見ないのに信じる人は、幸いである。

2018年04月08日
ヨハネによる福音書20章19節〜31節  あらためまして、イースターおめでとうございます。  先週の主日には、新たな気持ちで、主のご復活をお祝いされたことと思います。  主のご復活の日から一週間が経ちました。その頃のイエスさまの弟子たちの時代、そこではどんなことが起こっていたのか、今日の福音書から、ご一緒に学びたいと思います。  死んだ人が、よみがえるということは、ふつうの常識では考えられない大変なことです。  そのような中で、「キリスト教は、『復活の宗教』である」と言われます。世の中には、無数の宗教がありますが、教祖というか、教主ともいうべきイエス・キリストが、十字架につけられ、死んで、よみがえったという宗教は他にありません。  大勢の人々が見つめる前で、イエスさまは、十字架につけられ、苦しみもだえながら、息を引き取られました。完全に死んだのです。そしてそのイエスさまが、完全に復活した、よみがえったというのです。  もし、このキリストが、イエスさまが、復活することがなかったら、キリスト教は、存在していません。世界中にある教会も、世界の人口の32パーセントといわれる信徒もいません。そして、私たちが、今、一生懸命信じている信仰も、空しいもの、なかったことになります。  キリスト教の教会の歴史は、約2千年続いていますが、その最初の教会、教会ができる前の、弟子たちやイエスさまに従った人々は、それでは、すぐにイエスさまがよみがえったという出来事を、事実として受け入れ、すぐに信じることができたのでしょうか。  イエスさまが、十字架の上で息を引き取られ、十字架から降ろされ、布に包まれて、お墓に葬られたのは、金曜日の夕方でした。  安息日であった土曜日をおいて、次の朝、日曜日の朝早く、マグダラのマリアや、その他の婦人たちが、イエスさまの遺体の手入れをするために、イエスさまを安置したお墓へ急ぎました。ところが、お墓の入口の石は取り除けられており、お墓の中は、空っぽでした。  そのお墓のそばに、白い衣を着た天使のような人がいて、「あの方はよみがえられた」と告げました。婦人たちは、びっくりして、弟子たちのいる所に走り、イエスさまのお墓が空っぽだったことを報せました。ペトロをはじめ弟子たちも、びっくりして、お墓に駆けつけました。しかしそこで、弟子たちも、やはりお墓が空っぽであったということを見届けただけでした。  ヨハネによる福音書では、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、彼らは、まだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」とあります・  このように、4つの福音書では、それぞれに、空になったお墓を見た人たちのことを記しています。  まず最初は、女性たちも、弟子たちも、「恐れを感じ」て、震えあがったと記されています。  その次に、彼らは、白い衣を着た人、また天使のような人に、「主イエスは、よみがえった」と告げられても、信じられなかったと記されています。  さらに日が経ち、時間が経つに従って、「そんなことはあり得ない」と考える人々からは、あることないこと噂され始めたことが伺えます。  その一つの説は、第一発見者であるマグダラのマリアが、弟子たちのところへ走って行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と告げました。(ヨハネ20:2)  マタイの福音書では、「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は、都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは、長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて言った。「『あの弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もし、このことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」(マタイ28:11-15)  このように、聖書に、わざわざこのようなことが記されていることからすると、イエスさまは、よみがえったのではない、弟子たちか、墓盗人か、誰かが、夜中に、遺体を持ち去った、または遺体を何処かへ移動させたのだという噂が広まっていたことがわかります。  もう一つの噂は、復活したイエスさまが、たびたび、人の前に現れたということに対してです。  「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。(マタイ28:8-10)  また、ルカ福音書によると、2人の弟子たちが、エマオに向かう途中、復活したイエスさまが現れ、一緒に歩き、聖書の話を聞き、同じ宿に泊まり、食事の時に、パンを取り、賛美の祈りを唱え、これを裂いて、弟子たちにお渡しになったということが伝えられました。(ルカ24:の13)  これらの出来事は、それは、主イエスがよみがえられたのだというのではなく、弟子たちが、幻か、幽霊でも見たのだろうと、あざ笑う人たちがいました。  このような誤解に対して、初代教会は、なんらかの形でその誤解を解き、批判を退け、弁明しようとしているのが、今日の福音書、ヨハネによる福音書の20章19節から29節の記事だと思われます。  イエスさまが、よみがえられたその日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて、息をひそめていました。  自分たちも捕らえられるのではないかという恐怖と、イエスさまについて来たけれども、何の奇跡も起こらず、自分たちの見守るまえで、亡くなってしまった。  弟子たちは、恐怖と、絶望のどん底にいました。  「家の戸に鍵をかけて」という言葉には、自分たちの安全のことだけしか考えられない弟子たちの気持ちが伺えます。  そこへ、イエスさまが、入って来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。 そこには、「鍵を開けて」とか、「戸の隙間から」というような説明はありません。それどころか、「あなたがたに平和があるように」と言って、手と、わき腹の傷跡をお見せになりました。「わたしだ、わたしだ」と、復活したイエスさまは、ご自身が、幻でも、幽霊でもないということを、自ら証明しておられます。  弟子たちは、復活したイエスさまを見て、喜びました。  さらに、もう一度、イエスさまは言われました。  「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしも、あなたがたを遣わす。」と。  そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。  