殺してはならない。盗んではならい。

2018年03月04日
出エジプト記20章1節〜17節 ローマの信徒への手紙7章13節〜25節  私は、まだ若かった頃ですが、大阪のある女子の高等学校で、非常勤講師として「聖書」の授業を持っていました。  高校2年生だったと思いますが、ある時に、授業のはじめに、唐突に生徒に質問しました。  「人を殺してはいけないと思いますか。人の物を盗んではいけないと思いますか。」  「いけないと思いまーーす。」  「なぜ、人を殺してはいけないのですか。なぜ人の物を盗んではいけないのですか。」  生徒たちの方は、何を今さら、当たり前のことを聞くのかといった白けた雰囲気でした。  「それでは、なぜ、人を殺してはいけないのか。なぜ、人の物を盗んではいけないのか。答えてもらいます。 前の人から順に」と言って、前の席から順に当てていきました。  「お母さんが、人を殺してはいけない。人の物を盗ってはいけないと言いました。小さい時からそう教えられました。」  「それでは、お父さんやお母さんが、人を殺してもいいよ。人の物を盗ってきても良いよと言えば、人を殺してもいいのですか。人の物を盗ってもいいのですか。」  「‥‥‥」  「はい、次の人。」  「法律で殺してはいけないと定められています。人を殺したら逮捕されて、刑務所に入れられるか、死刑になります。」  「ほんとうに、法律には、人を殺してはいけない。人の物を盗ってはいけないと書いていますか。自分でその法律を読んだことがありますか。」  「ないけど、みんなそう言ってます。」  「それは、刑法という法律だと思います。刑法199条に、『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する。』と、書いてあるだけで、人を殺してはならない書いていません。同じ刑法235条に『他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役に処する。』と書いてあるだけです。人の物を盗ってはいけないとは書いていません。人を殺したり、人の物を盗ったりすると、こうなりますよと言ってるだけで、もし、自分は懲役刑に処せられてもいい、死刑になってもいいという人がいたら、その人は人を殺してもいい、人の物を盗ってもいいということになりませんか。」 「‥‥‥」  解せない風に頭をかしげながら席に着きます。 「はい、次の人。」  「私は、自分は死にたくないから、自分が殺されたくないから、人を殺さないのだと思います。私は殺されたくないから、あなたも殺さない。私の物を盗られたくないから、あなたの物も盗らない。だから、人を殺すということは悪いこと、人の物をとることは悪いということにしましょう。長い歴史の中で、人間社会の間で生まれた約束ごとだと思います。」  「ああそう。では、私の命は取ってもいいよ、私は殺されてもいいよ、私の物は盗ってもいいよ、という人がいたら、その約束ごとは崩れて、人を殺してもいい、人の物は盗ってもいいということになるのではないですか。」  このような問答や屁理屈を繰り返しながら、そのクラスの全員に答えてもらいました。だんだんと本気になってきて、意気込んで理屈を述べますが、なかなかすっきりしません。 (1) お父さんやお母さん、幼稚園の先生や学校の先生がそう言いました。みんなそう言っています。 (2) 法律に書いています。 (3) 自分は殺されたくないからわたしも人を殺さない。自分の物を盗られたくないから、人の物も盗らない。  まとめてみると、この3つの意見が繰り返されました。  そこで、さらに訊ねました。戦争はどうですか。1人か2人を殺すと殺人犯と言われて、自分が住んでいる社会には住めなくなってしまいます。しかし、戦争で大勢の人を殺すと英雄になる。自分で殺さなくても、戦争を命令したり、いっぺんに大勢の人を殺すことができる武器を作ると英雄になる。戦争というのは、国と 国とが殺し合いをすることでしょう。誰が人を殺してもいいと言ったのですか。  どんなに悪いことをした人でも死刑にするということは、これも人を殺すことでしょう。正当防衛はどうですか。緊急避難ではどうですか。質問を繰り返すとわからなくなってきました。  「なぜ、人を殺してはいけないか。そのことが、自分できちんとわかっていなかったら、あなた方だって人を殺してしまうかも知れないじゃないですか。」  ところが、みんな口をそろえて、「殺しませーーん」と言いました。  さて、皆さんは、どのようにお答えになりますか。誰が何と言おうと、悪いことは悪い、そんなことは常識だ思っています。しかし、昨今の社会状況を見ますと、常識が通らなくなっています。自然な形で人が死んでいく以外に、毎日、どれほどの人が殺されているでしょうか。どれほどの人が略奪を受けているでしょうか。  私たちは、やはり「殺してはならない」と思っています。それはなぜなのか。 それは、神が「殺してはならない」と命じておられるからです。「人の物は盗んではならない」と思っています。それは、神が「盗んではならない」と命じておられるからです。  それは、理屈でも論理でもありません。私たちを造り、私たちをこの世に生まれさせ、命を与え、その命を支配される神さまが、私たちを存在させる、絶対者である神さまが、命じておられるのです。だから、殺してはならないのです。だから人の物を盗んではならないのです。  世の中がどんなに変わろうとも、人の気持ちや考えがどうであろうと、たとえ丸い地球が三角形になったとしても、人を殺してはならないのです。