わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
2018年03月25日
マルコによる福音書15章1節〜39節
イエスさまは、ゲッセマネの園で祈っておられる時、ユダヤ教の指導者たち(祭司長、律法学者、長老たち)につかわされた役人たちに捕らえられました。大祭司の館に連れていかれて、尋問を受け、さらに、ローマの総督ポンテオ・ピラトの屋敷に引いていかれて、ピラトから尋問を受け、人々から侮辱され、笞打たれ、ののしられ、茨の冠を被せられ、重い十字架を担がされて、ゴルゴタの丘まで追い立てられて来ました。そこで、手と足に、釘打たれて、十字架つけられ、苦しみもだえながら、息を引き取られました。
私たちは、毎年この情景を描いた聖書の個所を読み、イエスさまの痛み、苦しみを感じ、その姿を想う時、それだけで、胸に迫ってくるものを感じます。
私たちが手にする聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、イエスさまの受難と死について、他の記事に比べてずいぶん多くの行数をつかって、その出来事を伝えています。
今、読みました聖書の個所、マルコ福音書の15章34節には、イエスさまは、十字架上で、息を引き取られる直前、最後の言葉として、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたと記されています。
この言葉は、旧約聖書の詩編22編2節の言葉です。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」、「なぜ、わたしから遠く離れ、救おうとせず、呻きも、言葉も、聞いてくださらないのか」と続いています。
詩編22編全体は、苦難の中で、主の名を叫びつつ、信仰の勝利にいたる、信頼に満ちた歌でが、イエスさまは、この詩編22編を心に思い浮かべ、その長い詩編の言葉を語ろうとして、呼吸が続かなくなったのでしょうか。
エルサレムの郊外、ゴルゴタの丘に立てられた十字架。
多くの人々が、この十字架を囲んで、これを見上げています。ローマの兵隊、ユダヤ教の祭司たちや長老たち、役人たち、律法学者たち、エルサレムの市民。何かが起こるのではないかと、興味本位の野次馬もいました。そして、イエスさまの弟子たちや、イエスさまにずっと従って来た人たち。そして、イエスさまの母マリア、女の人たち、なすすべもなく、遠くの方から、涙ながらにこの光景を眺めていました。
今、もし、私たちが、この場面の中に居るとすれば、どのような思いで、どのような立場に立って、十字架上のイエスさまを眺めているでしょうか。
どの宗教でも、すべての宗教の究極の目的は、「救い」にあると言われます。例えば、仏教用語で、「四苦八苦」という言葉がありますが、この「四苦」とは、「生・老・病・死」を言っています。「生」とは、生きていること自体、肉体的な苦痛、精神的な苦痛が続くこと。「老」とは、老いていくこと、体力、気力など全てが衰えて自由が利かなくなること。「病」とは、様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされること。「死」とは、死ぬことへの恐怖、その先の不安を感じること、と言われています。
毎日、生活の中で起こってくる不安や恐怖、淋しさ、悲しさ、何か心に悩みを持って、人間は、生きています。そして、私たちは、いつも、そこから救われたいと願っています。
パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、神との関係で生まれる罪として、このように言っています。
「彼らは神を認めようとしなかったので、神は、彼らを、無価値な思いに渡され、そのため、彼らは、してはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が、死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は、自分自身を、罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ロマ1:28-2:1)と。聖書は、人が苦しみ、悩むのは、神に背いているからだ、それは、罪のせいだ、と言っています。
そのような罪の中にうごめき、のたうち回っている人々のために、神さまは、そのひとり子を、この世に遣わし、その命と引き換えに、私たちを救ってくださったのだと、聖書は教えます。
かつて、イエスさまは、言われました。「人の子(わたし)は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)
また、パウロは、言います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために、罪を償(つぐな)う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ3:23-25)