「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが、赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。  「あなたがたに平和があるように」これは、ヘブライ語で、「平安、平和」の意味です。イスラエルの人々は、今でも、「シャローム」と言って、この言葉で挨拶を交わしています。しかし、イエスさまが、ここで語られている言葉は、単に「こんにちは、こんばんわ、さようなら」というあいさつではありません。 イエスさまは、かつて、弟子たちに向かってこのように教えられました。(ヨハネ14:26,27) 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが、話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が、与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と。  恐怖と失望のどん底にいる弟子たちに向かって、「安心せよ、恐れるな、神が共におられる」。(士師記6:23)「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい」と、いうメッセージが込められた言葉でした。  さらに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしも、あなたがたを遣わす」と言って、弟子たちを、世界中に使徒として派遣するという使命を、お与えになりました。  すべての戸や窓に鍵をかけて、息をこらして、うずくまっている状態の弟子たちに向かって、「立ち上がれ、さあ出て行きなさい」と命じられたのです。  そのように言ってから、彼らに、弟子たちに、「息」を吹きかけて、言われました。「聖霊を受けなさい」と。  「聖霊」は、ヘブライ語で、「ルアハッ」と言います。ギリシャ語では「プネウマ」と言い、この一つの言葉の中に、「息、呼吸、風、霊、霊魂」すなわち目に見えない力という意味を持った言葉です。神さまの目に見えない力を受けなさいと、言って、弟子たちを、前に押し出されました。  そして、さらに、「だれの罪でも、あなたがたが、その罪を赦せば、その罪は、赦される。だれの罪でも、あなたがたが、赦さなければ、赦されないまま残る」と言って、罪を赦す特権を弟子たちにお与えになりました。ほんとうに、人々の罪を赦すことができる力を持つのは、神さまだけです。  神さまと、イエスさまにだけできる特権です。それを、特別に選ばれた弟子たちに、使徒たちにゆだねられたと考えられています。  さて、ここで、もう一人の人物が登場します。  それは、イエスさまの12人だった弟子たちの一人、ディディモと呼ばれるトマスという人でした。  「ディディモ」というのは「双子」という意味なのですが、トマスが双子であったかどうかわかりません。  弟子たちが集まっている所に、よみがえったイエスさまが現れて下さったその時に、このトマスは、たまたま、何処かに出かけていて、その場にいませんでした。  そこで、ほかの弟子たちが、「よみがえったイエスさまが、われわれが居る部屋に来られた。わたしたちは、復活したイエスさまにお会いした。イエスさまを見たのだ」と言って大騒ぎしています。外から帰ったトマスは言いました。  「(そんなことは、あるはずがない。) もし、あの方だったら、その方の手に釘の跡があるはずだ。それを、自分の目でを見て、この指をその傷跡に入れてみなければ、わたしは、信じられない。また、もし、それがイエスさまなら、槍でわき腹を突き刺された傷跡があるはずだ。ほんとうのイエスさまかどうか、この手を、そのわき腹に入れてみなければ、わたしは、決して信じられない」と、頑強に言い張りました。  さて、そのことがあってから、さらに次の週、8日が経った後、その日も弟子たちは、また、家の中に居ました。その日は、トマスも、他の弟子たちと一緒にいました。  その日も、すべての戸や窓には、鍵がかけられていました。そこへ、再び、イエスが現れて、弟子たちの居る真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。それから、トマスに向かって言われました。  「あなたの指を、ここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れてみなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われました。トマスは、びっくりして、ひざまづき、思わず口走りました。「わたしの主、わたしの神よ」と。  「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、信仰を告白する言葉です。そこで、イエスさまは、トマスに言われました。「わたしを、見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。このことから、12弟子の一人、トマスは、懐疑主義者トマス、実証主義者トマスと、言われています。  何でも科学的な証明を求め、目で見える物しか信じない、数字で表されるようなものでなければ納得しない現代人である私たちは、なぜかトマスにすり寄っていきたいような親しみを感じるのではないでしょうか。  イエスさまが、よみがえられたという出来事に対して、そんなことは信じられない、空っぽのお墓を見た弟子たちや、女性たちが、幻か、幽霊でも見たのだろうと、あざ笑う人たちに対して、初代教会が、主イエスのご復活に対する誤解や批判を退け、弁明しているのですが、トマスは、そのために大きな役割を果たしたということができます。  イエスさまは、トマスに向かって、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言い、また、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。これに対して、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、心から信仰を告白しました。  最初に言いましたように、「キリストは、キリストの復活を信じる宗教、復活の宗教」です。  主のよみがえりの様子を、証明することはできません。  しかし、私たちは、「信じること」はできます。ただ、わかった、わかったと、知っているつもりで、この復活節を過ごすのではなく、信じる者として、主のご復活に向かい合いたいと思います。イエスさまは言われます。「わたしを、見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。 〔2018年4月8日 復活節第2主日(B) 於 ・ 大津聖マリア教会〕