神 の 愛

2018年02月25日
ローマの信徒への手紙8章31節〜39節 1 愛を求める私たち  私たちは、口には出しませんが、いつも、誰かに、愛されたいと願っています。歳をとると、そんなに、ちゃらちゃらしたことを、今さら思っているかいなと言う人もおられるかもしれませんが、無意識のうちに、いくつになっても、いつも、そのような人間関係を求めているのではないでしょうか。  人と人との愛の関係は、親子愛、兄弟愛、友情、恋愛、など、愛を表す言葉は変わり、内容も変わり、個人差はありますけれども、いつも愛し、愛される中で生活しています。  それらのさまざまな人間関係の中の愛の関係以外に、さらに、イエスさまが加わった時、そこに「神の国」があると、イエスさまは言われます。(ルカ17:21)  聖書を見ますと、イエスさまは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37-39)と言われました。  またある時、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)と教えられました。  さらに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)とも言われました。  このように、最も大切な掟として、「愛しなさい」「愛し合いなさい」と、繰り返し、繰り返し教えられたのですが、「あなたがたは、愛されなさい」と言われたところは、どこにもありません。私たちの方は、愛するよりも、いつも、誰かに愛されたい、誰からも愛されたいと、願っているのに、イエスさまは、「愛されることを求めなさい」、「愛してもらいなさい」と言われません。  それどころか、「愛されるための方法」を教えたり、愛され方を伝授してもおられません。  あえて言えば、「愛し合いなさい」、「互いに愛し合いなさい」と言われる言葉の中に、自分の方から愛されることを求めてよいと言っておられるのでしょうか。 2 もし神がわたしたちの味方であるならば  さて、今日の使徒書、ローマの信徒への手紙8章31節以下ですが、この「ローマの信徒への手紙」は、パウロが、ギリシャのコリントという町に滞在している間に、西暦58年の初め頃に書いた手紙です。この時、パウロは、まだ一度も、ローマに行ったことはありません。ローマの信徒への手紙の1章9節に、このように書いています。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときには、いつもあなたがたのことを思い起こし、何とかして、いつかは、神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」(ロマ1:9、10)  これから先、かならずローマに行って、そこで、クリスチャンの集会の信徒の人々に会うことを期待し、そのために、自己紹介と、自分が固く信じているキリストの福音について、知ってもらいたいという気持ちで、この手紙を書いたものであろうと思われます。  当時のローマの教会では、他の国や街と同じように、キリスト教信徒の集会は、まずユダヤ教の会堂から始まったものですから、ユダヤ教の影響が強く、律法を守ることと、キリストの福音を受け入れることとの間で、論争が絶えません。さらに、ローマ人社会からきびしい迫害を受け、生まれたばかりの集会から、去っていく人たちが多くいました。さらにその外にもいろいろな問題を抱えていました。  このような状況を伝え聞いた上で、パウロは言います。  今日の使徒書の冒頭の言葉ですが、 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」と言います。 「神さまが、わたしたちの味方である」とは、どういうことでしょうか。  日本人の発想からしますと、自分の能力を越えた運というか力を、神仏に願う時、「われに味方したまえ」と、いわゆる神頼みをします。  変な比較ですが、パウロがここでいう、「もし神がわたしたちの味方であるならば」という言葉と、私たちが勝負に臨む時に「わたしたちに味方してください」という思いや言葉の内容は同じなのでしょうか。違うのでしょうか。  パウロは、このように続けます。  「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず、死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ8:32-37)  パウロが言うのには、「もし神がわたしたちの味方であるならば」という、この言葉の前提には、神さまが、私たちのために、だいじなひとり子であるイエスさまを、この世に遣わし、その命を与え、死んでよみがえらせ、何ものにも替えられない犠牲を払って、復活させられたという事実があります。そのことを通して、神の愛、キリストの愛が示されました。「あなたを愛していますよ」、「こんなにあなたを愛していますよ」という前提に立って、35節以下で、このように言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と。  日々迫ってくる迫害に打ち克つために、まず、神への信頼、神の愛に、思いをいたらせなさいと警告します。  36節の「わたしたちは、あなたのために      一日中死にさらされ、      屠られる羊のように見られている」は、  これは、詩篇44編23節から引用しています。この詩篇44編は、「殉教者の歌」と言われています。   「我らはあなたゆえに、絶えることなく    殺される者となり    屠るための羊と見なされています。」(詩篇44:23)  この詩には、正しく真剣な信仰を保つために迫害を受けている者が、心の底から絞り出すような声を上げ、苦しみもだえる中から、神に問いかける深い問いがあります。  この苦しみは「あなたのためだという」、だから主、全能の神よ、今こそ、あなたは来て、わたしたちを助けて下さいと、血を吐くような叫び声を上げています。  詩篇では、その後に、    「主よ、奮い立ってください。    なぜ、眠っておられるのですか。    永久に我らを突き放しておくことなく    目覚めてください。」(44:24)  という言葉が続いています。 3 神の愛  しかし、パウロは言います。旧約聖書の詩篇の中に訴えている殉教者たちの苦しみとは違います。  それは、わたしたちには、イエス・キリストによって示された「神の愛」があります。  「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは、この世のどんな物も、どんな人もどんな力も、何をもってしても、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と、パウロは断言します。  ローマの信徒の人々が、抱える問題、迫害に立ち向かうために、神の愛に包まれている自分たちの姿を思い出させ、励ましています。    4 誰も引き離すことができない神の愛  イエスさまは、私たちが、傲慢になることを、いちばん嫌っておられると思うのですが、ここで、少しだけ誇りたいと思います。  今日の使徒書のすぐ前の個所に、パウロは、このように述べています。  「神は、あらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ロマ8:30)と言い、そして、今日の使徒書、31節「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった」と書いています。「神があらかじめ定められた者、召し出した者」とは誰のことでしょうか。パウロがこの手紙を書いているローマの教会の信徒のことですが、同時に、今、これを読んでいる私たちではないでしょうか。  イエスさまの時代には、イエスさまの話を聞こうとして、奇跡を見ようとして、大勢の群衆が集まっていました。イエスさまは、「すべての人を」救うために、この世に来られたのですが、そこに集まった群衆すべてを救われたのではなく、十字架のキリストに従った弟子たち、イエスさまに従った人たちに救いが与えられ、そこにキリスト教会があるのです。これこそが、「あらかじめ召された者たちの群れ」であり、現在では、キリストへの信仰を告白して洗礼を受け、クリスチャンになった私たちであり、私たちこそが、召された者であり、選ばれた者であり、神の愛の囲いの中につながれている者だということができます。  「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」  「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 愛することのない者は、神を知りません。「神は愛」だからです。神は、独り子をこの世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が、わたしたちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも、互いに愛し合うべきです。 いまだかつて、神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださいます。神の愛が、わたしたちの内で全うされているのです。    〔2018年2月25日 大斎節第2主日(B年) 聖光教会〕