人の子が栄光を受ける時が来た。

2018年03月18日
ヨハネ福音書12章20節〜33節  大斎節も、はや後半に入り、2週間後には、「復活日」を迎えます。今、読まれました「大斎節第5主日」の福音書、ヨハネによる福音書12章20節以下から、私たちの信仰について、真剣に考え、主のご受難、ご復活を記念する日を迎えるに当たって、心の準備をしたいと思います。  さて、福音書に描かれている場面に目を向けてみますと、イエスさまは、エルサレムの神殿におられました。それは、ちょうど、祭りの時で、神殿は、大勢の人たちで、賑わっています。神殿の外、南側に「異邦人の庭」という広場があって、ユダヤ人以外の者は、そこから先、神殿の中へは入るころができません。異邦人であっても、ユダヤ教の信仰を持っている人たちや、イエスさまの噂を聞いて、イエスさまから話を聴きたい、教えを受けたいと思って、やって来た人たちもいました。その中の数人のギリシャ人が、彼らは、神殿の内側へ入ることができませんので、イエスさまの弟子の一人、フィリポを見つけて、「お願いです。イエスさまに、お目にかかりたいのですが」と、頼みました。  フィリポは、行ってアンデレにそのことを話し、アンデレとフィリポは、さらに、神殿の中におられるイエスさまの所へ行って、イエスさまに、そのことを告げました。  イエスさまは、弟子たちから、ギリシャ人が、イエスさまにお会いしたいと言っていることを聴かれて、弟子たちに「人の子が栄光を受ける時が来た」とお答えになりました。  イエスさまは、今日の福音書の中で、4回も「時が来た」という言葉を繰り返しておられます。  イエスさまには、このように、何か「特別の時」があったことが伺えます。  ヨハネ福音書2章1節以下に「カナの婚礼」という話が記されています。(2:1-12)  ある時、ガリラヤのカナという村で、婚礼、結婚式がありました。イエスさまの母マリアが、その婚礼の宴会のお手伝いに出ていました。イエスさまも、弟子たちと一緒に、この婚礼の席に招かれていました。ところが、この婚宴の最中に、ぶどう酒が足りなくなってしまいました。そこで、台所にいた母マリアが、イエスさまの所に来て、「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。すると、イエスさまは、お母さんに「婦人よ、わたしと、どんなかかわりがあるのです。わたしの時は、まだ来ていません。」と言われました。それでも、お母さんは、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。そこには、お客さんが、手を清めるために用いる大きな石の水がめが、6つ置いてありました。  イエスさまが、「この水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしました。イエスさまは、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召し使いたちは、これを運んで行きました。世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をして言いました。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわった頃に、劣ったものを出すのだが、この家では、良いぶどう酒を、今まで取って置かれました」と。  この出来事は、イエスさまが、この地方で行った最初の「しるし」「奇跡」だったと記されています。  マリアさんが、ぶどう酒が無くなりましたと、訴えて来た時に、イエスさまは、「婦人よ、わたしと、どんな関わりがあるのですか」と言い、「わたしの時は、まだ来ていません」と言って、冷たくあしらわれました。しかし、その直後に、水をぶどう酒に、最上等のぶどう酒に変えるという奇跡を行っておられるのです。ここでも、イエスさまは、「わたしの時」は、まだは来ていないと言って、「時」にこだわっておられます。  もう一ヶ所、聖書の引用をしますと、同じヨハネ福音書7章1節以下に、このような個所があります。(7:1-9) イエスさまは、弟子たちを連れ、生まれ故郷がある、ガリラヤ地方を巡り、会堂で話をしたり、奇跡を行っておられました。それは、ちょうど、仮庵祭が近い頃でした。  イエスさまには、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、そして姉妹がいたと、記されています。(マタイ13:55)  この兄弟たちが、イエスさまの所に来て言いました。  「ここを去って、ユダヤ地方のエルサレムに行き、神殿のなど、人が大勢集まる所に行って、あなたのしている「業」、「奇跡」を、弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を、世間に向かって、はっきり示しなさい」と言いました。  「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」と記されています。そこで、イエスさまは言われました。「わたしの時は、まだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世は、あなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしは、世の人々が行っている行為は悪いと言っているからだ。あなたがたは、祭りには、エルサレムに上って行くがよい。わたしは、この祭りには、上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」と、イエスさまはこう言って、ガリラヤにとどまられました。しかし、「その直後、兄弟たちが、祭りに上って行ったあと、イエスさまご自身も、人目を避け、隠れるようにして、エルサレムに、上って行かれた」と記されています。  このように、イエスさまは、お母さんや兄弟たちが、「あなたの「奇跡を行う大きな力」を、もっと多くの人々の前に示しなさいと言った時には、「まだ、わたしの時ではない」と言って、厳しく拒んでおられます。  しかし、今日の福音書の個所では、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。  