人の物を盗ってはならないのです。  今日の旧約聖書は、出エジプト記20章1節から17節が読まれました。これは、「モーセの十戒」と言われる、律法の中の律法と言われる神の掟が、シナイ山で神から授けられ出来事、物語が書かれた聖書の個所です。  十戒はクリスチャンだけではなく、世界中の人が知っている神の戒めです。とくに西欧の文化の根底にある倫理や道徳の中心であると言われています。  しかし、私たちは大事なことを忘れてはなりません。それは、クリスチャンだから、モーセの十戒のことを、私たちは知っているから、正しくなったのではない、正しくされているのでもないということです。  先の例で言いますと、神の掟、十戒を知っているから、「人を殺さない」「人の物を盗らない」人になったわけではないということです。言いかえれば、私たちは、一人一人、何かの時に、何かが原因で、人を殺す可能性、能力を持っている、人を殺すことができる人間であり、人を殺す可能性があるということなのです。人を殺したり、人の物を盗んだりする能力や可能性はが全くなくて、「殺さない」「盗まない」と言っているのではないということです。  今日の使徒書の方に目を向けてみましょう。  ローマの信徒への手紙を書いたパウロは言います。今日の使徒書のちょっと前の、7章7節に、このように記されています。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」と。  律法が「殺すな」と言わなかったら「殺す」ということが悪いことだとは知らなかったでしょう。律法が「盗むな」と言わなかったら「盗む」ということは悪いことだとは知らなかったでしょう。人類に、神の掟、律法が与えられた時、この律法によって、一人一人の内にある「罪」というものが目覚めたのだと言います。  律法は神の命令であり、神さまが定められた掟です。従って律法は、聖なるものであり、正しく、そして善いものなのです(7:12)。しかし、その律法が、人々の心の深いところにある罪を暴き出したのです。  そこで、今日の使徒書の個所を読んで見ましょう。パウロが律法と罪の関係について言っています。  「それでは、善いもの(律法)が、わたしにとって死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではありません。実は、罪がその正体を現すために、善いもの(律法)を通して、わたしに死をもたらしたのです。このようにして、 罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのです。わたしたちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、わたしは、肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行しないで、かえって憎んでいることをしてしまうからです。(16節)もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。(17節)そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(18節)わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(19節)わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。 (20節)もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(21節)それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。(22節)「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、(23節)わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(24節)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(25節)わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマ7:13〜25)  「殺すな」「盗むな」だけではありません。私たちは、何が良いことか何が悪いことか、何をすべきか、何をすべきでないか、みんな分かっています。「内なる人」としては、神さまが喜ばれること、守るべき法則があり、それに従いそれを守らなければならないものであることは知っています。  しかし、「肉なる人」においては、五体にあるもう一つの法則があって、心の法則と戦い、自分はそのとりこにされてしまうのです。人間とは、何て惨めなものなのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。  私たちは「平和」「平和」と言って、平和を求めることも大切です。しかし、その前に、一人一人が、自分の中にある「罪」、「肉なる人」としてもう一つの法則のとりこになっている自分を見つめなおさなければならないのではないでしょうか。  パウロは、その惨めさから救いを求めます。そして、この方しかいないと、イエス・キリストを指さしています。   〔2018年3月4日 大斎節第3主日(B) 東舞鶴聖パウロ教会〕