あの方は復活なさって、ここにはおられません。

2018年04月01日
マルコによる福音書16章1節〜8節  イースターおめでとうございます。  主のご復活を祝い、心から感謝と賛美の声を上げたいと思います。  イエスさまが、ゴルゴタの丘で、十字架につけられ、息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃でした。  あのナザレのイエスという男が、最後には、何か奇跡を起すのではないかと、興味本位でついて来た野次馬も、ぞろぞろと何も起こらなかったので、がっかりして、首をふりながら、帰っていきました。  すでに夕方になり、その日は、安息日の準備の日でしたので、アリマタヤのヨセフが申し出て、提供してくれた墓地に、イエスさまの遺体を納めることになりました。  ヨセフは、亜麻布を買い、イエスさまを、十字架から降ろして、その布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、その入り口には、大きな石を転がして蓋をしました。  イエスさまを慕い、ずっと従ってきたマグダラのマリアと、ヨセの母マリアの2人の女性は、人々が去った後もいつまでもイエスさまの遺体を納めた場所を見つめていました。  当時のこの地方での死者を葬る葬り方は、私たちの習慣とは違います。棺桶とかお棺とかいうものは用いられず、防腐、防臭のために香油を塗り、亜麻布にくるんで、ちょうどミイラのようにして、墓地に安置します。  一週の初めの日、イエスさまが亡くなった日から3日目、日曜日の朝早く、安息日が明けるのを待ちかねて、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまのご遺体の手入れをするために、香料を買い求め、日が出るとすぐに、イエスさまを納めたお墓へ向かいました。  墓は、岩山をトンネルのようにくりぬいて、その先に広くなった所があり、さらに岩をくり貫いて、出窓のような棚になった所に、遺体が安置されています。そして、墓の入口には、石臼を立てたような大きな石で塞がれています。  女の人たちは、「私たちの力では、とうていあの石は動かせませんね、誰かあの石を動かしてくれるような人はいるでしょうか」と心配しながら、お墓へ急ぎました。  お墓について、目を上げると、お墓の入口の大きな石は、わきに転がしてありました。その入口から墓穴に入ると、白い長い衣を着た若者が座っているのが見えました。   3人の女性は、びっくりしました。すると、その白い衣を着た若い人は、言いました。  「驚くことはない。あなたがたは、十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのですか、あの方は復活なさって、ここにはおられません。よく御覧なさい。ここが、その方をお納めした場所です。さあ、行って、ペトロや他の弟子たちに、このことを知らせなさい。そして、『あの方は、あなたがたより先に、ガリラヤへ行かれると、かねて言っておられたとおり、そこでお目にかかれる』と言いなさい」と、このように伝えなさいと言いました。  女の人たちは、ほんとうに、驚きました。言われたように、イエスさまの遺体を安置したはずの、その場所には、遺体はなく、お墓は、空っぽでした。  3人の女性は、墓を飛び出し、一目散に逃げだしました。多分、頭が真っ白になって、自分たちは何をしているのかわからない、何を言っているのかわからない、あわてて逃げ帰りました。あの墓にいた、白い衣を着た若者が、ペテロや弟子たちに伝えなさいと言われたことを、彼女たちは、誰にも何も言いませんでした。彼女たちは、「正気を失っていた」と、マルコによる福音書は、伝えています。  これが、イエスさまが「復活した」という出来事、空っぽになっていた墓の、第一発見者の最初の状況でした。  マルコによる福音書は、イエスさまが亡くなって、35年後ぐらいに書かれた福音書ですが、そこには、まだ、これだけしか書かれていません。  その後に書かれたマタイ、ルカ、ヨハネによる3つの福音書では、最初に、空っぽの墓を発見した女性たちから、報せを聞いて、11人の弟子たちは、お墓に駆けつけ、いずれもお墓が空っぽだったことを見届けたと記されています。  その後、さらに時間が経って、弟子たちがいる所に、復活したイエスさまが、たびたび現れ、「わたしだ、わたしだ」と言って、ご自身を示しになりました。  生前、イエスさまは、弟子たちに、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている」と、死んで、よみがえるであろうことを、弟子たちに予告されました。(マルコ8:31、9:31、10:32)3度も予告された(マタイ16:21-28、ルカ9:22-27)と、記されています。  その時は、ペトロが、イエスさまをわきへ連れていって、「そんなことは、言わないでください」と言って、いさめました。イエスさまは、振り返って、弟子たちを見ながら、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と、ペトロをきつく叱られたというようなことがありました。  空っぽの墓を見ても、よみがえったイエスさまがたびたび姿を現されたことにしても、弟子たちは、最初は、それを信じることができませんでした。受け入れられませんでした。  