それまでは、「わたしの時は、まだ来ていません。」「わたしの時は、まだ来ていない。」と言っておられた、イエスさまが、なぜ「栄光を受ける時が来た」と言われたのでしょうか。その180度の変化、転換の理由は何だったのでしょうか。  それは、まさに、マルコ福音書が言った「時は満ちた、神の国は近づいた」(1:15)と宣べられた「時は満ちた」その時であり、パウロが言う「時が満ちるに及んで、救いの業が完成された」(エフェソ1:10)というその時なのです。  さらに、ヨハネの福音書によると、イエスさまが、「その時」を感じられた直接の原因は、母マリアの言葉によってではなく、イエスさまの兄弟たちの勧めによってでもありません。 それは、イエスさまに、教えを乞うてやって来た「何人かのギリシャ人」(12:20)の出現でした。  それは、今日の福音書の最後の個所、31節以下に、  「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは、地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」(ヨハネ12:31-33)と言われたことの中に示されています。  ユダヤ人もギリシャ人も含めて「すべての人をご自分の下へ、父である神さまの下へ、引き寄せる」ために、「神の栄光を受ける時が来た」と宣言されました。  「神の栄光を受ける」とは、どうい意味でしょうか。  「栄光」とは、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、kabod(カボッド)、新約聖書が書かれたギリシャ語ではδοξα(doxa)といい、英語では、glory と言います。いずれも、「栄光」、「栄華」「栄誉」「威信」などという言葉に訳されています。ヘブライ語やギリシャ語のもとの意味では「重さ」「価値」を表していたと言います。「価値あるものを価値あるものとする」という意味です。聖書では、専ら、「神の栄光」という意味で使われ、それは、すなわち、光輝く神、神の力そのものを表す言葉として用いられています。  人間的な表現で言えば、オリンピックで、1位になった選手が表彰台の一番高い所に上がり、金メダルを受ける姿、まさに世界中の人々から賞賛を受け、「栄光」を受けている瞬間です。スポットライトが照らされ、歓声をもって迎えられます。  神さまとの関係で言えば、「全知全能の神さまが、神さまとされること」であり、「この世のすべてのものの造り主であり、支配者であり、生命の源である神」が、「神」とされること、全世界の被造物から崇められ、賛美と感謝がささげられ、神の力が、何ものにも妨げられず、発揮されること、それこそが、「神の栄光」が讃えられることなのです。  そして、今、イエスさまは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われます。  イエスさまは、神の子でありながら、私たちと同じ、不完全な肉体をとって、この世に来られました。その人間イエスさまが、神の子として、父である神さまから与えられた特別の使命を果たさなければならない「時」が来たことを宣言しておられます。人の子が、神の子として、神の栄光を受けようとされる瞬間です。  ところが、イエスさまが、栄光を受ける姿は、天から雲のような乗り物が降りてきて、天使に守られ、光輝く中、静かに天に昇っていく姿ではありませんでした。  「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(12:24-25)  私たちは、花壇や畑に、または植木鉢に、種を蒔きます。土の中で、種は、芽を出し、根を生やし、成長していきます。その植物が茎や葉を伸ばし、花を咲かせ、実を成らせる時には、もはや土の中の種の姿はありません。その種が、地に落ちて死ななければ、花も実もなりません。  イエスさまが、これから迎えようとなさる「時」とは、一粒の麦となり、地に落ちて朽ちることを、ご自分の肉体と生命が受けようとする姿と、その時を、指しておられます。  これから起きようとする苦難、苦痛、苦悩を思うと、胸が引き裂かれそうです。「わたしの心が騒ぐ」(12:27)と言われました。「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしは、まさに、この時のために来たのです。父よ、御名の栄光を現してください」と言われます。  ゲッセマネの園で、イエスさまは祈られました。  「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:42-44)  イエスさまが、神の栄光をお受けになる姿は、オリンピック選手が表彰台に上がるような姿ではありませんでした。舞台の上で出演者が、スポットライトを受け、拍手と歓声をあげて讃えられる姿でもありませんでした。弟子に裏切られ、捕らえられ、引きずり回され、裁判に掛けられ、多くの人に侮辱され、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、茨の冠を被せられ、衰弱しきった体で、ゴルゴタの丘まで重い十字架を担ぎ、そして、手と足に釘打たれ、十字架に付けられ、そして、息を引き取られました。すべての人々の罪を負い、すべての人々の苦しみを引き受け、神さまの祭壇の前に供えられるいけにえ、一匹の子羊として、捧げられました。  イエスさまは、そのことを予見して、「この時」のことを語っておられます。  「『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは、地上から(天に)上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスは、その目的のために、御自分がどのような死を遂げようとしているかを示そうとして、こう言われたのである。」(31-33) 私たちは、イエスさまが語られた「その時」を知るとともに、私たちの人生における「信仰の時」を、考えてみたいと思います。  「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(12:25-26) 〔2018年3月18日 大斎節第5主日 聖光教会〕