「どこでパンを買えばよいだろうか。」

2018年03月11日
ヨハネによる福音書6章4節〜15  イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポ に、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と 言われた。(ヨハネ6:5)  新約聖書の中には、イエスさまが行われた多くの奇跡物語があります。  その中でも、今、読みました福音書の「5千人の人々に食べ物をお与え になった」という奇跡物語は、私たちにとって、最も理解しにくい難しい奇 跡だと思います。5つのパンを5千人以上の人々に分け与えるという場面、 その情景がどうしても頭の中に映像化することができないのです。 パンや魚の数は、どのようにして増えたのでしょうか。  私たちの手にする新約聖書には、4つの福音書があります。  いずれもイエスさまの教えや行い、生まれてから十字架に架けられ、死 んで、復活されるまでの出来事を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4 人の福音記者が、信仰の目で見て、編集し、書き綴ったものです。私たち は、この4つの福音書を通して、「イエス・キリストとは誰か」、「イエス・キリ ストとは何者か」を知ることができます。  マルコ福音書が書かれた年代と、ヨハネ福音書が書かれた年代とでは、 40年ぐらいの隔たりがあります。その間に書かれた福音書も含めて、マタ イも、マルコも、ルカも、ヨハネも、全部の福音書が、この「イエスさまが5 千人に食べ物を与えられた」という不思議な出来事、奇跡物語を記してい ます。それは、これらの聖書が書かれた時代の初代教会において、この 奇跡物語が、いかに重大で、大事なものだったかということを表しています。  イエスさまが行われたこの奇跡について、4つの福音書の言葉を一つず つ読み比べてみますと、少しずつ取り扱いに違いがあることに気づきます。 その個所を通して、それぞれの福音記者は、これだけは知ってほしい、 このことをイエスさまは、言っておられるのだということを表そうとしている ように思います。  今日は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書と比較しながら、ヨハネによ る福音書が語る「5千人に食べ物を与えた」奇跡物語から大切なことを学 びたいと思います。  まず第1に、それは「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」時で あった(6:4)と、わざわざ「時」を示しています。これは明らかに、イエスさまが、 捕らえられ、十字架につけられた「時」が意識されています。  「過越の祭り」というのは、その昔、神さまが、モーセに命じて、エジプト王の もとで苦しんでいるイスラエルの民を、救い出させようとした時、エジプトの地 に、疫病を流行らせました。その時、神さまの命令に従って、羊の血を戸口に 塗ったイスラエル人の家を、疫病が過ぎ越して行ったという出来事がありまし た(出エジプト記12:1-15)。命じられたことを守ると、イスラエルの民は、疫病 にかかることを免れ、エジプトから脱出することができました。何千年も昔のこ の出来事を記念するために、「過越の祭り」が守られてきました。  ささげられようとする「キリストの血」と、この過越の祭りを通して記念する「羊 の血」が、人々に、「神さまによって、われわれは救われたのだ」という思いを 新たにし、今、そのことを思い起こさせる重要なカギとなっています。この「5千 人に食べ物を与えた」出来事も、過越の祭りに近い日であったということに大 きな意味がありました。  第2に、イエスさまは、大勢の群衆が、ご自分の方へ集まって来るのを見て、 弟子の一人フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよ いだろうか。」と問われました(6:5)。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、いずれ も、弟子たちの方が、イエスさまに、「ここは人里離れた所で、時間もだいぶた ちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周(まわ)りの里や村 へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(マルコ6:35、36、マタイ14:15、ルカ 9:12)と言ったと記されています。  ヨハネ福音書では、イエスさまが「こう言ったのは、弟子のフィリポを試みるた めであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(6:6) とあります。 イエスさまが言われた「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよ いだろうか。」という言葉を言いかえますと、「この人たちに与えるパンは、どこ へ行けば得られるのか」、「この人たちはどこからパンを得ることができるのか」、 「この人たちに誰がパンを与えるのか」という問いです。  弟子たちに向かって、激しく、きびしく挑戦するかのように問われました。  フィリポは答えました。  「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りない でしょう」と。(6:7)  1デナリオンは、労働者の1日分の日当ぐらいの金額です。2百デナリオンは、 その2百倍ですから、今の日本人の給与と比較してみますと、ずいぶん大きな 金額になります。2百日分の給料というと、約8ケ月分ぐらいの給料です。莫大 な量のパンを買うことになります。それでも足りないでしょうと、フィリポは言い ました。  ここでわかることは、イエスさまが言っておられるパンと、弟子たちが言ってい るパンと、同じ「パン」の話をしているのですが、その言葉の意味の次元が違って いる、話が噛み合っていない、ということに気づきます。  イエスさまは、そのすぐあとで言われました。  「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)、「わたしは天から降って来た生きた パンである」(6:51)と。  