私たちが、苦しみを負い、悩みを持ち、魂が救われないのは、神さまの前に罪を犯し続けているからだと言い、その罪を償うために、イエスさまは、私たちが負うべき罪を負って死んで下さったのだとパウロは言います。「わたしたちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ」と言います。
しかし、私たちは、今、約2千年昔に起こった出来事、イエスさまが、十字架の上で、苦しみもだえておられ、イエスさまが息を引き取られる、その死の瞬間に思いを馳せて、それで、あなたは、義とされたのですよ、救われたのですよと言われてと、一方的に言われても、ほんとうに、「私は救われたのだ」と、「神さまの栄光を受ける恵みを受けたのだ」という、そのことを実感することができるでしょうか。
しかし、ここに、イエスさまの十字架上の苦しみと死とに、引き換えに、ほんとうに、目に見えて救われた人が一人いるのです。
約2千年昔、イエスさまの命と引き換えに、誰が見ても、目に見える形で、命が救われた人がいるのです。救われた喜びを実感していた人がいました。
自分が犯した罪のために、自分が罰せられ、死んでも当然だと思っていた人が、イエスさまによって、救われたのです。 ある時、突然、「お前は、罪の鎖から解放された。お前はもう自由だ、さあ、どこへでも行きなさい」と言われ、ほんとうに救われた、自由になった人がいるのです。
それは、「バラバ」です。
マルコによる福音書15章6節から15節に、このように記されています。
バラバとはどんな人だったのでしょうか。マルコ福音書には、「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの仲間だった」とあります(15:7)。マタイ福音書には「バラバ・イエスという評判の囚人がいた」とあります(27:16)。ルカ福音書には「都に起こった暴動と殺人のかどでで投獄されていた」とあります(23:19)。そしてヨハネ福音書には「バラバは強盗であった」とあります(18:40)。
バラバは、暴動を起こし、殺人、強盗を働いた評判の犯罪者で、牢獄に長くつながれていた男でした。いわば、いつ死刑にされても不思議ではない、悪の限りを尽くした極悪非道の、自他共に認める罪人でした。
ユダヤの習慣で、過越の祭りには、囚人の一人を釈放する「大赦」の習慣がありました。
ローマの総督モンテオ・ピラトの所に、イエスさまが引っ張ってこられ時、ピラトは、イエスさまを尋問しました。しかし、どんな罪も認めることができませんでした。
ピラトは、祭司長や祭司、長老や律法学者たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていましから、人々が集まって来たときに言いました。
「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」と尋ねました。
ところが祭司長たちや長老たちが、バラバの方を釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得し扇動し、それに乗っかった群衆は、イエスさまを「十字架につけろ」と叫び続けました。
そのために、バラバは、釈放されました。
悪の限りを尽くした罪人の代表のようなバラバが解放され、反対に、イエスさまが、バラバの代わって、十字架に付けられることになったのです。
イエスさまが処刑されることによって、極悪非道のバラバが、ゆるされた、解放されたという、象徴的な出来事が、聖書に記されています。
1950年に、スエーデンのペール・ラーゲルクヴィストが、「バラバ」という小説を書き、この作品によってノーベル文学賞を受けました。(岩波文庫赤757-1、1974年)
この作品で、この著者は、バラバの、その後の生涯を描くことによって、現代の私たちの姿を、そして、ほんとうの救いとは何かを示そうとしたと言われます。
少しだけその「あらすじ」を紹介したいと思います。
バラバは、真っ暗な牢獄から連れ出され、自分に何が起こったのかわからないまま、釈放されて町に出ると、人々が一つの方向に向かって走っていくのに出会います。その人だかりの中に、一人の男が十字架を担いで倒れながら歩かされているのを見ます。群衆と一緒についていくと、ゴルゴタの丘という死刑場につき、そこで、3本の十字架が立てられ、3人の男が、はりつけになり、ぶらさがっていました。毒づいている両側の男たちには、見覚えがあります。
しかし、バラバは、真ん中にぶら下がっている一番弱々しくぶざまな姿の男のことが気になってしかたがありません。 隠れるようにして遠くから眺めていました。そして、ついに息絶え、墓に運ばれていきました。バラバは、みんなが立ち去ったあと、エルサレムの街に帰りました。
自由の身になって、初めて酒場に入り、隅の方で、酒場の連中が話している中で、あの十字架につけられていた一番ぶざまな男について噂を聞きました。「バラバか、ナザレのイエスか」と言われて、群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫び、自分の身代わりになって、その男が十字架につけられたのだということも、バラバは知りました。