しかし、時が経つにつれて、生前に、イエスさまが言われたこと、なさったことを、だんだんと思い出し、信じることができるようになりました。  このようにして、イエスさまがよみがえられたという事実が受け入れられるようになり、さらに、十字架と復活への信仰から、ふり返って、イエスさまの生涯や、教えられたことを思い出し、多くの人たちがこれを信じ、また、福音書として書き記され、伝えられてきました。  パウロは、生前のイエスさまには、一度も会ったことがありません。それよりも、かつては、熱心なユダヤ教徒で、キリスト教信徒に対して、迫害する側の熱血漢でした。  パウロは、生前のイエスさまに、直接お会いしたことがありません。ある時、パウロが、ダマスコへ行く途中で、突然、天から光が射し、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえ、目が見えなくなったという体験をしました。(使徒言行録9:1〜)  このような聖霊体験の後、パウロは、誰よりも熱心なクリスチャンになり、地中海沿岸の各地に、伝道旅行をし、キリストの福音を宣べ伝える人になりました。  このパウロは、先ほど言いましたように、生前のイエスさまには一度もお会いしたことがありません。さらに、他の使徒たちと違って、空っぽのお墓を、自分の目で見たこともありません。しかし、誰よりも強く、主イエスの復活を信じ、復活を信じることの大切さを説きました。  そして、イエスさまの弟子たちや、パウロが信仰を持った時代から約2千何が経った今、私たちは、あらためて、イエス・キリストのご復活を記念し、感謝すると共に、復活の信仰を深めたいと願っています。  今年のイースターを迎えて、大切なことを3つ挙げて、知って頂きたいと思います。  第1に、キリスト教は、復活の宗教であるということです。  第2に、イースターは、よみがえりのイエスさまとの新しい「出会い」の時であるということです。  第3に、私たちも復活するのだということです。  この3つことを、心にしっかりと覚えて頂きたいと思います。  第1に、キリスト教は、復活の宗教であるということです。  パウロは、コリントの信徒への手紙一15章12節以下に、このよう書いています。  「キリストは、死者の中から復活したと、宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと、言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そしてキリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄である(空しい)し、あなたがたの信仰も無駄(空しいの)です」と。(コリント第一15:12-14)  さらに、言います。  「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは、今もなお、罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。」(同15:17-18)と。  パウロは、「イースター」に、すべてをかけています。  パウロが語っていることは、正しいことです。なぜならば、「キリスト教は、復活の宗教だから」です。  復活の宗教であるキリスト教は、約2千年昔、エルサレムの郊外にある墓地の「空っぽの遺体置場」から始まりました。  ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりのユダヤ人が、十字架にかけられ、死にました。その時、昼の12時ごろから、全地は暗くなり、それが3時頃まで続いた(マタイ27:45)とあります。その暗闇が象徴しています。もし、キリストがよみがえらなかったら、暗闇は、希望も愛もない、真っ暗闇のままでした。  もし、キリストがよみがえらなかったら、今日の教会はありません。私たちも、ほんとうの神さまを知らず、ほんとうの愛も知らず、私たちに、希望も、救いもありません。  復活の光は、全地をおおう深い暗闇を切り裂いたのです。  イエスさまが、よみがえったということを、「誰が証明できるのか」という人がいます。  それに対する答えは、「それを証明できるかどうかではなく、神さまから私たちに与えられている『自由』にあるのだと」ということができます。神さまが、私たちに与えた自由とは、私たちの意志で、何かを選ぶか選ばないかを決めることができる「自由」です。イエスさまを選ぶか、選ばないか。イエスさまを、キリストと呼び、信じるか、信じないか、そのどちらを選ぶか、私たちに、選択する自由が与えられているということです。  私たちは、キリストのご復活を、現在の人々が好む、科学的な方法で、証明することができなくても、私たちは、私たちの意志で、復活を知ることができます。私たちの意志で、復活を信じることができます。よみがえりの信仰を持つことがでるのです。  「主は、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえられたのです。」と、私たちは、このように信仰告白をします。キリスト教は、復活の宗教です。  第2に、イースターは、よみがえりのイエスさまと、新し い「出会い」の日です。  私たちは、今、よみがえられたイエスさまと、もう一度、きちんと「出会って」いるでしょうか。  主のご復活と、向き合って「出会って」いるでしょうか。  