「主イエスは御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(6:6) と記されているのはそのことでした。  ところが、フィリポをはじめ、ほかの弟子たちにも、その意味が、まだわかって いません。  弟子たちが思っている「パン」とは、小麦粉を焼いて作ったパン、お腹が空いた 時に食べてお腹をふくらませるパン、目に見えるパンのことを言っています。  イエスさまが言っておられる「パン」は、まったく別の何かを指しています。言 いかえれば、イエスさまが与えようとするパンと、弟子たちが群衆に与えようと するパンとは、同じ「パン」という言葉を使っているのですが、意味が違っていた ということです。  そこへ、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが来て、イエスさまに言 いました。  「ここに大麦のパン5つと、魚2匹があります。この少年が持っていました。 この少年は、それを差し出しましたけれども、こんなに大勢の人では、何の役に も立たないでしょう。」(6:8,9) と言いました。 すると、イエスさまは、「人々を座らせなさい」と言われました。そこには、草が たくさん生えていました。男たちはそこに座りましたが、その数は、およそ5千人 であったと記されています。男だけで5千人、女性や子どもを入れると1万人も越 える大群衆だったのではないかと思われます。  そこで、イエスさまは、少年が持っていたパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、 座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分 け与えられました。  この言葉は、私たちが行っている聖餐式の中で、パンとぶどう酒を聖別する時 の感謝と祈りの言葉、司式者の動作を思い起こさせます。                         (マルコ14:22、マタイ26:26、ルカ22:17)  5千人、いや1万人以上の人たちが、このパンと魚を食べて満腹しました。  イエスさまは、弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集 めなさい」と言われました。パン屑を集めると、人々が5つの大麦パンを食べて、 なお残ったパンの屑で、12の籠がいっぱいになったと記されています。(6:13)  ここに、奇跡が起こりました。これを見た人たちは、「まさに、この人こそ、世に 来られる預言者である」と言いました。また、ある人たちは、イエスさまを連れ出 して、王にしようと考えました。   ヨハネ福音書の特徴の一つは、このようにイエスさまが、与えようとするものと、 弟子たちや群衆が願い求めるものとが、大きくすれ違っていたということを言い たいということです。  イエスさまは、人々の魂の救い、霊的な飢え、心の渇きを満たすものを与えよ うとされます。それを与えるのは「わたしだ」、「わたしが命のパンを与える人だ」 と言い、さらに「わたしが、そのパンだ」「わたしが命のパンだ」と言われるのです。 ところが、弟子たちは、あくまでも肉のパン、肉体の空腹を満たし、食欲を満たし てくれるパンを、2百デナリオンで買えるパンを、人々に与えようとしました。 イエスさまが言っておられることが、なかなか理解できません。  しかし、その行き違いを越えさせる「しるし」が、目に見えるかたちで表されまし た。イエスさまは、大群衆の目の前で、目に見えるパンを、すべての人が食べて 満腹させ、パンくずが、12の籠に一杯になるという不思議な出来事、「奇跡」をお 見せになりました。  人々は、これを見て、この方は、ふつうの方ではないということがわかりました。  ある人たちは、この方は、旧約聖書時代に現れた預言者であると告白し、ある 人たちは、この方を担ぎ挙げて、王さまにしようと考えました。  さて、私たちと、イエスさまとの関係はどうでしょうか。  私たちが思っているイエスさまと、イエスさまが、「わたしだ、わたしだ」と言って、 ご自分を指さしておられるイエスさまと、そのイメージや関係は、すれ違っていな いでしょうか。  私たちは、イエスさまに求めているものは、何でしょうか。何を、イエスさまに、 求めているのでしょうか。  それは、イエスさまが、わたしたちに与えようとしておられるものと、同じでしょうか。  私たちは、いつも、「主よ、主よ」、「神さま、神さま」と言って、何かを訴え、求め ています。  わたしたちは、何を求めているのでしょうか。何を願っているのでしょうか。何を 下さいとお願いしているのでしょうか。どのようにして下さいと求めているのでしょ うか。  それは、イエスさまが、私たちに与えようとしておられるものと、一致しているでし ょうか。  私たちは、イエスさまが与えようとしておられるものを、ちゃんと、受け取っている でしょうか。  私たちは、毎日、毎主日、平和でありますようにと祈っています。人が人を殺し合 うようなことがないように、人の財産を奪うようなことがないようにと、いつも、みんな、 願っています。世界中の人が、みんな平和を求め、平和、平和と叫んでいます。 しかし、毎日のニュースを見ていますと、ほんとうの平和を実現することが、いかに 難しいことか、考え込んでしまいます。差別や、人の人格を傷つけることがないこと を願っています。環境汚染や自然破壊があってはならないと、みんな思っています。 しかし、いつまで経っても、それは、無くなりません。ますますひどくなっています。  それは、私たち一人一人の霊が、魂が、心が飢えているからです。貧困だからです。 干からびているから、ではないでしょうかす。神さまが、イエスさまが、私たちに与え ようとして下さっているものを、ちゃんと受け取っていないからではないでしょうか。  イエスさまは、弟子たちに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよ いだろうか」と問われました。  イエスさまは、今、私たちの前に立って、  「あなたは、心の貧しさ、魂の飢えをいやすために、どこからパンを得ようとしてい ますか」と、尋ねておられます。  わたしたちは、あなたは、そのパンを、どこから、誰から、どのように、得ようとして いますか。  今、私たちは問われています。  感謝と賛美の聖奠、共に聖餐に与りましょう。  〔2018年3月11日 大斎節第4主日(B年)  於・大津聖マリア教会〕