バラバは、その後も、イエスというあの男のことが気になって仕方がありません。何も手につかない。そんな毎日を過ごしていました。
その後、バラバは、昔の仲間のところに戻っていき、また悪事に手を染め、また捕らえられて、今度は、重労働が課せられ、鉱山で働く奴隷にされてしまいます。
地下の暗いところで、逃亡を防ぐために、2人ずつ鎖でつながれ、朝から晩まで、むち打たれ、働かされます。生きながら地獄を見るような生き方をさせられました。その時に鎖でつながれて相棒になったのは、アルメニア人の奴隷サハクという男でした。
否応なく24時間一緒にいなければなりません。働かされている時も、寝ている時も、いつも一緒のこの男から、あのゴルゴタの丘で十字架につけられた男のことを聞きました。
サハクは、その男のことを、イエスという名前だと言い、キリストと言い、神の子だと言いました。サハクは、自分のことをキリスト信者だと言いました。バラバも十字架につけられたその男を見たと、話しました。そしてサハクの首にかかっていた奴隷鑑札に彫りつけてあった、同じ記号を自分の鑑札にも彫ってもらいました。それは、「神の奴隷」という意味でした。
バラバは、サハクから、イエスという男について、いろいろなことを聞き、不思議な出来事が起こったことも教えてもらい、さらに共に祈ることも教えてもらいました。
バラバとサハクは、さらに農耕奴隷として売られ、さらに製粉小屋で働かされ、ローマ人の総督の家に買い取られていきました。そこで、サハクは、キリスト信者であることが知れてしまい、問いつめらます。サハクは、自分は神の奴隷だといい、神を棄てることはできないと言い張り、拷問にかけられた上、十字架に磔にされて処刑されてしまいました。
バラバは、そんな神など信じていないと言って、難を逃れましたが、さらにローマに送られました。
ローマで、奴隷として生活している時、ある日のこと、夜中に、人が走る物音を聞き、「クリスチャンが、ローマの街に火をつけた」、「クリスチャンが暴動を起こした」と叫ぶ声が聞こえました。そして、ローマの街のあちこちから火の手が上がるのが見えました。
バラバは、かつて、サハクから、キリストは、再び来られる。この世の裁き時が来ると、聞いていたことを思い出し、あのゴルゴタの男が戻って来たのだ、約束通り人を救うためにもどって来たのだ、この世を裁くために、今こそ力を示すために来たのだと思いこみ、何とかして、あの人の手助けをしなければ、とばかりに駆け出しました。
もう年老いた奴隷バラバでしたが、若い頃、盗賊、暴徒の頭だったバラバは敏捷でした。一番近い火事場に飛び込み燃え木を手に取り、まだ燃えていない家に火をつけてまわりました。
あの無様な格好で十字架にぶら下がっていたあの方のために、何とか役に立ちたいと思い走り回りました。
そのために、火付けの現行犯として捕らえられ、他に捕らえられたクリスチャンと一緒に再び牢に入れられます。クリスチャンたちは、誰一人火をつけていないと言い張りました。 しかし、バラバは、油の倉に火をつけているところを見られていたので、呼び出されて問い詰められた時、その時、バラバは、自分はクリスチャンだと、言い張ってききませんでした。クリスチャンたちは、次々と磔にされて殺されていきました。そして、バラバもいちばん最後に引き出され、十字架の列のいちばん端に、一人、磔にされました。
夕方になり、暗くなって、見物人も立ち去ってしまった後、バラバだけが、一人生き残ってぶら下がっていました。
死ぬということをあれほど怖れていたのに、死が近いと感じた今、「自分に代わって死んだあの男のために働いたと思う、何ともいえない満足感につつまれていました。」
静かに、彼は暗闇に向かって、話しかけるように言いました。「おまえさんに委せるよ、おれの魂を。」
そして、彼は息を引き取りました。
これは、ラーゲルクヴィストという作家の創作です。
バラバは、イエスさまが、自分の身代わりになってくれたとき、死刑を免れ、解放されて、命は長らえましたが、それは、ほんとうの「救い」だったのでしょうか。しかし、彼を待っていたのは、もっともっと大きな苦難でした。
キリストのことを教えられても、これを否定し、反抗し、悶々として過ごし、最後には、鎖でサハクにつながれました。 このサハクこそ、キリストご自身ではなかったか、と思います。そして、最後まで怖れていた死を、目の前にしながら、すべてを、魂を、あの十字架の上に、ぶざまにぶら下がっていたあの方に委ねたのでした。
ほんとうの「救い」とは何かという、この作品は多くのことを考えさせてくれます。
ゴルゴタの丘で、遠くから十字架を取り巻いて眺めている人々、十字架の下で、イエスさまを見つめている人々、それぞれに生き方があり、人生があり、命があり、恐れがあり、不安があり、喜びがあり、悲しみがあります。
バラバという一人の人物の上に、自分を重ねて見るとき、ほんとうの「救い」とは何かを知ることができます。
そして、すべての人は救われたいと願っています。
そして、今、私たちも、もう一度、あらたな気持ちで、十字架を仰ぎ、自分自身をふり返ってみたいと思います。
〔2018年3月25日 復活前主日(B) 於 ・ 聖ルシヤ教会〕