私たちは、日常の生活の中で、毎日、いろいろな人と出会い、また、いろいろな「出会いかた」があります。  赤ちゃんが生まれて、お母さんが、「こんにちは、赤ちゃん、わたしがママよ」という、親子の出会いがあります。  幼稚園や、保育園に行くようになって、先生やお友だちと出会う、出会いがあります。小学校、中学校、高等学校と、大きくなるにつれて、多くの人と出会い、友情で結ばれる出会いがあります。男性と女性の出会いがあって、愛を育むような出会いがあります。表面的に「その人について」ではなく、その人を、人格として、心で知っているという知り方です。親子であり、兄弟であり、恋人であり、夫であり、妻である、自分の人生に深く関わる、愛とか友情とかで結ばれている関係です。  その一方で、ただ、名刺を交換し合い、相手のことを表面的に知っているだけ、近所に住んでいて、顔だけは知っている、挨拶をするだけというような出会いもあります。その関係は、「その人について」知っているだけ」という関係です。名前や顔、肩書きや職業は、知っている、知識として知っているけれども、生きていく上で、それほど深く影響し合っていない関係です。  「イエス・キリストの復活」についても、ああ、知っている、聖書のどこどこに書いてある、イースターは、キリスト教のお祭りの一つだというぐらいの知り方は、復活について知識として知っているだけで、その人の、生き方や人格にかかわってきません。  これに対して、「主の復活」が、自分の生き方にかかわり、よみがえったイエスさまに、ほんとうに「出会う」知り方です。その関係は、「愛」によって表されるような関係です。  大切なことは、「イースターについて知っている」「イエス・キリストの復活ついて聞いたことがある」というゆような表面的な関係ではなく、よみがえったイエスさまに出会っているかということです。  よみがえったイエスさまは、今、ここにおられるのです。今、この礼拝の中におられるのです。ご自身の手の釘跡を見せ、わき腹の傷跡を示しながら、「わたしだ、わたしだ」と言い、「聖霊を受けなさい。あなたがたに、平和があるように」と言って、私たちの前に立っておられるのです。  かつて、イエスさまは言われました。  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、はっきりと言われたのです。(マタイ28:20)  第3に、私たちも復活するのだということを知って頂きたいと思います。  私たちは、死んだあと何処へ行くのでしょうか。ほんとうに天国ってあるのでしょうか。黄泉の国ってあるのでしょうか。私たちが死んだ時には、体、肉体は、土になる、灰になるのはわかっているのですが、私たちの霊魂は、どこへいくのでしょうか。だんだんと年を取り、死ぬ年令に近くなると、そのようなことが気になります。  一昨年に亡くなった放送作家の永 六輔さんの「二度目の大往生」という本に、こんな言葉がありました。  「人間は、病気で死ぬんじゃない。寿命で死ぬんだよ」  「友人が、がんセンターに入院した時、同室になった老人から聞いて感動したことばである。」と注記がついていました。  私はこれを読んで思わず、「なるほど」と思ってしまったのですが、後日、「寿命」という言葉を辞書で引いてみました。広辞苑では、寿命とは、「命のある間の長さ」と記されています。それでは、その「命の長さ」は、誰が決めるのかと、考えてみると、やはり、私たちの命を支配する目に見えない大きな力があることを認めざるをえません。すなわち、神さま、ということになります。  イエスさまは、私たちに、このように約束して下さいます。「わたしは復活(よみがえり)であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と。(ヨハネ11:25)  パウロは、コリントの信徒への手紙に、このように言います。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(コリント一15:22)  また、「あなたが蒔くものは、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」(コリント一15:37、38) 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(コリント一15:42-44)  キリストがよみがえられたように、私たちも、イエス・キリストに従う者として、キリストと共によみがえるのです。よみがえらせて下さるのです。  私たちは、洗礼を受け、イエス・キリストにつながる者となりました。そして、復活のキリストを「かしら」とする教会のメンバーとして、魂の養いを、恵みを、受けています。そして、キリストにつながる者として、私たち自身がよみがえらせていただく希望を持ち、私たちも復活することを確信することができるのです。  キリスト教は、復活の宗教であるということ。  イースターは、よみがえりのイエスさまと、改めて新らた な気持ちで「出会う」時であるということ。  そして、私たちも、かならず復活するのだということ。  このことを、もう一度、確認したいと思います。  よみがえったイエスさまは、今も、私たちと共におられます。主の聖餐に与り、感謝と賛美の声を上げましょう。 〔2018年4月1日 復活日(B年) 於 ・ 川口キリスト教会〕