」とある意味は、その前の節、17節には、このように記されています。  「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」と。神さまに隠れて、神の意に反して、罪を犯してしまったとします。悪いことをし、神さまのみ心に背くようなことをしたのですから、神さまに罰せられるのは、当たりまえです。しかし、神さまのみ心に従おうとして、善いことだと思ってしたことが、間違っていた、罰せられるようなことをしてしまった場合、「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」と言っています。  イエスさまも、苦しみを受け、十字架に付けられ、苦しみもだえながら息を引き取られました。しかし、イエスさまご自身は、神さまの前に何一つ罪をおかしおられません。それのもかかわらず、罪のため苦しみを受けられたのです。  それは、まさに、正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたということです。  それでは、イエスさまは、なぜそんなことをなさったのですか、「何のために、そんなことをなさったのですか」という問いに、「それは、あなたがたを、すなわち私たちを、神さまのもとへ導くために、正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」と、ペトロ書の著者は言います。  そして、さらに、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」と続きます。  創世記の天地創造の物語を思い出して下さい。  「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(創世記2:7、8)  土の塵で造られた人間、それは肉体です。神は、その肉体に、息すなわち霊を吹き込まれると、人(アダム)は、生きるものとなった。  イエスさまは、私たちと同じ肉体をとって、この世に来られました。その肉体は、十字架につけられて死にましたが、神さまの息、霊は、生きて、働いておられるのです。  この霊は、ノアの箱舟物語の中にも、生きて働き、主イエスの復活後にも、生きて働き、私たちの上にも、洗礼の時の霊として、生きて働いておられます。  そして、洗礼を受けるということは、単に、肉体的な汚れを洗い流し、取り除く、罪を取り除くというだけではなく、大切なことは、神さまに、正しい良心、すなわち正しい信仰が与えられることを願い求めるということです。  キリストは、天に上って、神の右におられます。天使も、あらゆる権威や勢力も、キリストの支配に服しているのです。  この手紙を読む人々に、ゆるぎない信仰を持ち続けることを勧め、次々と襲いかかる迫害に、打ち克つことを勧め、励ましています。 4 なぜ、大斎節第1主日の使徒書に選ばれているのか。   さて、私たちの信仰生活をふり返ってみますと、このペトロの第一の手紙を書いた人、これを受け取って、この手紙を貪るように読み、力づけられていた人々が生きた時代の生活と、大きな違いがあります。  イエスさまが亡くなった後の、2千年のキリスト教会の歴史をふり返ってみますと、それは、迫害を受けた信徒の凄絶な受難の歴史でもあり、また、他方では、堕落の坂道をすべり落ち続けた歴史の連続でもあったと見ることができます。  日本でも、1549年に、イエズス会修道士フランシスコ・ザビエルによって、最初にキリスト教が伝えられてから約470年になりますが、1587年には、豊臣秀吉や徳川幕府によってキリスト教禁教令が出され、鎖国時代が続き、各地で、キリシタンの迫害事件が起こりました。クリスチャンであるというだけで、捕らえられ、拷問を受け、踏み絵を踏まされ、殺されました。それは、1880年(明治3年)頃まで続きました。それだけではありません。 1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まり、戦争が終わるまで、キリスト教は、敵国の宗教であるということで、多くのクリスチャンが憲兵や特攻につけ回され、逮捕され、獄死する人たちもいました。そのような時代があったのです。  昔、若い頃に、聞いた言葉ですが、「キリスト教を滅ぼすには剣はいらない」、「クリスチャンに手厚い保護を加えれば勝手に滅びる」というような言葉を聞いたことがあります。  クリスチャンを暖かくもてなし、やさしくして保護すると、そのような環境を与えると、クリスチャンも、教会も、甘やかせれば、勝手に滅びていく」というのです。  私たちが生きるこの時代、私たちは、クリスチャンだからといって、今、迫害を受けることはありません。私たちの国では、一人一人どのような宗教でも自由に持つことができます。信教の自由は、憲法によって保障されていますし、教会も、国によって、ある程度保護を受け、自由に活動することができています。  しかし、2千年の教会の歴史をふり返ってみますと、個人でも、集団でも、「あなたは自由ですよ、何でも好きなようにして下さい。嫌なら辞めてもいいのですよ」と、優しく待遇され、ちやほやされると、それぞれの信仰は、いつの間にか堕落し、本来の信仰生活の大切な意味を失ってしまっています。捕らえられ、牢に入れられるよりも、もっときびしい、目に見えない迫害が忍びより、サタンの誘惑にさらされていきます。反対に、どの時代でも、きびしい迫害を受け、追い詰められた時の方が、ほんとうの信仰に立ち、強い信仰に目覚め、しぶとく生かされてきたように思います。  現在に生きる私たちは、誰からも強制されたり、誰からも邪魔されない、気ままな信仰生活を送ることができる時代に生きているからこそ、私たちに求められる姿勢は、ほんとうのキリスト教信仰を求め続けることであり、自分で自分自身を律することに厳しくなければなりません。そのことに、気がつかなければならないのではないでしょうか。  大斎節とは、とくに、この期間、心を神さまに向け、イエスさまと対話し、自分自身の信仰生活の姿をふり返る時だと思います。大斎節の初めに、ペトロ第一の手紙が読まれ、初代教会の信徒が、きびしい迫害に生き、命がけで信仰を守っていた姿を思い浮かべながら、この期間を有意義に過ごし、主のご復活を喜ぶ時を共にしたいと思います。  ペトロ第一の手紙5章8節以下を読みます。 「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、あなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」(5:8〜11)  〔2018年2月18日 大斎節第1主日(B年) 聖光教会〕